内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

近江荒都歌 ―深く痛切な歴史認識の誕生を告げる不朽の詩的刻印

2021-06-10 10:52:54 | 読游摘録

 瀧浪貞子の『持統天皇 壬申の乱の「真の勝者」』は、持統天皇の生涯をその誕生から死まで追うことを通じて、「古代の歴史をマクロな見地から考え直す」という意図のもとに書かれている。八章に分かれており、その第七章の主題が『万葉集』である。
 持統天皇は、六九七年の譲位とともに、それまでの九年間で三十一回に及んだ吉野行幸に終止符を打ち(死の前年七〇一年にもう一回だけ行われた行幸を除く)、『万葉集』の編纂に取りかかる。瀧浪によれば、「吉野行幸に見られたその執念が、譲位後の持統天皇を『万葉集』の編纂に駆り立てたのであり」、それこそが吉野行幸の「政治的帰結」だった。
 『万葉集』の成立過程はきわめて複雑だが、瀧浪は、今日ほぼ定説となっている伊藤博の成立論に従って、巻一の原形は持統天皇によって編まれたという、いわゆる「持統万葉」説に基づいて論を展開する。この原万葉には、「生涯をかけて貫き通した持統天皇の執念といったものが凝縮されているに違いない」と瀧浪は見る。
 以下、瀧浪の論述から摘録する。
 歌の配列方式から、持統天皇が記紀を意識して編纂したことは間違いない。原万葉は、当時天武天皇の遺志を継いで進められていた記紀の編纂に並ぶ文化事業であった。その編纂方式は、王権継承(皇位継承)の系譜を明示し、その正当性を強調するためであったと考えられる。いわば、歌による「皇位継承(王権)の歴史」である。
 しかし、記紀とは異なり、全天皇の時代が網羅されてはいない。それどころか、巻一の最後の一首(後年の追補)を除く八三首に関して、各天皇の時代別に歌数を見ると、極端な偏りがある。雄略一首、欽明五首、皇極一首、斉明八首、天智六首、天武六首、藤原宮(持統・文武・元明)代五十六首となっており、天智・天武朝から藤原宮に至る時代に明らかに重点が置かれており、巻二の相聞・挽歌についても、同様な傾向が顕著に見られる。記紀と並行して編纂された「母体万葉」(巻一・二)は、天智・天武朝以来の「天皇(家)の歴史」を歌によって書きとどめようとしたものだと言える。
 巻一の前半五十三首がいわゆる「持統万葉」である。この「持統万葉」のうち、ほぼ半数の二十六首が持統朝の歌であり、持統天皇は自らの時代を中心に据えて『万葉集』の編纂を行った。その真意は奈辺にあったのか。
 手がかりは、持統朝の歌二十六首の配列にある。冒頭は持統の御製(二八・香具山眺望歌)、末尾は「藤原宮御井の歌」(五二・五三)で、その間に国見・行幸・遷都など、おもに公的行事や儀式に関わる歌が配列されている。
 冒頭の御製「春過ぎて夏来るらし」の瀧浪の解釈はとても示唆的である。その解釈によると、この歌は、たんに季節の推移を詠んだのではない。そこに示されているのは、天武天皇についで愛息草壁皇子を失った悲しみを乗り越え、喪服から禊のための斎衣(「白栲の衣」)に替え、「新たに政務に取り組もうとする持統の並々ならぬ決意」だというのである。確かに、こう解釈するとき、この歌が持統朝の一連の歌の最初に置かれたことに納得がゆく。
 それでは、近江荒都歌がなぜその直後に置かれているのか。近江大津宮は、白村江の敗戦後、持統の父天智天皇が造営した都である。夫大海人皇子(天武天皇)と息子草壁皇子とともに飛鳥から遷った持統が、吉野に隠遁するまでの四年間、親子三人で過ごした地であり、持統の生涯のなかでは「もっとも平穏な日々」であったと思われる。持統にとっては、「家族の形見」ともいうべき都であった。そのかつての都が今は廃墟と化している。その荒都近江を詠む柿本人麻呂と高市古人の歌は、荒都と天智天皇とに捧げる鎮魂歌であった。
 最後に、若干の私見を記す。
 昨日の記事で見たように、人麻呂の近江荒都歌それ自体が新しい歴史的時間認識を示している。しかし、その歌をここに配置することによって、持統天皇は、それとは別次元の歴史認識と時代認識を表明している。この配列が持統天皇独自の考えによるのか、あるいは持統朝の宮廷歌人であった人麻呂がそれに何らかの仕方で関与したか、それはわからない。それはともかく、歌そのものによって表現された歴史的時間の不可逆性の認識と歌の配列によって示された皇統についてのいわば政治的な認識とは区別されなくてはならない。
 たとえ近江荒都歌が鎮魂のための宮廷集団の意思を表現するものだったとしても、実際にそこに表現されている失われた過去への追懐はあまりにも悲痛な響きをもっている。「羇旅信仰に契機を持つとはいえ、その根底に人間の薄命に絶叫する人麻呂の詩精神があってこそ生みおとされた歌」(伊藤博『萬葉集釋注』)である。青年時代、壮麗を誇った都のあっけない崩壊に衝撃を受け、その十数年後、春日に悲しく照らされたその旧都の廃墟を目の当たりにした詩人の精神において、それ以前には人麻呂自身にも他のいかなる詩人にもなかった深く痛切な歴史認識が誕生したことの不朽の詩的刻印、それが近江荒都歌なのだと私は考える。