内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「自然な」日本語から「国際語」としての日本語へ ― 日本語を開くために(下)

2015-11-01 00:02:20 | 日本語について

   

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 では、日本語運用における文脈依存性を減少させるためには、具体的にどうすればよいか。
 一つは、主語、提題その他、通常省略されがちな要素を、代名詞や指示詞などによって、各文内に明示し、前文までのどの語を受けているのか、文法的に曖昧さなく提示することである。
 お気づきいただけたかどうか、私は、このブログの記事を書くとき、この原則をずっと自覚的に実践してきている。もちろん、うまくできているなどと不遜にも豪語する気は一切ないし、別の意味で私の文章は「難しすぎる」というお叱りもしばしば受ける。それはそれとして、甘んじて受ける。しかし、もし私の文章をお読みになって、何かやたらと指示詞が多く、ぎこちなく重たい文章だとお感じになられていた方がいらっしゃったとすれば、それはまさに日本人として当然の印象を持たれたわけで、ある意味で私の意図が通じたということでもある。
 拙ブログの読者の中には、私の現在の学生たちやかつての学生たちもいる(ときどき « J’aime »してくれて、ありがとう!)。私は彼らにとってできるだけわかりやすい日本語で書きたいと思っている。とはいえ、取り上げるテーマそのものの難しさもあるし、語彙の問題もあるから、私の文章が誰にとっても「わかりやすい」文章だとはまったく思っていない。ここでは、しかし、取り上げる事柄そのものの難しさという大きな問題は扱わない。それは自ずと別の問題である。
 トルソーとしてすでに「完成作品」である日本語の文章を敢えて全身像にするためにそれに頭手足を付け足すことは、その作品を破壊することかもしれない。しかし、各文の文脈依存性を減少させ、「見えない」要素を顕在化させ、各文を「自立した」文として自覚的に構成すること、これが日本語を「国際語化」するための、少なくとも一つの必要条件であろうと私は考える。
 言い換えれば、「見えない」要素を多く含んだ「自然な」日本語空間の中に、外国語としての日本語を使おうという人たちをただ一方的に招き入れるのではなく、彼らに向かって新たに日本語を「開く」努力を日本人自身が自覚的・方法的に実践すること。日本語とはこういうものだと一方的に上から目線で押し付けるのではなく、どうすれば日本語そのものをもっとわかりやすくすることができるのかと常に自問すること。そう心掛けるだけでも、日本語を母語としない人たちにとってもいくらかはわかりやすい日本語になるだろう。
 このような日本語そのものの「国際語化」は、日本語教育をもっと海外で普及させようという、いわゆる日本語教育の国際化とは別の問題である。後者が無意味だとか不必要だとかと言いたいのではない(実際、私自身、甚だ微力ながら、それに携わってもいるわけですしね)。
 英語をしっかり身につけ、誰とでも自由闊達に議論できるようになることが今日の日本社会でも望まれていることは論を待たないであろう。私自身、フランスで働いていながら、英語能力の必要性を常日頃ひしひしと実感している。しかし、これもまた、別途論じられるべき問題であろう。
 日本の「内発的な」国際化のために、それらと同じくらい大切だと私が考えるのは、昨日今日と述べてきたような、日本語そのものを「開く」という意味での国際化なのである。