到達目標数値を設定して先月15日から取り組んできたウォーキングとジョギングは、今日19日まで、途中二日(先月22日と今月12日)休んだだけで、34日継続し、その間徐々に負荷を高めていき、結果、体脂肪率、内蔵脂肪レベル、皮下脂肪率、基礎代謝量、骨格筋率、BMIのすべてにおいて「最良好」に到達した。単に数値的にだけではなく、身体がとても良好な状態にあることを今実感している。
そのことに満足感と充実感を覚える一方、なんでこんなことをしているのだろうと自問もする。健康維持のためと一応は答えることができる。が、では、何のための健康維持か、とさらに自らに問わずにはいられない。健康であれば、日々を快適に過ごせることは確かだ。とはいえ、体は遅かれ早かれ老化し、衰えていくものだ。それにできるかぎり抗いたいという意志がないわけではない。その果敢なレジスタンスは、しかし、最終的には敗北するに決まっている。
自分は長生きしたいのだろうか。かつては漠然とそう思っていたかも知れない。ところが、いつからとはっきりとは言えないが、惨めな姿を晒してまで長生きすることをひどく怖れるようになった。その思いが強くなったのは、明らかに昨年のコロナ禍の渦中でのことだった。老いさらばえて生きたくはない、介護される立場になる前に人生を終えたい、と切に願うようになった。とはいえ、自殺願望はない。
では、健康なまま、ある日突然、苦しまずに、ぽっくりと逝きたいのだろうか。いや、そうではない。願って叶うことではないが、それはむしろ望まない。一つ願うことがあるとすれば、生の最後の瞬間まで意識を明晰に保っていたいということだ。しかし、意識の明晰さは保つことができたとしても、寝たきりの状態になるということもあるではないか。例えば、その前日まで健康そのものもであっても、思わぬ事故によって半身不随になることだってありうるのだから。ある日、意識不明となり、生命維持装置なしには生きられない状態に陥ることだってあり得ないことではない。しかし、これらの可能性を想定してみたところで何の益もない。
いったい私は何を望んでいるのか。一言で言えば、死が訪れる直前まで自己省察を続けたいのだ。それができるかぎりにおいて生き続けたいのだ。その生への意志が、私に毎日このブログを書かせ、毎朝歩かせている。