日ごと拙ブログの記事を書くとき、同じ話題を以前すでに取り上げていないか、一応確認します。どっちにしても老いの繰り言ですから、そんなこと気にしなくてもいいのかなぁとも思います。誰に迷惑かけるわけでもないのならば、「何書いたって、書く本人の勝手でしょ」って感じでしょうかね。
でも、読んでくださる方たちのなかには、ほぼ同じ内容の記事の繰り返しを見て、「あれっ、これって、ひょっとして、例の、あのさ、なんて言うんだっけ? あっ、あれ、NINCHI-SHÔ ってやつ?」 って、かたじけなくも、ご心配くださる方もいらっしゃるかも知れません。あらかじめ、御礼申し上げます。
実際、自分で過去の記事を読み返してみて、同じ話が繰り返されているのを「発見」して、「あちゃ~、やっちまったかぁ」と愕然とすること、ありましたもの。
さて、ここまでは前置きに過ぎません。話題にしたいことは別のことなのです(なんなの?)。
今日の修士の演習で、動物を「正当に扱う」とはどういうことなのかという問題に逢着した、というか、そういう問題を私が学生たちに提起したのです。「えっ、これって、日本学科の修士の演習ですよね? いったい何の授業?」と疑問に思われた方もいらっしゃるかも知れませんが、ごもっともです。
演習のタイトルは Histoire des idées ととてもざっくりしているので、日本語のテキストを読むという条件さえ満たしていれば、まあ、どうとでもなるんですね(ありがたいことです)。
今日で一応「他性の沈黙の声を聴く 植物哲学序説」を読み終えたのですが、植物とは何かという問題を人間の植物に対する関係の中で考えようとすると、生態系における植物と動物との関係という問題、人間と動物との関係という問題とも関連するので、上記のような問いも出てきたわけです。それに、次回から読み始める「食べられるものたちから世界の見方を学び直す」への導入という意図もありました。
今日までの三回の授業を通じて感じたことは、学生たちの反応は、意外に、悪くない、というか、けっこう問題そのものに関心を持ってくれている、ということです。日本学科の授業かどうかはいわば二の次で、問題そのものが自分たちにも切実な関わりがあることだという認識が共有されているようなのです。つまり、動植物に対して人間が取るべき態度という問題は、自分たちにも共通の問題として考える必要があるという点では考えが一致しているようなのです。
しかのみならず、これからこの問題について日本語で日本人の学生たちと四ヶ月にわたって議論を重ね、最終的には、四つのテーマ(今年度は、昨年度の反省を踏まえて、教員が提案する)について、四つの日仏合同チームがそれぞれ一つのテーマについて日本語での発表を準備していくにあたって、テーマそのものについて強い関心が共有されていることは日本語学習への動機づけとしてもとても大切なことです。
なぜなら、問題についての自分の考えを、日本語で、より正確に、より発展した形で表現したいという動機が維持されることで、日本語学習意欲も高まり、進歩を促進すると期待できるからです。期待通りになるように学生たちをアシストしていきたいと思っております。