戦争が世界的規模になったのだから、ヨーロッパの争乱の原因であった経済的諸関係は、「正義」という普遍的な鏡に照らして、これからその向かうべき方向が見定められなければならない。
レヴィ・ブリュールは、第一次世界大戦直後の1920年に発表した記事の結論でこのように述べている。この記事には、« L’ébranlement du monde jaune »(「黄色い世界の震撼」)という、中身を読まなければ、今日の目からすると、たちどころに人種差別的と誤解されかねないタイトルが付けられているが、実際には、戦後最も早く出版された反植民地主義のマニフェストの一つなのである。
1919年、レヴィ・ブリュールは、ジョン・デューイやバートランド・ラッセルのように、中国で一連の講演を行っている(因みに、岩波文庫『未開社会の思惟』下巻の訳者山田吉彦の「あとがき」によると、1917年に、アメリカで近世哲学史を講じた後に、東京のアテネ・フランセで何回かの講演を行ったという)。その中国講演旅行の際に、レヴィ・ブリュールは、おそらく五四運動を目撃しているはずである。旧帝国から解放された自分たちの国を西洋的理想に従って作りなおそうという中国人学生たちの叫びが耳朶に響いたはずである。
その講演旅行での経験と見聞から引き出された教訓を、レヴィ・ブリュールは、植民地世界全体へと敷衍する。それまでのレヴィ・ブリュールの人類学的・民族学的研究は、心性の二元論を前提としていたが、その心性の二元論は、西洋と東洋との対立という図式をその礎としていた。その基礎的図式が根本から揺るがされるのを、レヴィ・ブリュールは、まさに自らの出来事として経験したのである。
もちろん、今日の私たちの目から見れば、「黄色い世界の震撼」という衝撃は、西欧に優位を置いた対立的図式を脱構築させるには程遠いし、レヴィ・ブリュールの当時の世界状況の認識はもはや完全に過去のものであることは認めざるをえない。特に、当時の東アジアの中で日本の占める位置について、正確かつ充分な知識を欠いていたことは否定できないであろう。しかし、少なくとも、レヴィ・ブリュールは、東西世界の接近という新しい世界図式の到来を、大戦の戦火の傷跡がまだ生々しくいたるところに残っているフランスにあって、感動と期待とをもって受け入れようとしているとは言うことができるだろう。
Jusqu’à notre siècle, ces deux grandes portions de l’humanité ont vécu d’une vie séparée. Plus exactement, l’une des deux seulement se portait vers l’autre : le rapprochement demeurait, si l’on peut dire, unilatéral, dû surtout à l’esprit d’entreprise des Européens. [...] Leur mentalité, leurs croyances, leur manière de vivre différaient profondément de celle des Blancs. Dans toute la force du terme, l’Occident, même présent, leur demeurait étranger. Aujourd’hui, en plus d’un point, cette attitude se modifie. À l’indifférence succède un intérêt croissant. Pour la première fois, l’Extrême-Orient se sent attiré vers l’Occident ou du moins désireux de ne plus l’ignorer. Pour la première fois, une pénétration mutuelle des deux mentalités, des deux civilisations va devenir possible (« L’ébranlement du monde jaune », Revue de Paris, XXVII, n° 5, 1920, p. 873).