内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

本のなかで本に出遭う

2023-09-10 05:38:55 | 読游摘録

 ある本を読んでいて、別の著者の本から引用されている言葉や文章に出遭って興味を惹かれ、その本を読んでみるという経験は、読書好きの方なら皆さん多々あることだと思う。日々読書に多くの時間を費やしている老生には、極言すれば、毎日そのような出遭いがある。日に何回もあることもあり、そうなるとそれらの本すべてには手が回らない。
 それでも、電子書籍版の普及のおかげで、当該の書籍の多くを瞬時に購入できるようになったから、それ以前に比べると、本から本への「散策」あるいは「旅」が格段に容易にかつ速くできるようになった。
 それはそれで有益な面もあるが、その容易さと速さのせいでやたらに目移りしてしまい、じっと机に向かって座ったまま何時間も過ごしているのにもかかわらず、いろいろな本のことが同時に気になってそわそわしてしまい、腰を据えて本に向かい合えないという笑えない始末になることもよくある。
 本を読むのが概して遅いと自分で感じる。それは読みたい本の数に比べて実際に読める本の量があまりにも少ないことから生じる感覚なのだと思う。じっくり味わうように読みたい本ともなれば、なおのこと読む速度は落ちる。といって、それを残念に思っているわけではない。時間をかけた味読の愉楽は速読では得られないのだから。
 7月26日の記事で紹介した入矢義高氏の『増補 求道と悦楽 中国の禅と詩』(岩波現代文庫、2012年)は、まさにそのような一冊だ。氏自身が本書で禅語録に対して実践している読み方は、文字どおり一字一句ゆるがせにしない精確な解読で、その息の長い作業から生まれてきた読解はしばしば既存の解釈を見事に覆す。権威ある専門家の解釈であろうが容赦ない。本書に収められた長短合わせて二十四篇の文章は、それぞれに味わいがあり、ゆっくりと繰り返し読むことへと自ずと誘ってくれる。