内的自己対話-川の畔のささめごと

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『万葉集』における歴史的時間の不可逆性の認識の誕生

2021-06-09 22:14:48 | 読游摘録

 予定より二日早く採点を終えたことで、研究発表の準備の一環として読もうと思っていた本のうちの二冊を今日一日落ち着いて読むことができた。平野仁啓の『続 古代日本人の精神構造』(未来社 一九七六年)と瀧浪貞子の『持統天皇――壬申の乱の「真の勝者」』(中公新書 二〇二〇年)である。前者は再読、後者は今回はじめて読む。柿本人麻呂の近江荒都歌(巻第一・二九~三一)に関する両著それぞれの記述を参照するためである。
 平野氏は、上掲書の第五部「古代日本人の時間意識」の第二節「柿本人麻呂の時間意識」で、近江荒都歌の構造を詳しく考察しており、それがとても参考になる。その結論的な部分を引く。

 近江荒都の歌について、簡単な言い方をすれば、前半部には神話が表現され、後半部には現実の廃墟が表現されており、それぞれ原初へ回帰する神話的時間と現実における流れ去る時間とに対応しているのである。そして、神話的時間と流れ去る時間とのきびしい対立のなかにおいて、流れ去る時間に対する人麻呂の深い歎きが発せられるが、それは反歌において一層鋭く響いているのであった。近江荒都の歌の構造は、長歌における神話と現実、それに反歌における人間の生の三つが対立的に組み合わせられている、と言ってもよいのである。そして、人麻呂の時間意識は、神話的時間と流れ去る時間との対立する構造として成立している。そのような時間の対立についての鋭敏な自覚が、人麻呂をして時間の問題を深く認識させるのである。(三二八頁)

 近江荒都歌三首は、当時の宮廷集団にとって旅中通過する「荒れたる都」の魂鎮めのために読まれたに違いなく、その背景には羇旅信仰があった。しかし、これらの歌、特に反歌二首には、それを逸脱して奔逸する深い感情が詠まれている。かつての大宮人たちを想起するにとどまらず、それらの人たちとの再会の不可能性を詠う第二反歌は、「冷酷な時間の流れにきざまれる人間の悲痛に充ちており、この肉声には、根源の魂振り思想からの逸脱がある」(伊藤博『萬葉集釋注』一 集英社文庫 一二八頁)。
 さらに一言付け加えることが許されるならば、集中最初の人麻呂歌であるこれら三首は、流れ去る時間に対する悲痛な歎きを詠っているだけではなく、歴史的時間の不可逆性の認識の誕生を告げるものでもある。
 しかし、近江荒都歌については、なぜ巻第一のこの位置に置かれているのかという別の問題がある。この問題に対する一つの答えが瀧浪氏の本に示されている。それについては明日の記事で取り上げる。