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1987年に La barbarie の初版が刊行されたとき、同書は、フランス国内でかなり反響を呼び、また激しい批判も引き起こした。著者であるミッシェル・アンリを招いて同書を巡っての公開テレビ討論が行われたりもした。
その映像の一部を、昨年だったか、一度 YouTube で観たことがある。その中で、アンリは、ガリレオに始まる近代科学知と文化との乖離について、同書の中で展開している自説を説明し、それに対する他の出席者の疑問や批判に答えようとしていたが、それらの出席者たちの拒絶的とも言える無理解に対して半ば絶望的な表情を見せ、いささか苛立ってもいたように見えたのが印象的だった。
初版の邦訳は、早くもその三年後の1990年に出版されており、この翻訳が日本の一般読者へのミッシェル・アンリ紹介の先駆けとなった。それ以前に出版されているアンリの主著に先立って同書が翻訳された理由は、その内容からしてそれを思い量ることは難しくはないが、商業的にはアンリの著作の中で最も成功した一冊ではあっても主著とは言えない同書の翻訳をまず読むことで、アンリの哲学について誤ったイメージを抱いてしまった日本の読者も少なからずいたのではないかとも恐れる(本国フランスでも多かれ少なかれ同じようなことが起こったと言えるかもしれない)。
私自身は、留学前の1995年のことだったと思うが、当時実家の二階の借家スペースに家族四人で住んでいたCNRSの研究者でナノテクノロジーの専門家だったフランス人と同書について少し議論した覚えがある。彼は、やはり科学者ということもあり、アンリの実際の科学研究の現場についての無知に対して批判的であった。それは無理からぬ反応であったと思う。
今回の記事では、2001年にPUFから « Quadrige» の一冊として再刊行された同書第二版に付されたアンリ自身による序文を読んでみよう。まず、その冒頭である。
Ce livre est parti d’un constat simple mais paradoxal, celui d’une époque, la nôtre, caractérisée par un développement sans précédent du savoir allant de pair avec l’effondrement de la culture. Pour la première fois sans doute dans l’histoire de l’humanité, savoir et culture divergent, au point de s’opposer dans un affrontement gigantesque — une lutte à mort, s’il est vrai que le triomphe du premier entraîne la disparition de la seconde (p. 1).
ここで言われている「学知」(« savoir »)は科学的認識一般を指し、「文化」(« culture »)は、私たちが五感で感じる世界の中の様々な創造物の総体を指している。同書の出発点となっているのは、私たちが生きる現代は、学知の未曾有の発展が文化の崩壊を伴っているという逆説的な時代であるという認識である。今や、おそらく人類史上初めて、学知と文化とが乖離し、両者は対立するに至っており、前者の勝利が後者の消滅をもたらすかも知れないと警鐘を鳴らしているのである。
アンリは、同書においてばかりでなく、他書においても度々、この学知と文化との乖離の起源が十七世紀のガリレオに始まると主張している。その認定の当否は差し当たり脇に退けて、なぜこの乖離が起こったとアンリが考えているかを見ておこう。
La connaissance géométrique de la nature matérielle — connaissance qu’il est possible (Descartes le démontre sans tarder) de formuler mathématiquement —, tel est le nouveau savoir qui prend la place de tous les autres et les rejette dans l’insignifiance (ibid.)
物質的自然の幾何学的認識 ― 数学的に定式化可能な認識(まもなくデカルトがそれを証明する)― これが新たな学知であり、それが他のすべての知に取って替わり、それらを取るに足らぬものとして排除する。しかも、この新しい認識がもたらした世界像の転換は、単に学問的な領域に限られた出来事ではなく、私たちが生きる世界そのものを変えていく。その新しい世界が「近代」(« modernité »)である。
こうアンリは見ているわけであるが、このような極端に単純化された科学史観に対して激しい反論が沸き起こったのも無理からぬことだと思う。
しかし、私たちは、近代科学知に対するこのような断固たる(頑迷固陋なとまでは言わないでおこう)態度がアンリのどのような哲学的直観に由来するのかまで見届けておこう。