内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

中心と周縁(8)― 辺境、あるいは〈外なるもの〉に対する最先端

2015-11-09 05:30:51 | 哲学

 

 国家であれ地方であれ、現実には、その権力構造の中心と周縁は、地理的な中心と周縁と重なっているとは限らない。地理的な中心がそのまま権力の中枢で、そこから同心円状に権力が順次階層づけられているとは限らない。逆に言えば、地理的周縁地域が権力構造の末端とは限らない。
 しかし、地政学的に「辺境」を問題とするときには、それは、単に地理的に中央から遠く離れた最も外側の遠隔地を指すのではなく、政治・経済・軍事・流通・文化など、多元的な意味で「中心から最も離れた場所」を意味してもいる。様々な点で不利益を被り、疎外の対象にもなっている地域を指すこともある。しかし、辺境は、「中央」から最も遠い場所であると同時に、「外部」との接点でもある。それは、内と外とを分かつ境界領域であり、外へと向かう開口部であり、かつ外から来るものをまず受け入れる受容の最先端でもある。
 昨年から二年連続で担当している学部二年生必修の日本古代史の講義では、七世紀後半から八世紀にかけての律令国家の形成・確立期に多くの時間を割いている。なぜなら、辺境における外交・軍事問題が国家にとって重要な政策課題となることが、地政学的に非常に典型的かつ比較的単純な形でそこに現れているので、日本古代史における辺境問題を、単なる一つの特殊な歴史的事実としてではなく、端的に地政学的観点から辺境問題のモデルケースとして扱うことができるからである。
 具体的には、九州北部への防人の派遣が軍事上の国家防衛措置として当時の最重要課題であったこと、しかし、それと同時に、その同じ辺境が大陸との交流・交易の最も近い玄関口になっていたこと、辺境そのものの動向・情勢、辺境を通じて流入する大陸の動向・情勢がリアルタイムで国家の政策を左右しうるから、それらの情報をいち早く掌握することが中央政府にとっても喫緊の課題の一つであったことなどを説明する。一言にして言えば、日本古代史において、辺境に外から迫る脅威が国家意識を目覚めさせ、その辺境を守ることが取りも直さず国家を守ることを意味したことに学生たちの注意を促す。
 古代において日本が置かれていたこのような国際的緊張状態を出発点として、それ以後の日本国家が自国の辺境とその外部とをどう扱ってきたかを辿る、いわば「日本辺境史」を構想することによって、日本国家の権力構造の歴史的変遷をある一面から照らし出し、その射程を現在にまで及ぼすこともできるだろう(因みに、内田樹『日本辺境論』については、そのタイトルを知っているだけで、中身は読んでいないので、上に述べたことと重なる論点が同書の中にあるのかどうか、私は知らない。仄聞するところによると、同書は、「辺境としての日本」を論じたものらしい)。