リセの哲学教師としての最初の任地 Mont-de-Marsan からの書簡群は、期間にして十ヶ月弱の間に書かれ、数にして九十七通、量にして同書簡集全体の約三割を占めている。この期間のレヴィ=ストロースの生活について知ることができる他の資料の乏しさからも、これらの書簡は貴重な情報源だとも言えるが、何か伝記上特筆に値する出来事が語られているわけではない。購入する車の選択、当時夢中になり始めた写真機の話、手料理のレシピの事細かな記録など、その筆まめなことには驚かされる。この任地からの最後の書簡はの日付は、1933年6月16日と推定されている。
同年の9月1日付で、レヴィ=ストロースは、第二の任地ラン(Laon)に任命される。同地は、パリの北東約120キロに位置し、当時でもパリから電車で一時間半ほどであった。しかも、同校での担当授業数・時間は他の地域のリセに比べて少なく、かつそれらを教師の都合に合せて二三日にまとめてしまうことができたので、当時、パリに暮らす若き哲学のアグレジェたちに人気の任地の一つであったという(因みに、1936年、レヴィ=ストロースが同地での任期を終えてから一年半後に、サルトルがそのポストについている)。
その1933年に、夫の協力を得て哲学のアグレガシオンを準備していた妻ディナもアグレジェとなり、アミアンに任命される(昨日の記事では、レヴィ=ストロースが最初の任地に赴いたときにすでに彼女もアグレジェであったかのような記述になっていたので、ここに訂正しておく)。
このラン時代には両親宛の書簡がないのは、レヴィ=ストロースがパリの両親の家から任地に毎週通っていたからである。週の前半にすべての授業をまとめてしまい、後半と週末はパリで、アミアンで同じく週の前半に授業をまとめた妻と両親の家で過ごした。それぞれ任地ではホテル暮らしであった。
1933年10月から翌年暮までの一年二ヶ月のランのリセ哲学教師時代に、25歳のレヴィ=ストロースの以後の人生にとって決定的な転機が訪れる。もしその転機が訪れず、リセで哲学教師を続けていたら、後の偉大なる人類学者は誕生しなかったと言っても過言ではないであろう。その転機は、1934年の秋に訪れる。そのときのことについては、二十世紀の名著百冊中の一冊に数える人も少なくないであろう『悲しき熱帯』の第二部第五章の冒頭で、レヴィ=ストロース自身が語っているので、よく知られれている。日本人にとって幸いなことは、同書には川田順造先生の名訳があることである。ここには原文を引いておく。
Ma carrière s’est jouée un dimanche de l’automne 1934 à 9 heures du matin, sur un coup de téléphone. C’était Célestin Bouglé, alors directeur de l’École normale supérieure ; il m’accordait depuis quelques années une bienveillance un peu lointaine et réticente : d’abord parce que je n’étais pas un ancien normalien, ensuite et surtout parce que, même si je l’avais été, je n’appartenais pas à son écurie pour laquelle il manifestait des sentiments très exclusifs. Sans doute n’avait-il pas pu faire un meilleur choix, car il me demanda abruptement : « Avez-vous toujours le désir de faire de l’ethnographie ? – Certes ! – Alors, posez votre candidature comme Professeur de sociologie à l’Université de São Paulo. Les faubourgs sont remplis d’Indiens, vous leur consacrerez vos week-ends. Mais il faut que vous donniez votre réponse définitive à Georges Dumas avant midi. » (Claude Lévi-Strauss, Tristes tropiques, Pocket, coll. « Terre humaine / Poche », 1984, p. 47)