『未開社会の思惟』(1910年)と『原始的心性』(1922年)との間にある問題関心の差異は、それぞれの最後の数章に見られる探究の方向性の違いによく見て取ることができる。
『未開社会の思惟』の第四部第九章では、「心性の上級型への過渡」という問題が提起されている。この過渡は、「感じられた」分有(融即)から「表象された」分有(融即)への移行、あるいは漠然とした霊性から個別化された神性への移行として考えられている。この移行は神話を媒介としている。
このような分析は、一種の進化論を前提としている。同書のそれまでの部分ではそのような進化論を批判しているにもかかわらずである。この分析は、原始的心性における「神秘的」要素の還元不可能性をその結論としているとしても、当時なおヨーロッパ社会で支配的であった進化論的世界像からやはり完全に自由ではなかったのである。
ところが、『原始的心性』の最後の三章は、未開社会がヨーロッパの植民者の到来をどのように見ていたかという問題、つまり、閉じた社会への未知なる他者の到来の知覚の問題に割かれている。レヴィ・ブリュールは、そこに「自然な実験」を見ており、それによって、原始的心性における新しい出来事の解釈についてのそれまでの観察が確証されるだろうと考えたのである。他方、後に人類学が「異文化受容」(« acculturation »、「文化変容」とも訳される)と呼ぶようになる現象の研究の必要性を訴えてもいる。
これらの章は、他方で、実践的な狙いも持っている。というのは、「新しいもの嫌い」(« misonéisme »)の名の下に、原住民がヨーロッパ人によってもたらされた技術に対して抵抗する理由を説明しようとしてもいるからである。「その衝撃は、一般に彼らは閉じた世界に生きていただけにより一層激しいものだったはずである。彼らはその世界の仕切りが踏み越えられることがあるなどとは想像したこともなかったのである」(« La secousse a dû être d’autant plus violente qu’en général ils vivaient dans un monde clos, dont ils n’imaginaient pas que les parois pussent être franchies », La mentalité primitive, op. cit., p. 510)。
とはいえ、このような「閉じた世界」は、その内部に動性を欠いているわけではない。なぜなら、そのような世界を構成している社会的義務は、あらゆる個人を直ちにその義務の中に取り込むからである。例えば、ヨーロッパから来た医師たちが原住民たちの体に施した処置に対して、彼らは医師たちに賠償を求める。つまり彼らの閉じた世界のルールは、外から来た者たちにも直ちに適用されるということである。
『原始的心性』は、今日からすればすでに時代遅れと見なされるそのタイトルにもかかわらず、当時としては驚くべき反植民地主義のマニフェストになっている。ヨーロッパ人たちの到来と、その到来に意味を与えるために被植民社会が講ぜざるを得なかった策略とは、それら社会にとって大災厄であった。その大災厄を内側から記述することによって、レヴィ・ブリュールは植民地主義を告発しているのである。