内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

売られた喧嘩はどうか買わないでください

2022-04-23 16:57:15 | 雑感

 今、私は、別に虫の居所が悪いわけではく、それどころか、原稿は推敲の最終段階に入って気持ちに余裕があるくらいなのだが、その原稿を書いているうちに、これはとても論文の中には書けないなあと思いながら、過激な肉食反対論者(完全菜食主義者と同義ではない。自分たちは善だと妄信して、「敵」に対してやたらに攻撃的な発言を執拗に繰り返すシソー家や運動家たちだけを指す)に対して、「温厚」な私にしては珍しいことなのだが、ちょっと喧嘩を売りたくなってしまい、勢いで書き殴った挑発的な文章がある。それを以下に恐る恐る公表する。

 肉食の是非について識者たちが激しい論戦を戦わせている間にも、生態系破壊は悪化の一途を辿っている。人類にとって、生態系破壊に歯止めをかける方策を立案し、実行に移すことのほうが、肉食が倫理的に悪であるかどうかの議論に決着をつけることより喫緊性の高い課題であると私は考える。
 しかし、それは、肉食の習慣を現状のまま放置しておいてよい、ということを意味するのではない。より大きくかつ緊急性の高い課題の中に、肉食の是非の問題を相対的位置づけ、現実的な妥協点あるいは均衡点を探るべきだと言いたいのである。
 個人的に肉食をやめること、肉食反対運動を同志とともに展開すること、食肉産業をめぐる法律・政策・行政を批判すること。これらのことと、肉食を人間の食生活から全面的に排除すること(abolitionnisme)とは次元がまるで違う問題である。後者は、動物倫理の個人的あるいは集団的実践やそのための市民運動や政治的活動という次元にはとどまらず、一国の、ひいては世界全体の産業構造・経済活動そのものの大きな変化に関わる問題だからである。
 繰り返し言うが、だから肉食廃絶は非現実的だと言いたいのではない。論争だけなら、とことんやればよい。問題点を明確にするためにもそれは必要だろう。完全菜食主義を実践する人たちはもちろん自由にそれを続ければよい。しかし、仮にある国でそれまでの肉食の習慣を廃絶する方向で全員の意見が一致したとしても、その実現のためには、複雑に絡み合う諸問題を一つ一つ時間をかけて解決していかなくてはならない。それは完全菜食主義者たちだけではできないことである。
 現状においては、大半の人が肉食を継続しているからこそ、畜産業・食品加工業・食品流通・食産業及び関連産業が成り立っているのであり、この経済的条件下においてのみ、菜食主義者は自らの主義を貫けているのである。もし皆が突然一斉に肉食を止めたら、この産業構造が破壊され、菜食主義者たちにとっても最低限必要とする食料の供給さえ困難になってしまうかもしれない。少なくとも現状においては、菜食主義者たちは、自分たちの主義を実践するために、実のところ、肉食を続ける多くの人たちとその人たちに食肉を提供する産業とを必要としているのだ。
 それに、人間が肉食を止めたことで、「解放された」家畜たちの世話は誰がするのか。「勝利した」肉食反対論者たちが責任を持つのか。それとも、今まで「悪業」に携わってきて、家畜解放のおかげで失業した肉食産業関係者たちに「罪滅ぼし」としてその世話を押し付けるのか。
 多くの肉食反対論者たちは、自国の肉食の習慣が突然なくなるなどということは実際には起こらないと確信しているから、そして、肉食に関わる業種で働いている人たちの大量失業など、「些末な」問題だと口には出さなくてもそう思っているに違いないからこそ、自分たちの菜食主義の継続に必要な食品の入手に不安を感ずることなく、肉食反対・廃絶という主義主張を、それが倫理的に善であることを信じて、声高に叫んでいるのである。