内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

宗教的自由の原理について ― ジャン・デ・カー『マルゼルブ』から

2014-12-21 23:10:10 | 読游摘録

 Jean des Cars, Malesherbes. Gentilhomme des Lumières, Éditions Perrin, 2012(初版はマルゼルブの没後二百年にあたる一九九四年に Éditions de Fallois から出版されている)は、伝記作家として著名な著者が、自身マルゼルブの血筋を引く一族の生まれだったがゆえに参照することができた様々な非公開の一族内の手書き文書に基づいて、長い時間をかけて書いた、他の追随を許さないマルゼルブ伝であり、一九九五年度アカデミー・フランセーズ史伝大賞受賞作でもある。前書き、十一の章、補足ノート、附録からなる五百頁を超える大著である。
 「寛容の弁護者(L’avocat de la tolérance)」と題された第十章の冒頭を意訳すれば以下のようになる。

マルゼルブの生涯を通じて、寛容の追究は、恒常的な懸案であった。さらに言えば、寛容は一つの理想であった。フランスのアンシアン・レジーム下において、王によるプロテスタンティズムの承認とその組織化への決断は、模範的な施策の一つであり、サン・ルイ王に始まるフランス歴代王の王国においてばかりでなく、全ヨーロッパを見渡しても、とても先進的なものであった。宗教的自由の原理は、決定的には、フランス革命のおかげで確立されたものではなく、ルイ十六世によってもたらされたものなのである。人はそのことを本当に知っているだろうか。残念ながら、それははなはだ怪しい。私たちの日常生活における宗教的自由の実践的組織化は、マルゼルブその人とその頑固なまでの正義の思想によるものなのだ。あれこれの理論で世間を騒がせるだけの哲学者たちに対して、マルゼルブは己の思想を実践的適用する(四一一頁)。

 マルゼルブにおいて、「寛容」は、〈異なるもの〉の許容という消極的な態度に終わるものではなく、宗教的自由を認め、それを可能にする具体的施策を施行するという積極的な政治的行動を意味しているのである。








『マルゼルブ フランス一八世紀の一貴族の肖像』(承前)

2014-12-20 23:22:00 | 読游摘録

 昨日紹介した木崎喜代治『マルゼルブ フランス一八世紀の一貴族の肖像』は、初版の復刊、あるいは、より広い読者が期待される「岩波現代文庫」としての復刊が是非望まれる一冊である。
 一九八六年に出版された同書は、今でも、マルゼルブの思想と行動とを理解するために有益な数少ない日本語文献の一つであり(本国フランスでは、マルゼルブ没後二百年を記念して開催されたシンポジウムや記念行事を境に大きく状況が変化し、マルゼルブの全体像に迫る新しい研究成果が重ねられてきている)、そこには、歴史的関心を超えて、政治的理念を生き抜くとはどういうことなのかという根本的な問いに関して、示唆に満ちた行文をいたるところに見出すことができる。
 同書の「おわりに」の最後の二段落を引用する。

 もちろん、ある人間の政治理念は、かれを動かす根本理念の一つの表現形態にすぎない。マルゼルブのこの根本理念は、人間の大義の擁護とでも名づけるほかはあるまい。支配階級の古い貴族の一員として生まれつき、そこから逃れることのできない一人の男が、人間の大義の擁護のために献身しようとすること――この滑稽なほど矛盾した事態こそ、マルゼルブの悲劇と称されるものを生み出してきたのであろう。人間の大義に味方すればするほど、かれは自分もその一員である体制そのものをますます攻撃することになった。出版統制局長でありながら、みずから法を破って、新思潮を載せた書物の刊行を保護したとき、また、租税法院院長でありながら、租税法院そのものの存在をかけて、徴税人の横暴から一介の名もなき市民の権利を擁護したとき、あるいはまた、大臣でありながら、その国家の精神的統一を犠牲にして、ユダヤ人やプロテスタントに市民権を与えようとしたとき、かれは、まさに、人間の大義の名において、フランス絶対王政を転覆するのに最大の力をかしていたのである。国王の弁護というかれの最後の行為も、状況は異なるとはいえ、同じように理解される。かれは、その生命を賭して、人間の大義を擁護することにおいて、圧政的権力に抗議したのである。かれはついに政治的人間となることはできなかった。かれは、いかなる地位にあっても、いかなる状況にあってもつねに、形容詞なしの、単なる人間でありつづけたのである。
 しかし、マルゼルブは未来を信じていたのであろうか。「かれは、紅海を渡るまえに約束の地がある、と信じていた」とサント-ブーヴはいう。一八世紀フランスにおいてリベラルであるとはそういうことなのであろう。しかし、かれの政治的生涯と政治理念を概観したいま、われわれはむしろ、「かれは、紅海を渡るまえに約束の地がある、と信じているかの如くに行動した」というべきではないであろうか。フランス絶対王政の死とともに、そしてその国王の死とともに、その生命を絶ったマルゼルブは、そのことによって、革命のあとに来るものがもはや自分たちの世界ではないことを知っていることを示したのではないであろうか。マルゼルブの原理は不動であった。そしてそのことゆえに、一七八八年以降あまりにも急速に、次々と現われる新しい状況にかれは次々と乗りうつるすべを知らなかった。世紀の半ばにおいてフランス政治思潮の先頭に立っていたマルゼルブを、新しい状況が追い越して行ったのである。その新しい状況がしばしば揺りもどしを伴わざるをえない性質のものであったとしてもこの事態にかわりはない。大革命のとき、かれは過去の人であった。かれは新しい時代を生むために、その七二年の生涯を捧げた古い時代の人間であった。マルゼルブの死は、いま消えようとする古き時代に捧げられたもっとも美しい頌歌であった。












『マルゼルブ フランス一八世紀の一貴族の肖像』

2014-12-19 23:53:35 | 読游摘録

 12月10日のトクヴィルについての記事の中で言及したマルゼルブについては、日本語での本格的研究は今でもそれほど盛んとは言えないようであるが、木崎喜代治『マルゼルブ フランス一八世紀一貴族の肖像』(岩波書店、一九八六年)は、膨大な当時の資料からマルゼルブをその時代の中に位置づけなおそうとするとても貴重な研究で、それは、「名のみわずかに知られているこの人物に、それにふさわしい内実を与えようとする試みであると同時に、この人物の素描を通して、一八世紀フランスの政治と思想の世界を、これまでよりも多様で豊穣な相において把握しようとする試みでもある」(同書ix頁)。
 著者のこの控え目な目的設定にもかかわらず、そのような目的のために歴史的検証を積み重ねていくその篤実な学問的作業から浮かび上がってくるのは、啓蒙の世紀の精神を体現した傑出した一貴族の肖像だけではなく、フランス一八世紀の政治と思想の世界の一つの新しい描出に尽きるものでもなく、時代を表現する一つの生きられた思想であり、その思想は、それを生きた思想家が政治に関わる場面において時の権力によって断罪されようとも、そのような政治的事実の次元を超えて、普遍性を有しているということである。思想の「貴族性」とはそのようなものではないかと思う。









人間経験把握の三つの契機 ― ジャン=ルイ・クレティアン『内的空間』を読む(六)

2014-12-18 23:33:52 | 哲学

 ジャン=ルイ・クレティアンによれば、「心の部屋」という空間表象が西洋精神史において決定的な重要性をもつのは、単にその表象が福音書の一節の解釈に始まっているからではない。それだけのことなら、歴史的関心の領域を超えるものではない。
 そこで決定的な重要性をもっているのは、「心の部屋」がその場所を与える「経済活動」「エネルギー変換」「劇的なるもの」、つまり、その空間表象が人間経験の総体に関する把握を定式化し、組織化し、構築することを可能にするその仕方である。
 この文脈では、「経済」学とは、外部と内部との間のやりとり、この「部屋」に出入りする事物を考察することであり、「エネルギー」学とは、このやりとりを司るか乱すかする心的な諸力の本性についての科学であり、「劇的なるもの」の学とは、この「部屋」の中で起こる出来事や行為の性質をその対象とする学である。
 かくして、「心の部屋」という内的空間概念は、人間のある自己理解の仕方から生まれた一つの結果にとどまるものではなくして、むしろ人間の自己理解の仕方を決定的に方向づける基礎的概念の一つとして西洋精神史の中で機能し続ける。











「魂の経済」 ― ジャン=ルイ・クレティアン『内的空間』を読む(五)

2014-12-17 21:41:15 | 哲学

 マタイ福音書の「己が部屋にいり」を聖書の他の箇所と整合的に解釈するために、その「己が部屋」を心という「内的部屋」だとする解釈が、ラテン教父たち ― 例えば、四世紀のポワティエのヒラリウスやアウグスティヌスに洗礼を授けたミラノのアンブロジウスなど ― によって、一般化されていった。
 しかしラテン教父たちに先立って、この心と部屋とを同一化する表象はすでにギリシア教父たちによって用いられ始めていた。例えば、二世紀半ばに生まれたとされるアレクサンドリアのクレメンスにおいては、次のような仕方によってである。

主が私たちにそうするように説いたとおり、汝は己の部屋に身を引いて心のうちで神を讃えつつ祈るのであれば、もはやただ家の良き秩序に気を配るだけでなく、魂の良き秩序についても気を配れ。

 この引用は、クレティアンの本に引用された仏訳(前掲書三十三頁)からの重訳であるから、ギリシア語原文に対する忠実性については保証の限りではないが、ここで注目したいのは、その仏訳の中の「良き秩序(bon ordre)」の後ろに括弧に入れて示された « oikonomia » という原語と、それについての注解である。
 このギリシア語は、エコノミー(économie)の語源であるが、「家」を意味する « oikos » と 「法、行政」を意味する « nomos » との合成語で、もともと「家のことを司ること、およびそのための取り決め」を意味していた。つまり「経済」とは、語源的には「家政」のことなのである。
 したがって、「魂の oikonomia」とは、魂の司りということで、アレクサンドリアのクレメンスは、ここで、物質的なものの司りから精神の司りへと、家族から唯独りの人へとトピックを移行させているということになる。
 では、「魂の経済」とは、より具体的には、どのようなことなのか。それは、魂が何を獲得し、保存し、配分するのか、何を受け入れずに外に残したままにするかを決めることであり、魂の内部と外部との交渉をいかに取り行い、両者間の取り決めをいかに決定するかがそこでの問題なのだ。つまり、己の魂を司ることとして「魂の経済」は、魂の内部に引きこもって外部との関係を遮断することではなく、まったく逆に、いかに外部と交渉し、内部をそれとして確保し、経営していくかということを考える、魂への配慮とそのために必要とされる技術のことなのである。

(追記 この記事は、今日の午後五時前に着いた東京の実家で書いた。)











聖書における解釈の葛藤 ― ジャン=ルイ・クレティアン『内的空間』を読む(四)

2014-12-16 15:11:46 | 哲学

 昨日見たマタイによる福音書第六章第六節の「己が部屋にいり」の箇所は、人間の行為の表象としては、旧約聖書のイザヤ書第二十六章第二十節の反響と見なすことができるかもしれないが、問題は、〈自分の部屋に入る〉という行為の意味が旧約と新約とでまったく逆転させられていることである。
 旧約では、ヤハウェ自らが人々に対して「わが民よゆけ、なんぢの室にいり、汝のうしろの戸をとぢて、忿恚のすぎゆくまで、暫時かくるべし」と警告している。神の怒りが過ぎ去るまで、神の顔を避けて、自分たちの部屋に身を隠せと言っているわけである。ところがマタイでは、昨日見たように、それぞれ個々に自分の部屋に入るのは、そこで内密に神に出逢い、言葉を交わすためであった。
 このイエスの言葉は、「共に祈る」ことを禁じることで、あらゆる宗教的共同体の解体へと導かねない衝撃力を有っている。ところが、おなじマタイの第十八章第二十節では、「二三人わが名によりて集まる所には、我もその中に在るなり」と言明されている。文字通りに解釈するかぎり、両者の間には、「矛盾」が見られる。同じ福音書内のこの「矛盾」が、マタイ第六章第六節の「己が部屋にいり」を文字通りに解釈することはできないと教会教父たちに考えさせたのである。
 山上の垂訓での「それぞれ自分独りで自分の部屋に入って祈れ」という説教が新約聖書の他の箇所と「矛盾」してしまうのは福音書内だけのことではない。「テモテへの手紙一」第二章第八節の「何れの処にても潔き手をあげて祈らんことを」や「エペソ人への手紙」第六章第十八節の「常にさまざまの祈と願いとをなし」とも矛盾してしまう。そればかりでなく、これら二つの説諭は両者相俟って、「どこでも常に祈れ」という教説を形成する。
 この文字通りの読解が引き起こす解釈の葛藤という困難を前にして、その解消のために、教父たちは、「キリストが私たちにそこに入って祈れと説いたのは、私たちの「心」の部屋、つまり内的「部屋」である」という解釈を導入した。この解釈が「心の部屋」という内的空間表象を西洋精神史に誕生させ、以後、この表象が、古代・中世を通じて、キリスト教的心性と道徳意識を規定していく。

(追記 この記事は、今朝自宅で書き、ストラスブールからTGVでシャルル・ド・ゴール空港に移動してから、搭乗手続き開始を待ちながら、投稿した。)












「なんじは祈るとき、己が部屋にいり」― ジャン=ルイ・クレティアン『内的空間』を読む(三)

2014-12-15 19:03:46 | 哲学

 昨日の記事で取り上げた「心の部屋」は、福音書に由来する表現だが、しかし、それは、間接的な仕方でのことである。この表現の起源は、「マタイによる福音書」の第六章第五、六節の或る解釈にあるのである。この箇所は、他の福音書に並行記事がない。その或る解釈が、聖書本文の文字通りの意味に、別の意味、つまり精神的な意味を与え、この意味がキリスト教徒たちにとってたちどころに権威を有つようになる。この箇所は、イエスのいわゆる「山上の垂訓」に見られ、弟子たちにいかに祈るべきかを説いているところであり、「主の祈り」に先立つ。

なんぢら祈るとき、偽善者の如くあらざれ。彼らは人に顕さんとて、会堂や大路の角に立ちて祈ることを好む。誠に汝らに告ぐ、かれらは既にその報を得たり。なんぢは祈るとき、己が部屋にいり、戸を閉ぢて隠れたるに在す汝の父に祈れ。さらば隠れたるに見給ふなんぢの父は報い給はん。

 ジャン=ルイ・クレティアンによれば、ここでの「なんぢら祈るとき」から「なんぢは祈るとき」への移行、つまり二人称複数から二人称単数への移行は、決定的な重要性を有っている。密やかに祈れという教説は、個々人それぞれに向けられている。その都度唯一の神に祈る唯独りの掛け替えのない人に向けられているのだ。
 ギリシア語原文では「汝の扉(τὴν θύραν σου)」となっている。二度繰り返される「隠れたる」は « krypton » で、フランス語で地下礼拝堂を意味する « crypte » の語源である。ここでの「部屋」とは、だから、唯一人のための地下礼拝堂のことなのである。
 この「隠れたる」在処は、見えざる神のことではない。私自身が隠れていること、私の行為が隠れていることを意味している。それは、他者たちにとって隠されているばかりでなく、自分自身に対してさえ隠されていることさえある。しかし、神にとっては、それは「隠れたる」ものではない。神は隠れたる者の裡で、すべてを見給う。
 隠れたるものさえ、その証人を必要とするのだ。その証人がいないと、心が揺らいでしまう。この隠されてはいない隠されたものが、私の心の内在性の次元であり、それはただ神にとってのみ、そのような次元でありうる。

 

 

 

 

 

 

 

 


「心の部屋(cubiculum cordis)」― ジャン=ルイ・クレティアン『内的空間』を読む(二)

2014-12-14 12:27:25 | 哲学

 初期キリスト教会の教父たちがラテン語で « cubiculum cordis »(心の部屋)と名づける表象は、精神的内在性に関する空間表象として、西洋思想史において最も重要で最も持続性がある表象であるとジャン=ルイ・クレティアンは言う(J.=L. Chrétien, L’espace intérieur, op. cit., p. 29)。
 古代・中世を通じて、多数のキリスト教著作家たちによって用いられたこの「心の部屋」という空間表象は、近代に入ると、第一義的な宗教的次元から離脱させられ、「世俗的」な精神の部屋という意味に変換される。それは十九世紀の作家たちにまで見出すことができる。
 西洋思想史においてかくも持続的に用いられてきたこの〈部屋〉という表象は、人間精神の枠組みを規定してきたわけだが、それに応じて、人間の行動に関する命令と禁止を方向づけ、その日常生活に一連の規則を与えてもきた。
 この「部屋」を、クレティアンは同書の中で « topique » と名づける。アリストテレスを念頭に置いての用語だが、さしあたり、ある一定の事柄が一定の仕方で実行される「場所」と見なすことができるだろう。しかし、この「場所」は、それ自体において第一次的なものと考えられていて、通常の意味で「部屋」を考えるときに想定されるような「住居」は考慮の外に置かれている。つまり、古代から中世にかけてラテン語において « cubiculum cordis » と言われるとき、それは外からいきなり入る場所のことなのである。
 ここでの「心」とは、キリスト教的な意味でのそれであり、人間の人格的同一性、人間の存在の核であり、知性と意志を含むが、いわゆる様々な世俗的感情は含まれない。しかし、そのことは、外部からの刺激に応じて情意・情動(affects)が「心」に発生することを排除するものではない。
 この「心の部屋」には、もちろん「扉」があり、ときには「窓」もある。しかし、そこに「家具類」はない。ただし、場合によっては「寝床」だけはある。実際、ラテン語の « cubiculum » という言葉は、「寝室」を意味する。
 この「部屋」は、したがって、内密な場所であり、自分自身へと引きこもり、外部や社会的関係からは身を引くときの在処である。しかし、この「部屋」にあって、私は独りきりなのではない。なぜなら、まさにこの「部屋」こそ、私において神が現前する場所であり、そこで私は神と出逢い、神と言葉を交わす。
 「心の部屋」が神学・哲学的に重要性を有つのは、この意味においてなのである。人間の最も奥深い内部が真理の場所でありうるのは、それが出逢いの場所であり、私がそこで神の前に神と共にある場所であり、私が神の言葉を聴き、神に語りかける場所だからである。
 つまり、今日的な哲学的言語(というとき、クレティアンがレヴィナスを念頭に置いていることは明らかである)に従えば、同一性とは、そこに最も生き生きとした他者性が絶えず到来する場所であり、このことこそが「心の部屋」を近代哲学の「主観性」から区別している。私の中心は脱中心化されており、私の内在性は(〈他者〉に)住まわれている。そのことが、私の内在性をそれとして在らしめ、それとして基礎づけている。











西洋哲学における〈心〉の表象史 ― ジャン=ルイ・クレティアン『内的空間』を読む(一)

2014-12-13 13:50:26 | 哲学

 いかに現代の哲学が、様々な立場の違いを超えて、その一般的な傾向として、魂・心・精神・意識等を人間の純粋な内部・内面としてそれら以外である外部と区別し両者を対立させるという、いわゆる二元論的構図に対して批判的であるとしても、私たちの日常の言語使用においては、例えば、自分の心を「自分のうち」とするような、心にその外部とは区別され得るある一定の広がりを認める表現は現に広く流通している。
 そのような心の「内的空間性」を認める日常言語における一般的傾向は、その傾向のうちに反映された心身二元論的構図を英米哲学系の論客たちが近代哲学の誤謬の産物として取り壊そうと躍起になっても、あるいは、脳科学の専門家たちが心の動きを脳内の物理化学的反応に還元しようとしても、一向に消滅しそうにない。
 このように心が「内的空間」として表象され続ける理由は、どこにあるのだろうか。他者にも共有可能な空間表象に頼らなければ心の内密な動きも言語によっては表現できないということにあるのであろうか。つまり、「純粋な内在性」の言語などというものはありえず、多かれ少なかれ他者と共有された〈外在性〉を媒介としてはじめて、〈内在性〉はそれとして表現されうるに過ぎないという消極的な理由からなのであろうか。
 このような問いに対して何らかの立場からする哲学的議論によって一挙に決着をつけようとするのではなく、心を「部屋」「家」「寺院」「城」などと表象してきた「内的空間」の表象史の変遷を西欧キリスト教世界におけるその起源から近代を経て二十世紀まで辿り直すことで、西洋哲学史を貫く根本問題の一つとして「内的空間」という問題を立て直すという、桁外れの博覧強記と犀利な哲学的分析力とを必要とする試みに取り組んでいるのが、パリ=ソルボンヌ大学教授ジャン=ルイ・クレティアン(Jean-Louis Chrétien)の『内的空間』(L’espace intérieur, Les Éditions de Minuit, collection « Paradoxe », 2014)である。
 著者のいつもの流儀で、見かけは瀟洒だが途方も無い問題提起力を有ったこの本を、明日から何回かに亙って紹介していく(ただし、日本への一時帰国を間近に控えているので、断続的な投稿になるかもしれない)。
 しかし、単に興味本位からこの本を紹介したいわけではなく、私自身の研究にも密接に関わる問題がその中に提起されているからこそこのブログの記事として取り上げるのであり、したがって、本の内容を忠実に紹介するというよりは、私自身の問題意識に引きつけた読み方を提示することになるだろう。












王家に連なる一族の末裔の娘への叶わぬ愛 ― トクヴィルとネルヴァルにおける「失われた時」(三)

2014-12-12 06:00:27 | 随想

 昨日読んだ「アドリエンヌ」前半に引き続き、今日はその後半を読む。

 À mesure qu’elle chantait, l’ombre descendait des grands arbres, et le clair de lune naissant tombait sur elle seule, isolée de notre cercle attentif. — Elle se tut, et personne n’osa rompre le silence. La pelouse était couverte de faibles vapeurs condensées, qui déroulaient leurs blancs flocons sur les pointes des herbes. Nous pensions être en paradis. — Je me levai enfin, courant au parterre du château, où se trouvaient des lauriers, plantés dans de grands vases de faïence peints en camaïeu. Je rapportai deux branches, qui furent tressées en couronne et nouées d’un ruban. Je posai sur la tête d’Adrienne cet ornement, dont les feuilles lustrées éclataient sur ses cheveux blonds aux rayons pâles de la lune. Elle ressemblait à la Béatrice de Dante qui sourit au poète errant sur la lisière des saintes demeures.

 アドリエンヌの歌につれて、闇が大樹の間から降りて来る。昇り始めた月の明かりが、彼女のみを照らし、固唾を呑んで聴き入る少女たちと「私」の輪から彼女を截然と際立たせる。彼女が歌い終えても、その後の沈黙を破ろうとするものは誰もいない。芝一面が、草の先々にその小さな白い破片を広げつつある、弱く、凝縮された霧によって覆われていた。まるで天上の楽園にいるかのようだ。
 「私」はやおら立ち上がると、月桂樹が植えられた単彩の陶器の花瓶が置いてあるお城の花壇に向かって駆け出す。王冠のように編まれ、リボンで結んである枝を取って戻ってくる。そして、アドリエンヌの頭にその月桂樹の冠を戴せる。その艶やかな葉は、青白い月の光に照らされた金色の髪の上で、光彩を放つ。その姿は、聖人の家のほとりを彷徨っていたダンテに微笑みかけるベアトリスを彷彿とさせる。

 Adrienne se leva. Développant sa taille élancée, elle nous fit un salut gracieux, et rentra en courant dans le château. — C’était, nous dit-on, la petite-fille de l’un des descendants d’une famille alliée aux anciens rois de France ; le sang des Valois coulait dans ses veines. Pour ce jour de fête, on lui avait permis de se mêler à nos jeux ; nous ne devions plus la revoir, car le lendemain elle repartit pour un couvent où elle était pensionnaire.
 Quand je revins près de Sylvie, je m’aperçus qu’elle pleurait. La couronne donnée par mes mains à la belle chanteuse était le sujet de ses larmes. Je lui offris d’en aller cueillir une autre, mais elle dit qu’elle n’y tenait nullement, ne la méritant pas. Je voulus en vain me défendre, elle ne me dit plus un seul mot pendant que je la reconduisais chez ses parents.
 Rappelé moi-même à Paris pour y reprendre mes études, j’emportai cette double image d’une amitié tendre tristement rompue, — puis d’un amour impossible et vague, source de pensées douloureuses que la philosophie de collège était impuissante à calmer.
 La figure d’Adrienne resta seule triomphante, — mirage de la gloire et de la beauté, adoucissant ou partageant les heures des sévères études. Aux vacances de l’année suivante, j’appris que cette belle à peine entrevue était consacrée par sa famille à la vie religieuse.

 アドリエンヌは立ち上がった。すらりと背筋を伸ばしながら、「私」たちに気品に満ちた別れの挨拶をし、お城の中へ戻っていった。彼女はフランスの歴代の王家に連なる一族の末裔の娘だという。つまり、彼女の血管にはヴァロアの血が流れている。このお祭りの日だけ、彼女は「私」たち「平民」と一緒に遊ぶことを許されていたのだ。彼女は寄宿している修道院に翌日戻らなければならなかった。だから、「私」が彼女と再び会うことはなかった。
 シルヴィの傍に戻った時、彼女が泣いているのに「私」は気づく。言うまでもなく、「私」がアドリエンヌに捧げた月桂樹の冠がその涙の原因であった。もう一つ取って来ると「私」が言っても、「そんなものいらない、自分はそれに値しない」と拗ねる。「私」は言い訳を試みたが、無駄である。家まで送る帰り道、シルヴィは一言も発しない。
 新学年開始とともにパリに呼び戻されたとき、「私」は、悲しくも途切れてしまった淡い友情と報われることのないぼんやりとした愛という二重のイメージを引きずっていた。学校で習う哲学では癒すことができない悲痛な思い出がそこから湧き出してくる。
 輝かしいアドリエンヌの姿だけが心の中に残った。その姿は、栄光と美の幻影として、学業で疲れた「私」の心をよく癒してくれた。次の年の夏休みのこと、前年の夏休み中にわずかに垣間見たこの美しい少女が、その家族の願いによって、修道女として宗教生活に身を捧げたことを「私」は聞かされる。

 互いに異なった分野での表現者であるにもかかわらず、トクヴィルとネルヴァルとの間に精神の深層における親近性を認めることができるとすれば、その理由の一つは、決定的に失われ「今ここにはないもの」としてのみ現在において形象化されうる〈高貴なるもの〉を絶えず想起しうる鋭敏で繊細な歴史への感受性を両者が共有していることにあるのではないであろうか。
 この感受性を涵養し、失われた〈高貴なるもの〉に表現を与え続ける努力をすること、そのために日々書き続け、表現の技法としての修辞の訓練と工夫を重ねること、広い意味での〈書く者〉としての作家の使命の少なくとも一つは、そこにあると私は考える。