ちょっとネット上で調べてみただけなので確証はないが、どうも La mentalité primitive の邦訳はないようである。1910年刊の Les fonctions mentales dans les sociétés inférieures の方は、岩波文庫に『未開社会の思惟』というタイトルで収録されており、今でも簡単に入手できるのに、どうして La mentalité primitive の方は邦訳されないままなのだろうか。
面白いことに、フランスでは、後者の方が今簡単にポッシュ版で入手できるのに、前者は、印刷された出版物として入手するには古本を探すしかない。ただ、こちらのサイトから1951年刊行のPUF版をダウンロードできる(このUQACというカナダのケベック州にある大学が運営・管理しているらしいサイトは、こうした入手が困難になっている人文科学系の本の電子版を積極的に無償で提供してくれていて、大変ありがたい)。
ケックの La mentalité primitive の巻頭に置かれた序論を頼りに、『未開社会の思惟』の中にすでにはっきりと見て取ることができるレヴィ・ブリュールの未開社会への関心の所在と方向性を確認しておこう。
1910年にこの本が刊行された時点では、レヴィ・ブリュールは、デュルケーム社会学派に属していると一般に見なされていたが、すでに同書の中に両者の方向性の違いがはっきりと現れている。デュルケームは、社会的支配力ははっきりと相互に限定された心的カテゴリーを通じて発現すると考えているが、レヴィ・ブリュールは、社会的支配力はその諸可能性を混乱した仕方で表現する感情を通じて、それに本来相応しくない形でしか発現しないと考えている。デュルケームは、社会的支配力は象徴的な形象を通じて可視化され、その形象が社会的支配力を制御すると考えているが、レヴィ・ブリュールは、社会的支配力はそれが諸個人のうちに発生させる諸感情を通じて作用するために、それ自身は不可視のままにとどまると考えている。レヴィ・ブリュールによれば、支配力というものは、それ自体としてはけっして顕れないもの、たとえ法廷のように明確に規定された形態においても、それ自体としては顕れないものである。支配力は、必ず多様に分節化され、その総体をもって、その支配力に帰属する成員の行動の諸形態を規定する。
この複数性をもっていて輪郭が曖昧な全体を、レヴィ・ブリュールは、「心性」(mentalité)と呼ぶのである。「心的なもの」(mental)は、だから、諸個人の「頭の中」に棲まう得体のしれない力のことではない。この意味での「心的なもの」とは、いわば諸個人のまわりに現前するもので、諸個人がそこにあって行動を方向づける「力の場」(champ de forces)のようなものなのである。この様々な形態においてある場において発現する複数の力に共通するものを記述するために、レヴィ・ブリュールは、「心性」という言葉を民族学研究に導入したのである。
この術語の導入は、ある方法的意識に基づいている。「心性」とは、ひとつの「タイプ」であり、ある複数の行動形態が共有しているものを、それらとは異なる他の複数の行動形態との対比において明らかにすることを可能にする。このようなアプローチがそれら一群の行動形態間の連接的類似性の理由を理解させるという点において、ケックが指摘するように、レヴィ・ブリュールの方法論は、ウィトゲンシュタインにおける「家族的類似」の考え方と親近性がある。