二月初旬から折に触れて「食べる/食べられる」の関係について考えてきた。はっきりとそれとして意識していないときでも、いつもどこかでこの問題のことが気にかかっていた。それくらいこれは大事な問題だと思っていたということである。
切り口はいろいろありうる。思考の材料にも事欠かない。まさにそうであるからこそ、今回実際に考察する問題をどのように絞り込むか、なかなか難しかった。思いついたときにその都度書きつけるノートやメモが溜まっていくばかりの状態が一月あまり続いていた。
ついニ三日前、ようやく、それまで辺りを覆っていた霧が晴れるかのように、アタックするべき経路がかなりくっきりと見えてきた。先週の金曜日深夜から土曜早朝にかけて、布団の中でほとんど寝ずにこの問題について考え続けていた。いや、「考え続けていた」というのは適切な表現ではない。もっと実感に即して言うと、それまで脈絡なく書き溜められてきた思考の破片が自ずと互いに繋がり合い、ネットワークを形成するのを、少し興奮しながら、「見ていた」と言ったほうがいい。
今日は早朝から、明日の授業の準備はそっちのけ、先々週の試験の答案採点も手つかずのまま(許せ、学生諸君)、かくして形成されたネットワークの主な「結節点」に目印を付けるべく、古今の文献にあたっていた。
そのうちの一つがスピノザの『エティカ』第四部「人間の隷従あるいは感情の力について」の定理三七注解一の以下の一節である。その前半は、一見したところ、今日の私たちには受け入れがたい主張(特に女性蔑視とも取れる一節)のように読めるが、その後半を読み、さらにこの箇所についての諸注を読むと、事はそれほど簡単ではないと思われる。引用する邦訳は中公クラシックス版である。
ここから屠畜を禁ずるかの法律が、健全な理性によってよりも、むしろむなしい迷信と女々しい同情にもとづいていることは明らかである。たしかに、われわれの利益を追求すべしというこの原理は、人間がたがいに結びつく必要性を教えてはいるが、動物や、その本性が人間の本性と異なるようなものと必然的に結びつくべしとは教えていない。むしろ動物がわれわれにたいしてもっている権利と同じ権利を、われわれは、動物にたいしてもっていると教える。むろん各自の権利は各自の徳、あるいは能力によって規定されるものであるから、人間は、動物が人間にたいしてもっている権利よりもはるかに大きな権利を、動物にたいしてもっている。
とはいえ、私は動物にも感覚するはたらきがあることを否定しているのではない。むしろ私が否定するのは、そのために自分たちの利益をはかって、動物を自分の思うままに利用したり、またそれをわれわれにできるだけ好都合なようにとりあつかうことは許されないことである。じっさい、動物は本性上われわれと一致していないし、また彼らの感情は、人間の感情とは本来的に異なっているからである。
今日のところは、次の一つの問いを提起するに止めよう。
スピノザがいう「動物が人間にたいしてもっている権利」とは、どのような権利だろうか。