あるテーマ或いは問題について考え始めるとき、私たちは、我知らず、暗黙の前提に拘束されがちである。その結果として、最初から思考が一定の方向に傾きやすい。そうなるようにと何者かによって意図的に「罠」が仕掛けられていることも稀ではない。あるいは、「同じ」テーマについて話し合っているつもりでいながら、実のところは、それぞれに前提が違うので、いつまでたっても話が噛み合わず、終始平行線のままなどという不毛な結果に終わることも、けっして少ないとは言えないであろう。
そのような思考の「自然な」傾向性に対して、少なくとも議論の出発点において中立的であり、さらには、意図的に仕掛けられた「罠」に陥らないようにするための手段の一つは、与えられた問題を極力単純な形式に還元してみることである。
このような観点から、「中心と周縁」というシンポジウムのテーマを考え直してみよう(ただ、今回の場合、シンポジウムの主催者側に何か良からぬ意図があるなどとは、それこそ毛ほども私は思っていないことを予め念のために明言しておく)。
ある空間における中心と周縁の関係を同一平面上のそれに限定して考えてみよう。問題を単純化するために、その空間内の分節・区分け・色分け等、その空間をその周囲とは関係なしに内的に規定している諸特徴は、これを一切捨象する。白紙の上にある閉じた図形が一つ描かれているような場合に話を限定しようというわけである。
その限定された二次元空間を、それが属する平面に対して垂直線上にあり、その空間全体を視野に収められるほど隔たった点から、例えば、上空の飛行機から地上を眺めるときのような場合を想定してみよう。
その際、その空間の「形」として私たちが認識するのは、その空間を限界づけている外周線である。これはその限定された空間の形がどのようなものであっても同様である。言い換えれば、ある空間の中心がどこにあるか、あるいはそもそも中心があるかどうかという問題とはまったく独立に、私たちは、その空間の「形」を認識することができる。
ところが、「中心と周縁」というように、両者をあたかも「ワン・セット」のように考えるとき、私たちは、すでに円形(あるいはそれに準ずる正多角形)をモデルとして考え始めてしまっている。確かに、与えられた空間が完全な円形(あるいは正多角形)であれば、円周(あるいは外周)がある場所に与えられているということは、その中心もその中に与えられていることを幾何学的には必然的に含意する。
しかし、一般に、ある限定された空間をそれとして認識するためには、その空間を閉空間としている外周線の認識をその必須の条件とするが、その空間の中心の認識はまったく必要ない。そもそも現実の世界は、その中心を簡単には限定できないような形をした空間に満ち溢れているではないか。逆に、外周が曖昧であったり、掠れていたり、よく見えなければ、その空間の中心だけ指示されても、私たちはその空間の「形」を認識することができない。
中心と周縁を最初からセットで考えるとき、私たちが陥りやすいもう一つの「罠」は、まず中心があって、それに対して何らかの条件の下、周縁が決定されるという一方向にのみ思考が限定されてしまうことである。
しかし、どんな形でもいいから自由に一本線である閉じた図形を紙の上に描いてくださいと言われたとき、私たちはどうするだろうか。まず中心をどこか決定することから始めるだろうか。わざわざコンパスを持ちだして円を描く人、さらには定規を取り出して正多角形を描く人がどれだけいるだろうか。そんなとき、私たちは、他に何も条件が与えられていなければ、それこそ適当に、フリーハンドで、さっと、ある閉じた空間を形成する外周線を描くだろう。つまり、周縁を決定する。一つの閉じた一空間を形成するには、それで事足りるのだ。
この意味で、周縁は中心に先立つ。