内的自己対話-川の畔のささめごと

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レヴィ・ブリュール『原始的心性』(La mentalité primitive)を読む(6)―「分有(融即)の法則」

2015-06-11 16:23:10 | 読游摘録

 レヴィ・ブリュールは、西欧で発達した論理とは異なった「他なる論理」(autre logique)を記述するために、« participation »( 「分有」あるいは「融即」と訳される)という術語を導入する。この語は、レヴィ・ブリュールの思想においてその意味を捉えるのがとてもむずかしい語の一つである。この語の中には、レヴィ・ブリュールの思想の核が内包されている。『未開社会の思惟』の中でこの語を初めて本格的に心性の社会学的研究の中心的概念として用い始めて以後、レヴィ・ブリュールは、生涯を通じて、この語の定義を繰り返しやり直すことになる。
 最初、レヴィ・ブリュールは、「分有(融即)の法則」を、アリストテレス以来西欧の論理的思考の組織化の根幹にある矛盾律と対称的な位置をしめる思考の原理として措定する。一般的に、古典的な論理学においては、あるものは己自身以外のものではあり得ないという同一律を、そのあるものについて対話する二者間に共通理解が成立するために措定するが、「原始的心性」においては、あるものは、同時にそれ自身でありかつそれではないところのものでもありうる。
 ブラジルの原住民ボロロ族の人たちが、まったく当たり前のこととして、自分たちはアララという鳥であると言うとき、自分たちは人間でありかつ鳥であるという「論理的に矛盾した」ことを言っていることになるが、それは、彼らが同一律も矛盾律も知らないからではなく、それとは違った仕方で思考しているからなのであり、彼らの精神は、鳥という動物の精神へと方向づけられており、この動物の精神に或る「神秘的な」仕方で「与る」(participer)のだ、とレヴィ・ブリュールは考える。
 つまり、レヴィ・ブリュールは、「分有(融即)」を、同じ一つの論理学的範疇表の中に同一律や矛盾律と並んで置かれるような、もう一つの規則として見ておらず、ある特定の社会集団に共有されている社会的事実と見ている。自分は人間でありかつアララであるとある人が言うとき、その人が属する社会の諸制度全体が、その人にアララの分有(あるいはアララとの融即)を「事実として」として受け入れさせていると考えるのである。
 この « participation » という語は、すでにデュルケームが Les formes élémentaires de la vie religieuse (『宗教生活の原初形態』岩波文庫)の中で用いている。そこでの問題は、一つの社会的全体の諸部分が、それぞれ互いに分離されたまま、いかにして一体となるのか、という問いであった。ここで、感情がまさに「論理的」と呼べるような「普遍的」な役割を果たす。ある社会の構成メンバーが「実効的に」(effectivement)一体となるには、「実体的に」(substantiellement)一体になる必要はなく、それらメンバーが互いに一体だと「感じる」ことができれば、それで充分なのである。言い換えれば、自分たちが属している社会的全体のある「像」(image)あるいは「象徴」(symbole)を感情的に共有できれば、そこに「一体感」が生まれる。
 ここまで見てきただけでも、この「分有(融即)」が決して「未開社会」にのみ固有な「非文明的」な社会的事実に過ぎないものではないことがよくわかるであろう。レヴィ・ブリュールは、しかし、このデュルケームの「分有(融即)」に関する解決法は不十分だと考える。「分有(融即)していると互いに感じる」とはいったいどういうことなのか、民族誌的事実に即して、さらによりよく理解しようと努める。