内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「言葉は自分で自分の命を守れない」― 消えゆく爺の心の叫び

2021-06-20 19:16:47 | 日本語について

 今日の話題は、読んでいくと、徐々に、いや、たちどころに、な~んか、とてもイヤぁ~な気分になる話です。言い換えると、エッ、なに、エっらそうに、上から目線でさ、アンタ、何様のつもり、っていう、とても感じの悪い、年寄の繰り言です。
 だったら、そんな話、しなけりゃいいじゃん、と、そこのお若い御仁はおっしゃるか。それももっともな話じゃ。アンタは正しい。しかしな、年寄りとはこういうものなのじゃよ。言わなきゃいいこと、そのまま墓場に持って行けばいい愚痴、恨み言、讒言(読めるかの、そこのお若いの、「ざんげん」と読むのじゃ、この機会に覚えておきなされ、おそらく何の役にも立たぬがのぉ)の類を、だれかに聞いてほしいのじゃよ。「ウン、よくわからないけど、でも、わかるような気がするよ、爺ちゃん」―孫(あるいはそれくらいの年齢の若人)のこんな見え透いたお座なりな言葉を冥土の土産にして消え入るように身罷りたいのじゃよ、わしは。
 さて、そろそろその意地悪爺さん的な無駄口を始めてもよろしいかの。これが最初で最後じゃ(って、これから死ぬまで何度も繰り返すであろう)。

 日頃、安易な言葉遣いはけっしてしまいと文章でも会話でも余は気をつけている。少なくとも、本人としては、細心の注意を払い、おざなりな言い方で事を済ませないように心掛けている。このブログでもその原則は遵守されている(と本人は思っている)。敢えて今はやりのいい加減な表現を用いるときもあるが、それは意図してある効果を狙ってのことであって、そんな表現がイケてると思っているわけではない。
 ここで、得意技を使うこと、言い換えれば、伝家の宝刀を抜くことをお許し願いたい。つまり、自分のことをすべてアッケラカンと棚に上げ、無防備な他者を一方的に抜き打ち的に難詰することをご寛恕願いたい。
 世の中には、なんといい加減、杜撰、おざなり、ただのウケ狙い、もっと言えば、発言している本人のバカさ加減を露呈するだけの言葉遣いに満ち溢れていることか。この話をしだすときりがないので、ただ一つの表現だけをこの記事では話題にする。そうしないと、この記事はエンドレスになってしまうであろうから。
 おそらく、2011年の東日本大震災および福島第一原発事故以来、特に頻用されるようになった表現であるが、「寄り添う」である。この言葉自体になんの文句もない。美しい言葉である。「年老いた夫婦が互いに寄り添うように生きている」などいう表現には何の異存もない。ちょっとウルッとしそうなくらいである。しかし、フクシマ以来、なにかといえば、「寄り添う」という表現を見聞きするようになった。お使いになっているご本人たちは、それぞれの文脈において、真率なお気持ちからそれを使われている場合がほとんどだと思う。そのことを疑っているわけではない。
 が、正直に言おう。この言葉を聞くたびに、虫酸が走るんだよ。免罪符みたいに言葉を使ってんじゃねーよ。その都度、もっとどんな表現が適切か、頭と心と体を使って、真剣に考えろ。アンタたちのやっていることは、無意識的な、けっして罪に問われることもない言葉殺しなのだ。だからこそ深刻なんだよ。アンタたちが無自覚に安易に同じ言葉を繰り返せば繰り返すほど、その言葉は命を削られていくってことがわかってねーんだよ。言葉を発っそうとするそのたびに、もっと言葉を探せ、躊躇え、言い淀め、逡巡しろ。わかったように流暢に言葉を垂れ流すな!
 と、ここまで書いて、そこかはとなく虚しい気分になったので、今日はこれで御暇します。皆々様、ご機嫌よろしゅう。