「中心と周縁」というテーマを、自然と人為の関係という問題として考えるにせよ、環境問題を考えるための概念的枠組みとして捉えるにせよ、私たちが最初に思い浮かべがちなイメージは、水平方向に広がる地表における中心部と周縁域ではないだろうか。中心部から周縁域を遠望するにせよ、周縁域のある地点から中央を見返すにせよ、あるいは、上空から両方を俯瞰するにせよ、いずれの場合も、中心と周縁は、同じ地表面に属しているものとして考えられがちではないだろうか。単純化して言うと、どうしても円のイメージがモデルとしてまず浮かびがちなのではないだろうか。
このような傾向は、「周縁」の語義「もののまわり、ふち」からして当然のことだとも言えよう。それゆえ、現実の世界の中での「中心と周縁」が問題とされるときも、円をモデルとして表象された同じ地表上で「中心」と「周縁」とがそれぞれに占める位置の価値的差異あるいは格差が、政治・経済・流通・交通・文化・軍事・外交・環境など、様々な分野で論じられることにもなるのであろう。
では、この円という表象の替わりに、球という表象を思考モデルとしてみたら、どのようなヴィジョンが得られるだろうか。
その球の中心を通る水平面を私たちが生きているこの地表だとしよう。そして、私たちがその中で生きている世界を球体と考え、その球面およびそれに直接する層を「周縁」と呼ぶことにしよう。いわば地動説から天動説へという反「コペルニクス的転回」を時代錯誤的に実行するという思考実験を敢えてしてみようというわけである。
この前提に立って、思考の軸を水平方向から垂直方向に転じてみよう。すると、世界の「中心」に立っている私たちが見上げる空もまた「周縁」である。世界の「中心」を占める私たちが立つ大地の下、地底深くを流動するマグマ、重なり合う岩盤もまた「周縁」である。
人類が生産した機械類が吐き出すガス、あるいはそれらを生産するときに吐き出されるガスによるオゾン層の破壊が「周縁」で進行中の事態であることは周知の事実である。地底の岩盤間の運動という、人類には制御不能な自然現象も「周縁」で頻繁に起こっていることを地震国の住民はよく知っている。それに対する人間による不十分な、そして誤った措置が、私たちが棲まう地表の一部を取り返しのつかない仕方で汚染してしまったのは、ついこのあいだのことである。
思考の軸をこのように垂直方向に転ずることで否が応でも見えてくるのは、地球の「中心」を占めている人類の生存は、「周縁」との間の危うい均衡の上にしか成り立っていないにもかかわらず、脆弱な「周縁」を自ら破壊し、畏怖すべき「周縁」の警告に耳を傾けようとしない人間の底知れぬ無明である。