今日はまったく論文の推敲ができなかった。午前中には雑用が重なり、午後は、修士論文について学生と面談、二つの授業、その後、来年度日本留学希望の二人との面談。自宅に帰り着いたのは七時前。さすがに夕食後に論文と向き合う気にはなれず、テレビでドラマを見た後、早めに就寝することにする。
論文に引用する最後の文献は、ジャン=リュック・ナンシーの『脱閉域 キリスト教の脱構築1』)(La Déclosion. Déconstruction du christianisme, 1, Galilée, 2005.大西雅一郎訳『脱閉域 キリスト教の脱構築1』、現代企画室、二〇〇九年)である。ナンシーは、昨日の記事で引用したエックハルトの説教の少し先のところに出て来る言葉、「私は神に祈る、神が私を神から自由にしてくださるようにと」を引きながら、次のように述べている。
「神が引き退いた場には、根底も隠れ場所もない。この神はその不在性が文字通り神的な性格をなすような神、あるいはその神性-を-欠いた空虚さが文字通り真理であるような神である。」(邦訳七一頁)
「キリスト教的な保証とは、いわゆる宗教的な信仰=信条〔croyance〕のカテゴリ-とは完全に対極にあるカテゴリーにおいてのみ起こりうる。この信[foi]のカテゴリーは、不在性に対する忠実さであり、あらゆる保証が不在なところでこの忠実さに確信を抱くことである。この意味で、慰めを与えるような、あるいは贖いをもたらすようないかなる保証も断固として拒絶する神なき者[無神論者 athée]は、逆説的あるいは奇妙な仕方においてであるが、「信者」よりも信の近くにいる。」(同頁)
この引用をめぐっての考察によって論文は締め括られる。