内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

中心と周縁(5)― 生命主義の哲学の致命的欠陥

2015-11-06 07:24:12 | 哲学


 ミッシェル・アンリが自然科学のそれぞれの分野を個別に立ち入って検討・批判できるだけの知識を持っていたとは、『野蛮』を読んでも、その他の著作を読んでも、到底思えない。ガリレオによって創始されたという幾何学的・数学的世界像が、そこから感覚世界・主観性・生命を排除する、あるいは少なくともそれらを過小評価するという同じ批判をいたるところで繰り返すだけである。この手の科学批判は、大体において、批判している本人が実際の科学的探究の現場やその成果について無知であるからこそできる、向こう見ずで図式的なもので、同書の初版が出版されるや、多くの批判に晒されたのも当然のことだと私は思う。
 アンリが批判しているのは、実のところ、本物の科学知ではなく、すべての認識を科学的知見に還元しようとする「科学(万能)主義」に過ぎない。だから、その批判内容そのものから私たちが学ぶべきことはほとんどないに等しい。それより、その科学(万能)主義批判を通じてアンリが何を擁護し守ろうとしているのかだけを見ておこう。その守ろうとしているものがアンリの哲学の核心的部分そのものにほかならないからである。
 「近代における学知と文化の乖離」という、大仰なだけで中味の乏しい不毛な図式は、前者が生命を否定・排除し、後者の唯一の源泉は生命である、という認識に基づいている。

Car, enracinée dans la vie, dans son mouvement incessant de venir en soi, de s’éprouver soi-même et ainsi de s’accroître de soi, la culture n’est que l’ensemble des réponses pathétiques que la vie s’efforce d’apporter à l’immense Désir qui la traverse. Et cette réponse, elle ne peut la trouver qu’en elle-même, dans une sensibilité qui veut sentir davantage, se sentir plus intensément — comme il advient dans l’art — ; dans une action qui permette à ce grand désir d’accroissement de s’accomplir selon des voies qui lui soient conformes — comme il advient dans l’éthique — ; dans l’épreuve, enfin, que la vie fait d’elle-même en ce Fond mystérieux d’où elle jaillit et ne cesse de s’étreindre soi-même — comme il advient dans la religion (La barbarie, op. cit., p. 3).

 要するに、生命とは、自足的・自発的・自展的なものであり、それは「巨大な欲望」(«l’immense Désir »)であり、文化とは、生命がその欲望に与えんとする種々の熱情的回答の全体(« l’ensemble des réponses pathétiques »)だというわけである。これと同類の表現は、同書の中に限らず、他の著作のいたるところで、様々に変奏されながら、それこそ果てしなく繰り返される。
 それ自体で己自身を全的に直接的に、したがって無媒介に肯定し、ただひたすらに自己贈与によって自発自展していくものに根拠を置く、このような生命思想は、その生命を脅かすもの、否定するものに対して、まさに己自身を守るために、容赦のない苛烈な批判を発動させるが、己自身に対しては、致命的に、一切の批判契機を欠いている。
 このような「自足的」生命思想に、中心と周縁との間の対立、ダイナミズム、相互媒介を積極的に思考する契機は見出し得ない。言い換えれば、周縁あるいはその外から到来するであろう、己に対して他なるもの・異なるもの・未知なるものを受容することは金輪際あり得ない。

Mais la vie est toujours là. Contre le procès inlassable de sa venue en soi nul n’a pouvoir. De cette venue en soi selon les modes pathétiques du souffrir et du jouir où la vie s’accroît et se gonfle d’elle-même, surgit l’immense Énergie qui s’accomplit et s’apaise dans les formes hautes de la culture. Que celles-ci tombent en désuétude, l’Énergie devenue inemployée n’est pas seulement malaise : parce que sa force n’a pas disparu pour autant mais se redouble au contraire, se déployant au hasard et sans but, elle engendre une violence irrépressible (ibid., P. 5-6).

 自足的な生命が己自身に歯向かうことがあるとすれば、それはいかなる意味でも科学自体の責任ではない。生命の一つの発現である或る文化が、同じく生命の発現である他の或る文化と衝突しないという保証はどこにあるのか。もし生命そのものが己自身を滅ぼそうとする契機を本質的に内在させており、その契機がいつ発動するかについて人類はまったく制御できないとすれば、科学あるいは科学主義を批判したところで何になろう。私たちにできることといえば、自分たちが生命の主であると誤って思い込まなように、そのような誤った思い込みに私たちを導こうとするあらゆる言説を見破る注意深さを保持し続けること、そのために知性と感性とをより鋭敏にする努力を続けることではないであろうか。