古代ギリシアの都市国家でダイエットが大流行し、それが過熱して行き過ぎたダイエットという社会現象を引き起こしたのは、まるで現代と同じである(つまり、人間は、この二千五百年間、少なくともこの点に関して、まったく進歩していない、ということですね)。
そして、その行き過ぎたダイエットに対する批判も、すでに古代から始まっている。哲学者たちもこの問題について黙ってはいなかった。どのような点を哲学者たちは特に批判したのであろうか。
ダイエットの専門家たちは、体に関する法則に適っていることだけが目的であるような生き方を勧める。そこに哲学者たちの批判は集中する。プラトンなどは、ダイエット療法を医学の一部として認めることさえ拒否している。体のことばかりを気にする行き過ぎた「健康第一主義」が、徳ある生活の妨げになると批判している(プラトン『国家篇』第三巻参照)。
体の健康ばかりを気遣うことがもたらす最も嘆かわしい結果は、プラトンが言うには、真の自己すなわち魂に関する省察と実践、つまり、まさに哲学することそのことが困難になるということである。なぜなら、体のことで頭が一杯なのに、さらに魂のことについて考えたりしたら、頭を疲れさせるだけだし、目眩を引き起こすかもしれないし、そんな体に良くないことが起るのは哲学そのもののせいだと、ダイエットにうつつを抜かしている人たちは安易に考えてしまいがちだからである。
彼ら・彼女たちは、体のことばかりを考え、体のどこかが具合が悪いとそのことばかりが気になる。そんな状態だから、自らの行いの善し悪しなど、できるだけ考えないようにあらゆる手段を尽くす。つまり、身体的「健康第一主義」の人たちは、哲学から最も遠い人たちなのである。
そればかりではない。とにかく自分の体のことしか考えず、自分の魂の配慮さえ怠って顧みない人たちなのであるから、当然のこととして、他者に無関心になる。ましてや、政治など、どこ吹く風、ということになる。
このような「健康人」の危険は、いとも容易く政治家のまやかしの言説を信じこんでしまうことである(問題はもちろんそれだけではないが、その他の点についてはここでは触れない)。自分に考えさせようとする「耳障り」な言説(哲学はその最たるものですね)は、一切これを避け、「体にいいこと」ばかりを求めているのであるから、「耳に心地よい」言説には、たちまちうっとりとしてしまう。
民衆を自分たちの利権に都合よく操作しようとする悪しき為政者たちは、皆そのことをよく知っている。現代日本にもそういう為政者たちがいることを私が今さらここで言う必要はないであろう。