パリで教えるようになる以前、1996年から2000年までの4年間、パリから東に約500キロ、フランス東端ライン川の辺りの街ストラスブールに住んでいた。大学院博士課程の留学生として、最初に暮らした外国の地がこのストラスブールで、とりわけ深い愛着がこの街にはある。今でも年に何回か仕事の関係で訪れる。その度に、街並みの美しさはフランスの地方都市の中でも指折りだと思うが、これは贔屓目だろうか。ノエルのイルミネーションはことのほか美しく、毎年多数の観光客で賑わう。
留学最初の一年弱は、街の中心部にあるショッピングセンターのすぐ近くの便利なだけが取り柄の粗末なアパートに住んでいたが、残りの3年余りは、市の北東部、ライン川から直線距離にして数百メートルの閑静な住宅街で暮らした。そこは、当時、一方では、新しいマンションが数棟建設中だったが、他方では、広大な敷地を持った古くからある個人宅が並び、その牧場には馬が放し飼いになっているのがバス通りから見えるなど、都市郊外の住宅地と田舎の風景とが混在するような地区だった。一帯に高い建物はなくて、マンションといってもせいぜい5階建て、私たちが住んでいたアパルトマンも3階建ての建物の最上階にあった。私が勉強部屋にしていた部屋の窓からは、ライン川の向うのドイツ側に広がるシュヴァルツヴァルト(黒い森)が見渡せた。街の北のはずれには、樹齢数十年から百年を超える、樫、楢、銀杏、糸杉、ポプラなど種々の樹々が様々な枝ぶりを見せながら点在する美しい庭に囲まれたお城があり、一時そのお城の一部を日本語補習校が図書室として借りていて、幼稚園入園前後だった娘もしばらくそこに通っていた。その城のさらに北側には大きな森が広がり、その森の中の樹々に覆われた歩行者・自転車専用道路をよく自転車で縦横に走り回った。
その森を抜けて、ドイツとの国境をなすライン川の辺りに出ることもできた。ライン川は、スイス・アルプスのトーマ湖を水源とし、ドイツ・フランスの国境を北に向い、ストラスブールを越えてカールスルーエの少し南からドイツ国内を流れ、ボン、ケルン、デュッセルドルフなどを通過し、オランダ国内へと入ったあと2分岐し、いずれもロッテルダム付近で北海に注ぐ、ヨーロッパを代表する大河である。古城と伝説で有名なローレライ付近はこの河の航行の難所でもある。
地図で見るとよくわかるが、ライン川を中心軸にして、ストラスブールの街のさらに西側には南北にヴォージュ山脈が走り、ドイツ側には、先ほど言及したシュヴァルツヴァルトがやはり南北に走っている。その2つの山脈に囲まれている平地をライン川が流れており、その平地の中心地がストラスブールである。南北に走る2つの山脈に挟まれていることによって、東西方向には他の地域からはっきりと区別された閉じた一帯であると同時に、ライン川によって南北方向には他の諸都市と繋がり、遥か彼方の北海にまで開かれている。それに、現在の国境からすればフランスの東端だが、西ヨーロッパ全体においてはほぼその中央に位置する。この閉鎖性、開放性、中心性という三重の特徴を持った地理的環境は、19世紀から20世紀にかけて揺れ動いた独仏国境などという近現代ヨーロッパ史にのみ関わる史実より遥か遠い昔から、中世都市ストラスブールにとっての所与であった。
この地理的・地形的条件と、ストラスブールが中世後期から末期にかけてカトリック教会のそれまでの信仰の枠組みを揺るがすような異端的な神秘主義的運動の中心地であったこととの間には何らかの関係があると、ストラスブールに暮らしはじめてすぐに直感し、以来このインスピレーションに基づいた思想史の方法論を構想しようとしている。マイスター・エックハルトをその頂点とする中世キリスト教神秘主義が、フランスでは、「ドイツ神秘主義」とは呼ばれず、「ライン(川流域)神秘主義(La mystique rhénane)」あるいは「ライン・フランドル神秘主義(La mystique rhéno-flamande)」としばしば呼ばれるのも、だから、もっともなことだと私は考える。もちろん、1つの宗教思想運動の発生の政治的・経済的・社会的諸条件を無視することはできないが、その地理的・地形的諸条件を特に考察対象とする、いわば「思想の地形学」とでも呼ぶべき研究方法も、思想史研究の1つの補助的なアプローチとしてはありうるのではないだろうか。
フランスのノルマンディー地方にある Cerisy-la-Salle という村に、もともとお城だった建物とその周囲の建物を宿泊施設として改装して、毎年多数の研究集会が行われている文化センターがある。このセンターの創設は1952年だが、別の場所での前身の活動の歴史も含めると、その文化活動には百年以上の歴史がある。
2008年8月末の一週間、« Être vers la vie »(「生への存在」)というテーマをめぐって、そのセンターで開催された研究集会に参加したことがある。私自身発表者の一人として西田哲学の生命論について話し、他の発表について参加者と議論することを主たる目的として来たのだが、その集会が始まってから、日本から来られた方の一人の発表要旨をフランス語に訳し、さらにはその方の日本語での発表をほとんど原稿なしで逐次通訳することを依頼されるという、想定外の事態が発生してしまった。おかげで集会の中日、他の参加者たちは近隣へドライブや観光に出掛けている間、私は独り、元厩舎を改装した宿泊施設の中の自室に籠り、翻訳と通訳の準備に没頭せざるを得なくなった。他の宿泊者が出払って静まりかえった建物の中で、窓外の瑞瑞しい緑に満たされた田園風景で時々目を癒しながらの孤独な作業であった。
その発表要旨の中に、松尾芭蕉の『野ざらし紀行』の中の有名な句が引用されていた。
山路来て何やらゆかしすみれ草
これをどうフランス語に訳すかで頭を悩ませた。自分一人ではすぐに妙案も浮かばす、ちょうど期間を同じくして同センターで開催されていた、フランスの詩人ジェラール・ド・ネルヴァルについての研究集会に参加していた日本人研究者の方たちに助けを求めた。何人かの研究者の方が、同研究集会の参加者であるフランス人研究者の何人かのアドヴァイスも考慮しながら、いくつか試訳を作ってくださった。ところが、不遜にも私自身がそのどれにも満足できず、結局私訳を作り、それをフランス人の参加者の何人かに見せ、他の試訳とも比較してもらい、率直な意見を言ってもらった。彼らは日本語がまったくわからないから、あくまでフランス語の語感からの感想である。その結果、嬉しいことに、次に掲げる私の訳が一番支持された。
En passant par un sentier de montagne, indicible grâce d’une violette.
芭蕉の句の解釈として妥当かどうかはわからない。しかし、私自身には、その一週間の寝食を共にした合宿のように密度の濃い参加者たちとの交流とともに、このフランス語での「一句」が当時の懐かしい思い出として今も残っている。
暑い。実に暑い。自分の出身校である区立中学校が実家の坂下、徒歩1分のところにあるが、夏休み中、プールの一般公開を実施していて、火曜日から毎日通っている。屋上にある屋外プールなので、灼熱の太陽が直に照りつける中、毎回午前中一時間半ほど5分間の休憩を挟んで泳いでいる。おかげでたちまち全身日焼けしてしまった。利用者は数人しかおらず、快適に自分のペースで泳げるのが嬉しい。一回2時間220円。ありがたい話である。
この猛暑の中、6月18日の記事で話題にした友人夫婦を昨日から泊まりがけで鎌倉の自宅に尋ねた。彼らは1歳4ヶ月の元気一杯の息子と長谷寺裏の高台で3人仲良く暮らしている。ダイニングからは長谷寺の屋根越しに逗子方面の海が見える。いつもなら、窓を開け放つと、朝夕心地良い海風が吹き抜けるのだが、昨晩はその風も吹かず、やむなく冷房を入れていた。夫妻の心尽くしの手料理に舌鼓を打ちながら、一晩歓談。ご子息もよく懐いてくれて、もうすっかり友だちになってしまった。私は小さい子供が大好きで、何時間一緒に遊んでいても飽きない。子どもたちにもそれがわかるようで、特別こちらから愛想よくしなくても、向こうから寄ってくる。今日の昼前、鎌倉駅近くの甘味処で甘くて冷たいものを皆で食べてから、鎌倉駅前で再会を期して別れた。
それにしても、この異常とも言いたくなる暑さである。そこで、しんと空気が静まりかえるような自由律俳句1句と、その句について私がもともとはフランス語で発表した鑑賞を、一部変更して日本語で紹介する。句そのものは尾崎放哉の有名な句の一つであるから、ご存じの方も多かろうと思う。
一日物云はず蝶の影さす
詩人は、使用人としてそこで働いている寺の小さな部屋に、独り、座っている。部屋を外界から隔てている障子は、ぴたりと閉められている。そこに、終日、詩人は、黙って端座している。すると、ある瞬間、障子に蝶の影が現れ、瞬く間に消える。この瞬間は、為すことなく過ごした長い一日の終わりに訪れた。障子は室内空間と外部空間を隔てると同時に、その両空間を一つに結ぶ仲立ちでもある。しかし、それだけではない。この一句において、詩人自身が不可視のスクリーンになり、そのスクリーン上に外部世界での出来事が、詩人の意志とは一切関わりなしに、投影される。蝶は詩人の内面空間を横切ったのである。そこには「身体を限界づけるいかなる切断もなく」、蝶と詩人とは、「一つの空間で一体と化し、そこでは、不可思議にも守られた、純粋でとても深い意識の唯一点があるのみ」であるとリルケなら言うであろうか。
放哉にとって、座るとは、独り座ることである。来たるべきものが自ずと来ること以外には何も待たずに、独り座ることである。一切の装飾性を削ぎ落した放哉の詩的言語は、ある一つの自然現象をそのまま映す。詩人の存在は、知覚世界において1つの単純な眼差しにまで純化され、その知覚世界に自ずと現れるものにそのまま現れるに任せる。己自身のためのいかなる慰藉も求めず、絶対の孤独を詩人は生きる。ところが、まさに逆説的なことに、この純粋な詩的経験において、〈救済〉は自ずと到来し、一つの詩作品として形を成す。しかし、それは放哉個人が救われたということではない。詩人自身が救われたのではない。詩人は、自らの死をも含めて、自ずと到来するものをそのまま受け入れただけである。〈受け入れること〉そのことがそこで成就したのである。
一昨日・昨日の記事で紹介した Rémi Brague の Au moyen du Moyen Âge から、夏休み特別企画(?)として、もう一箇所紹介しよう。同書の " Les leçons du Moyen Âge "(「中世の教訓」)と題された章の結論部(p.78-79)で、ブラッグは、中世ヨーロッパ文化の起源がその外部にあるという歴史的事実について読者の注意を促す。以下は、その結論直前の最終段落と結論全文のほぼ忠実な訳である(フランス語をお読みになる方で、鋭い批判精神が知的ユーモアとともに煌めく上質な現代フランス語に触れてみたいと思われる方は是非原文をお読みください)。
自分に固有のもの、 つまり個性は、それ自体で〈善〉ではない。「私のもの」は必ずしも良いものだとはかぎらない。ヨーロッパはこの固有性と善との違いについて具体的な経験をするという幸運に恵まれた。この両者の差異の経験は、ヨーロッパをその文化的起源から隔てている距離のおかげで得られた。ヨーロッパ文化を培ったもの、〈ギリシア〉と〈イスラエル〉は、ヨーロッパに属さない。それはちょうど両者をそれぞれ象徴する都市であるアテネとエルサレムがヨーロッパには属していないのと同様である。〈ギリシア〉と〈イスラエル〉がそれぞれもたらした文化を学ぶこと、それは「自分たちの過去」を回収し我がものとすることではなく、「自らの外に出る」ことである。ヨーロッパがその養分をそこに汲んでいる源泉はヨーロッパの外にある。それらの源泉は、だから、ヨーロッパ文化の源泉ではないということもありえた。しかし、それらが自らの文化の源泉となることを望む誰にとっても、それらは源泉となりうるのである。
ここには今日のヨーロッパにとってのお手本がある。いや、地理的にその限界を特定できるようなヨーロッパ(それ自体かなり曖昧だが)を超えて、そのヨーロッパを参照・援用するすべての国・人にとってのお手本がそこにある。中世ヨーロッパ人たちは、自分たちの住処の外へ、直接的に与えられる諸経験の彼方へ、異国の古代人たちのところへ、自分たち固有の伝統の外へ、アラブ世界へと文化的所与を探しに行くことを知っていたし、事実そうすることができた。彼らは、それらの異文化の所与に働きかけ、発展させ、拡張した。しかし、彼らがそこで得たものは外から来たものに由来することをけっして忘れなかった。そして、それら源泉が外部にとどまり続けることもけっして忘れなかった。そうであったからこそ、彼らはたえずそれら源泉に汲もうとそこへと立ち返ることができた。かくして、彼らは自分たちの過去の受け取り方を〈原典〉に照らして矯正することができ、それによって源泉のより忠実な新しい受容が可能となったのである。ヨーロッパはこのようにして終わりなき弁証法的過程へと自らを投じたのである。ヨーロッパは、自分たちが同化しなくてはならなかったもの、外に留まり続けるがゆえにそれをものにしたいという欲求を引き起こし続けるものの外来性そのものをその原動力としていたのである。
これら外なる源泉の豊かさは私たちのものではない。それらは他所からやって来る。そして、それらは私たちだけのものではない。
とはいえ、〈消化〉と〈封入〉は、互いに排他的で相容れない作用ではない。一つの文明が、その生成・発展過程において、外来物に対して、あるものは〈消化〉し、他のあるものは〈封入〉するという、いわば1種の選択的透過性を示すということはありうるし、それは反自然的なことだとは言えないからである。しかし、ある文明が〈消化〉を忘れ、〈封入〉に一方的に傾斜する時、それはその文明が衰亡過程に入ったことを意味する。〈消化〉は、変動する外部に開かれた過程であるゆえに生体にとって危険も伴う。それは環境に適応する動的で柔軟な生体構造を前提とする。それに対して、〈封入〉は、〈外部〉を取り込みつつそれを体内で同化もしなければ受け入れもしないという、高度な文明にのみ現れる、反生命的でパラドクシカルな技術である。しかし、その適用の度が過ぎれば、その技術はそれを発明した文明そのものを脅かす。それは一個の生体が外部からとりいれたものを消化せずにそのまま体内に蓄積させれば、その蓄積物はやがてその生体の健康を損ない、ついには死に至らせるのに似ている。
ルネッサンス期以降のヨーロッパ文明が、それまでの千年を超える期間、つまり中世全体を通じて、外部から来たものをゆるやかに〈消化〉することによって蓄積された膨大な栄養エネルギーによって開花したとすれば、近代ヨーロッパ文明は、その覇権の世界規模での拡大とともに、徐々に〈消化〉を忘却し、〈封入〉の技術を洗練させ、それに淫していく過程だと見ることもできる。
博物館学が近代ヨーロッパで生まれ、高度な発展を遂げたのは、けっして偶然ではない。なぜなら、博物館とは、〈封入〉の組織化・制度化の具体的手段にほかならないからである。私たちは博物館・美術館(フランス語ではどちらも musée)を訪れ、そこでいったい何を喜んで「鑑賞」しているのか。文明の精華、文化の粋、芸術作品中の傑作・名品などと人は答えることだろう。しかし、それらの多くは〈封入〉の産物であることを忘れてはならない。フランスには、ルーブルはじめ多数の美術館・博物館があるが、それらは近代ヨーロッパ文明の過去の栄華の象徴である同時に、その文明の不可逆的な衰亡過程の表徴でもあるのだ。
あらゆる文明は、〈消化〉から〈封入〉へと必然的に移行し、衰亡するしかないのであろうか。しかし、私は、この2つのスタイルとは異なった、もう一つの異文化受容のスタイルがありうると考える。それを私は〈受苦〉と名づける。それは、〈封入〉のように、外来物を二重の意味で安全な場所に保管あるいは陳列することによって、その外来物が引き起こすかもしれない観察者の変容を排除することでもなく、外来物が主体に完全に取り込まれ、「血肉化」され、その原形が失われてしまう〈同化・吸収〉のことでもない。〈受苦〉とは、外から来るものをそれとして受け入れ、それを〈消化〉も〈同化〉も〈吸収〉もせず、かといって〈封入〉もせず、その外来物とそれを受け入れる主体との違和が引き起こさざるを得ない〈苦しみ・痛み〉をも、その主体が受け入れることである。
この〈受苦〉により主体が互いに他者を受け入れ合うことによって開かれる「受苦可能性(passibilité)の共同体」に、私は未来への微かな希望の曙光を見出そうとしている。
6月25日の記事で紹介した Rémi Brague の Au moyen du Moyen Âge(Flammarion, collection "Champs essais", 2003、未邦訳)には、ヨーロッパ文明に関して私たちの興味を唆る論点や挑発的な言辞がいたるところに鏤められていて、たとえそれらに対してにわかには賛成しがたいような場合でも、とにかく私たちの思考を大いに刺激してくれる。同書に、異文化受容の2つのスタイルについて、 "inclusion"(封入)と "digestion"(消化)という2つの概念を導入して、それら2つのスタイルの特徴を区別しようとしている章(p.263-288)がある。今日の記事では、その章での両概念の規定を紹介する(序に書誌的なことを記しておけば、彼自身がその章の冒頭の脚注で断っているように、この2概念については、前著 Europe, la voie romaine(1re éd. Éditions Critérion, 1992 ; 2ème éd. Gallimard, collection "Folio Essais", 1999)ですでに素描されており、それを発展させることでできたのが今回紹介する章である)。その上で、明日の記事では、そこから私が展開した考察を提示する。
ブラッグの同章での意図は、中世におけるヨーロッパとイスラム圏での外来文化受容のスタイルの差異と交差を際立たせることで、近代ヨーロッパ文明を批判的に見る1観点を確立することに主眼がある。しかし、ここでは、より一般的に、異文化受容のスタイルの問題として、この2つの概念を見てみよう。
〈封入〉は、もともと、ある昆虫や植物などを「そのままの姿」で長期保存するために、それらを透明な物質の中に封入し、その物質によって保護し、外気との接触による変質・解体を受けないようにする保存技術のことである。この技術によって、保存された物の他性・自体性はそのまま保たれ、しかも周囲が透明な物質によって保護されているため、外部との接触はないままに、それを対象として「客観的に」いつでも観察することができるようになる。と同時に、この技術は、観察対象からの働きかけによる変化を被ることから観察者を守ってもくれる。この意味で、〈封入〉は、自他の区別を保持したまま、二重の意味である個体を安全で「透明な」場所に保管することを可能にしてくれる受容の技術なのである。
〈消化〉については、多言を要さないであろう。外から体内に取り入れられたものが消化・吸収されれば、それはその体の栄養・エネルギーに変換されるが、それはとりもなおさず、その消化・吸収されたものがそれ以前に持っていた元来の独立性を失い、その元の姿が完全に消失することでもある。〈消化〉は、この意味で、取り入れる主体と取り入れられた対象との間の区別、自他の区別を消滅させる過程だと言うことができる。
〈消化〉は、その原義を生物の消化過程に求めることができるように、種々の自然的過程の中でも生命体にとってその生命維持のためにもっとも自然な過程の1つである。ところが、〈封入〉は、そのままでは自然には発生し得ない、むしろ不必要あるいは無益な、場合によっては「不健康な」とさえ形容しなくてはならないほど、きわめて人為的な過程である。
〈封入〉は、これもまた一つの自然な反応であるところの、自己の生命を脅かす外敵から身を守る防衛本能ともまったく違う。外来の事物を自己の内部に取り入れておきながら、それを〈消化〉せず、〈外部〉として保存・観察、あるいは鑑賞するための技術である〈封入〉は、二重の意味で反自然的な〈作為〉と言わざるを得ない。なぜなら、それは、一方で、外部の生命体をその本来の生育環境から切断し、その生命を奪い、対象化し、他方で、その生命体とそれを取り入れた主体との相互作用の回路を切断するからである。
学部で3年間、万葉集を当時の万葉学の権威の1人であった教授について学ぶという幸運に恵まれた。その1年目に、教授自身が選んだ万葉秀歌百首を完全に暗記して、すべて書き下し文で書けという試験を課された。受験者中ただ1人百首完璧に空で書き、教授からも褒められたが、その後、私自身の愚かとしか言いようのない振る舞いのせいで破門され、日本上代文学の研究者になるという夢はそこで儚く潰えた。
しかし、そのことは私が以後今日まで万葉集を愛読し続けることを少しも妨げることはなかった。フランスに暮らすようになってからも、万葉集だけは常に手元から離したことはなく、折にふれて繙く。自分が好きな歌を声に出してゆっくりと繰り返すだけで、歌に詠まれた情景が生き生きと蘇り、言霊のはたらきが我が身に実感され、1300年の時の隔たりを超えて、古代日本の風景の中を我が魂は遊行する。
万葉集には古来名歌とされる歌は数多く、私自身集中愛唱する歌は少なくないから、その中からどれか1首だけ特に選べと求められれば、きっと迷うにちがいない。しかし、まず思い浮かぶ歌1首はどれかと問われたならば、おそらく次の山部赤人の1首を挙げるだろう。
若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る(巻6・919)
聖武天皇紀伊国行幸(724)に供奉した時の作。同時に詠まれた長歌に付けられた2つの反歌のうちの後者。
この歌を初めて読んだ時の感動を今も忘れない。その時は、同意趣・同表現が見られる高市黒人の先行歌(巻3・271)の影響ないし模倣などという余計な文学史的知識がなかったおかげで、素直に歌を読むことができ、たちどころに、この歌の叙する情景が、そのまま眼前に、群れ飛ぶ鶴たちの鳴き声とともに、生き生きと立ち現れた。なんと切なくも美しい叙景であろう。古来、自然詠の絶唱の1つとされてきたのも宜なるかな。もちろんこの1首も指導教授撰の万葉秀歌百首に入っていた。私も初読以来この歌を愛して止まない。
斎藤茂吉は、『万葉秀歌』で、同歌を集中指折りの名歌と認めつつ、第3句「潟をなみ」に「理」が潜んでいて、そこが弱いと評している。確かに、純粋な叙景歌と呼ぶには、この「なみ」は説明的に過ぎるという見方も成り立つかもしれない。しかし、私は、逆に、この原因・理由を表す「み」語法にこそ、必然的な自然現象が引き起こす生命の律動の屈折点の表現を見たい。
季節は初冬。時刻は、歌そのものからも詞書からも特定できないが、私には、なぜか最初の一読から、西空が茜色に染まる夕刻の光景が立ち現れた。北國より飛来した鶴たちが干潟で餌を啄んでいると、潮が満ち来たり、干潟が水中に隠れていく。居場所を失い、鶴たちは次から次へと飛び立ち、葦の生い茂る岸辺を目指して鳴きながら飛んでいく。この叙景歌は、写真のように一瞬の光景を捉えているのではない。それまで干潟で餌を啄んでいた鶴たちが、満潮で干潟が狭くなるにつれて、1羽また1羽と飛び立っていく場面から、次第に群れをなして、夕映えの空を、同じ方向を目指して鳴きながら飛んでいくまでの時の流れ・情景の推移を、わずか31文字の中に、あたかも音声を伴った映像詩のように、見事に捉えきっている。
この歌との出会いのように、日本語で表現された詩精神の精華に触れるとき、日本人に生まれたことの幸福をしみじみ感じる。
パリの街中を散歩していると、過去の著名な作家、詩人、芸術家、科学者、政治家等の旧居であることを示す石板が、その旧居がある建物の入口脇あるいは上方に嵌めこまれてあるのをよく見かける。ただ生没年と居住期間、職業あるいは活躍した分野などが示してあるだけのことが多いが、中にはその人物の著作からの引用が刻まれていることもある。その中で、初めて見たときから私の心に深く突き刺さった引用が2つある。
1つ目は、ノートルダム大聖堂の裏手、シテ島とサン・ルイ島とを結ぶサン・ルイ橋、Quai aux Fleurs、Rue du Cloître Notre Dame が交差する角にある建物の入口左脇の石板に刻まれている。その石板には、「この建物には、哲学者ウラジミール・ジャンケレヴィッチ(1903-1985)が戦前から1985年に亡くなるまで、戦中のレジスタンス運動の時期以外住み続けた」と記されており、その下に、彼の著書の1つ L’irréversible et la nostalgie(仲澤紀雄訳『還らぬ時と郷愁』国文社、1994年)から、次の1節が引用されている。
« Celui qui a été ne peut plus désormais ne pas avoir été : désormais ce fait mystérieux et profondément obscur d’avoir vécu est son viatique pour l’éternité. »
「存在した者はそれ以来もはや存在しなかったということはできない。それ以来、生きたという、この不可思議で奥深く冥暗な事実は、その者の永遠への路銀となる。」(私訳)
私たちは、この世に到来し、そこにしばらく滞在し、そしてあるとき何方へか立ち去る。このような言い方を耳にすることは珍しくない。しかし、ジャンケレヴィッチはそれとはまったく異なった生の実存的了解の仕方を示す。その生がいかなるものであったとしても、その人が存在したということは、もはやいかなる手段をもってしても、事実として消し去ることはできない。存在しなかったことにはできない。この不思議といえば不思議、その深い奥行きを汲み尽くしがたいこの事実が、この世に生きた者の永遠性への旅のために必要十分な〈路銀〉となる。このことについて、生ける者誰一人として例外はないのだ。レジスタンス運動の闘士であったこのソルボンヌの哲学教授が、この文を書いたとき、ナチスによって強制収容所で大量虐殺された人たちのことを思わなかったとは考えられない。
もう一つの引用は、サン・ルイ島の Quai de Bourbon にある。ロダンの愛人であり、詩人・劇作家・外交官ポール・クローデル(1868-1955)の姉、才能豊かで類まれな美貌の彫刻家カミーユ・クローデル(1864-1943)の旧アトリエがその中庭奥にあった建物の入口右側の1つ目の格子窓のさらに右側の石板上に、その引用を読むことができる。
精神に異常をきたし、1913年、パリ郊外の病院の閉鎖病棟に強制入院させられる直前まで、カミーユはそのアトリエに住んでいた。第一次大戦中の1915年に南仏の精神病院に移管され、そこで1943年に78歳で誰も看取る者がないままに死を迎える。30年間を病院内で過ごし、外交官として日本大使にもなったことがある弟のポールが数年に一度見舞いにくる以外は、誰も見舞いにも来なかったという。
引用は、19歳でロダンの弟子となり彫刻家としての才能を開花させていく一方、報われぬロダンへの愛に苦悩していた22歳の彼女がロダン宛に送った1886年の手紙の1節である。
« Il y a toujours quelque chose d’absent qui me tourmente. »
「いつも欠けている何かが私を苦しめています。」(私訳)
この1文を石板上に読む度に、あるいは彼女の書簡集をふと思い出したように手に取り、偶然開かれた頁を読む度に、類まれな力動感に溢れ、高貴さをも感じさせる彼女の大作の傍らに置かれた、切ないまでに美しく磨き上げられた小作品群のことを思い出す。それらの作品は、今ロダン美術館で見ることができる。
昨夏と今夏の集中講義の準備のために読んできた文献の裡、まだこのブログで言及していない本がもう1冊ある。Agnès Minazzoli, La Première ombre. Réflexion sur le miroir et la pensée, Éditions de Minuit, 1990(未邦訳)。"La Première ombre"(「最初の影」)とは、ダンテの『神曲』「煉獄篇」に由来する言葉で、そこでは「陽の光」を意味する。著者は、〈見る〉ことと〈考える〉こと、〈見えるもの〉と〈考えられたもの〉との相互内在的な関係性について、ニコラウス・クザーヌスの絵画論と、フランドル派の画家たち及びデューラーの作品とに共通して見出される〈像〉(イマージュ)の価値・意味へのアプローチを手がかりに、鋭利な哲学的考察を洗練された文章によって展開する。その射程は、現代哲学の認識論的問題意識にまで届いている。本文は170頁に満たない、見かけは控え目な小著だが、深い奥行きをもった哲学的洞察に富んだ好著である。
以下は、同著の読書体験が私の中に引き起こした思索の共鳴の1かけらである。
陽光は、物を照らすと同時に影を作り出す。見えるものと同時にその影をもたらす。創世記冒頭に立ち戻れば、神が「光あれ」と創造の最初の言葉を発されたその瞬間には、昼はただ光に満たされ、それは夜の闇と混じり合うことはなく、したがって、まだ日中にはどのような影もなかったのかもしれない。しかし、〈光〉の誕生は 、天地の間に〈影〉を生じさせざるを得なかった。天地創造の原初的光景が含み持たざるを得なかった、初元の非在の〈影〉からこそ、万有の〈形象〉が生まれる。
古代伝説の語るところによれば、絵画は、壁に映った影から生まれた。愛する人がまさに遠くへと旅立とうとしているとき、一人の若き乙女がその愛する人の形姿をとどめようとして、その人の壁に映った影の輪郭をなぞったのが絵画の始まりだというのである(序でだが、絵画の誕生という、芸術史の枠組みを超え出た人類史上の大問題と本格的に向き合うためには、ジョルジュ・バタイユの『先史時代の絵画ラスコーあるいは芸術の誕生』をまず読まなくてはならないだろう)。乙女が壁に刻んだ恋人のシルエットは、その人の面影の現前と肉体の不在とを同時に表現している。〈現前〉と〈不在〉、〈光〉と〈影〉、これら対立する両者が同一平面上あるいは空間内に共存させられるまさにそのことによって、両者間の葛藤が強調される。
ものを見る、あるいは考えるとは、どういうことなのか。私たちは何を見、何を考えているのか。なぜそのものを見ることができ、考えることができるのか。私たちが何かを見ること、考えることができるのは、その何か自体が直接見られ、考えられるからではなく、それらの〈分身〉あるいは〈反対物〉が他所に〈映されうる〉からにほかならない。何かが見えるのは、見えるものが自らの影を他のものに映しうるものであるかぎりにおいてであり、何かを考えることができるのは、その考えが他のものに投射・反映されうるかぎりにおいてのことなのだ。言い換えれば、〈見えるもの〉あるいは〈考えられるもの〉は、そのものが〈奥行〉をもっており、けっして同時に全面的には明らかにはならないからこそ、そのものとして立ち現れうるのである。
私たちが「何かを見る」というとき、それが〈見えないもの〉の現前を必然的に伴うとすれば、何も考えずに見るということはありえない。私たちが「何かを考える」というとき、見えるものにおいて、あるいは見えるものを通じて、〈見えないもの〉を捉えようとしているのだとすれば、何も見ずに考えることはできない。〈見る〉ことと〈考える〉こととは、相互に前提し合い、互いに嵌入し合っている。このような視覚と思考との関係をめぐる事物の認識可能性の問題を考えるのに、鏡はとりわけ意味深く魅惑的な〈場所〉を私たちに開示してくれる。鏡および鏡像の価値・意味・身分をめぐるさまざまな問いが、西洋の文化史において、古代から中世を介して近代・現代まで、宗教・神話・文学・哲学・科学等の諸分野で、繰り返し問われてきたのも、それゆえのことだと言えるだろう。
昨日5日間の集中講義を終え、今年度から始まったネット上での成績登録も先ほど無事済ませ、ホッと一息ついている。これで2年かけた「鏡の中のフィロソフィア」というテーマの講義は一応終了。昨年同様、学生たちには毎日小レポートを書かせたが、昨日は5日間を振り返っての感想も書いてもらった。それを読むと、この演習を通じて、それぞれにこれからの勉強のための何らかのヒントを摑んでくれたようで、それだけでも嬉しく思う。もし来年度も担当することになったら、これまでとやり方を変えて、毎回もっと学生たちが積極的に口頭で参加し、1つの問題について全員で議論できるように工夫したい。そういう訓練があまりにも今の日本の教育システムには欠けていると思うからだ。そのような訓練は、通年授業のように時間をかけて一歩一歩進めたほうがより大きな効果が期待できるだろうが、まずは私に与えられた機会を最大限に活用することから始めよう。
ピエール・アドの exercice spirituel の紹介も、まだその「さわり」に過ぎないが、今日でひとまず締め括ることにする。明日からは、また別の本を紹介しながら、日々の我が思索を続けていこう。
「言語活動(langage)と死との間には不可思議な関係がある」とアドは言う。どういうことか。それは、「言語活動は、諸個人の個別性の死の上にしか展開し得ない」ということだ。言語活動が追求するロゴス(Logos)は、普遍的な合理性を要求し、この合理性は、絶えざる生成と個別的な肉体的生において発生する可変的な欲求とに対立する。この普遍性と個別性との葛藤の中で、前者、つまりロゴスに忠実であろうとする者は、その生命を危険に曝さなくてはならないときがある。それがソクラテスの場合であり、ソクラテスはロゴスへの忠誠ゆえに死んだのだ。
ソクラテスの死は、哲学にとって根本的な出来事であり、それがプラトン主義を基礎づけた。プラトン主義の本質は、〈善〉は諸々の存在の最後の理由であるというところにあると言ってよいのならば、その究極の〈善〉に与ることは〈存在〉に優らなくてはならない。ソクラテスは、〈善〉を〈存在〉に対して優先させるために死を選んだのだ。この選択こそ根本的な哲学的選択であり、この意味で、哲学とは、「死の学び」である、と言うことができる。ここで言われる「死」とは、肉体を自らの手で滅ぼすいわゆる自殺のことではもちろんないし、肉体の存在を忘却させる特殊な心理状態のことでもない。哲学的な「死」とは、魂と肉体との精神的な分離のことであり、魂を肉体からできるだけ遠ざけ、それぞれの肉体の置かれた場所から魂を解き放ち、それ自身へと立ち返らせることである。それは身体的感覚のもたらす諸情念を魂から取り去り、魂の真の姿である思惟(pensée)の独立を獲得することなのである。この独立への途が日々の死の演習であり、それがまさにexercice spirituel(=ES)にほかならない。
「死を学ぶ」とは、だから、一切の物事を普遍性の開けの中で見るために、自らの個別性の死、私たちの心を乱す諸情念の死を学ぶことなのである。この学びは、思惟の自己集中、瞑想の努力、内的対話を必要とする。プラトンにとって、「死の学び」とは、それらの実践を通じての物の見方の全面的な転換であり、個人的な諸情念に支配された偏った見方から、思惟の普遍性と客観性に統べられた世界像への転回である。この物の見方の全面的な転回は、魂の全体をもって現実化される。その転回によって開かれた視野の中では、人間的な諸情念はごく小さなものとして現れる。ここにこそ、プラトン主義におけるESの根本的なテーマがある。このESによって、人は不幸の極みにあって、平静を保つことができる。