「心性の論理」を理解し、その組織のされ方を確定的に示すというレヴィ・ブリュールの企図は、レヴィ・ブリュールがフランスにおけるその最も良き解説者の一人であったオーギュスト・コントの哲学に淵源する。
コントによれば、確かに、論理とは、諸事物に働きかける科学的な活動のために人間精神によって切り出された諸記号を記述するだけで満足するものではなく、一般に共通する生活の中から生まれ、「感情の論理」(« logique des sentiments »)とコントが呼ぶところのものにしたがって組織される諸関係を記述するものでもなければならない。
ところが、このような企図は、論理と感情とが対立させられているかぎり、最初から理論的困難に突き当たらざるをえない。英国において、ジョン・スチュアート・ミルによって展開され、そしてバートランド・ラッセルによって洗練された論理のような形式論理を生み出すことはできない。しかしながら、このような企図は、フランス社会学が新しいタイプの心理学として己を提示するかぎりにおいて、その社会学に推進力を与えることになった。この新しいタイプの心理学としての社会学は、人間精神によって実現された総合化を、その「原始的な」レベルで把握することをその目的とする。ここでいう「原始的」とは、時間的な順序の意味においてではなく、論理的な意味においてである。
「心性の論理」の理解を目指す企図にとって不幸なことに、レヴィ・ブリュールは、原始的心性に「前論理的」(prélogique)という非常に誤解を招きやすい、その意味で不器用な規定を与えてしまう。今日の目でレヴィ・ブリュールを読み直せば、その意図は、記号論理に先立つ感情の論理へ立ち戻ることであったことがわかる。記号論理は、人間精神の産物としては、感情の論理の後に生まれたものでありながら、それを覆い隠してしまうに至っていることへの反省がそこには働いていたのだ。
レヴィ・ブリュールは、「原始的な」感情の論理の中に「幼稚な誤り」を見るのではなく、「社会的な思惟の現実的作用の一つの様態」を見ようとしていたのである。ところが、感情の論理を「前論理的」と規定してしまったことで、本来レヴィ・ブリュールの企図がもっていた反進化論的態度の勢いが大きく削がれてしまったのである。それだけでなく、レヴィ・ブリュールの心性の社会学には「前論理主義」というレッテルが貼られてしまい、レヴィ・ブリュール自身、その誤解を解くのに以後苦労することになる。最終的に、レヴィ・ブリュールは、「前論理的」という表現そのものを放棄するに至る。
しかし、そのような誤解がヨーロッパ社会に広まったという事実そのものが、当時の西欧社会の「他なるもの」に対する典型的な態度を反映しているとも言える。このいわゆる「前論理主義」の考え方によると、原始的心性は、「私たちが持っている」論理的枠組みを欠いている、ということになる。もちろん、このようなテーゼの理論的根拠はきわめて脆弱である。まず、「原始的心性」という研究対象を、そこに欠けているものだけによって記述しようとしているからである。それに、そもそも論理を欠いた思考形態の可能性を考えることはきわめて困難だからである。
「前論理的」という術語を導入することでレヴィ・ブリュール自身が記述したかったのは、記号論理とは違った、もう一つの「他なる論理」(autre logique)だったのである。この「他なる論理」はすべての人間精神に宿っているものなのだが、その表現が「文明社会」では見えにくくなっているがゆえに、「未開社会」(sociétés primitives)へと方法的に迂回することで、その論理に新たな表現形式を与えようというのがレヴィ・ブリュールの企図であった。
古典的進化論と誤解されやすい見かけの下で、レヴィ・ブリュールの精神において実際に生まれようとしていたのは、当時としては驚くべきほどの文化相対主義的なアプローチだった。なぜなら、人間精神の論理的活動をその社会的生誕地に立ち戻らせることで、その活動の起源を複数としてとらえようとしているからである。