内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「アイデンティティの困惑」― ヴァンサン・デコンブの対談を読む(4)

2015-06-30 08:44:19 | 読游摘録

 Vincent Descombes, Exercices d’humanité の第二章は、« Les individus collectifs »( 「集団的個体」)というタイトルが付けられている。この概念によって問題とされるのは、「国民」「国家」「社会」等、複数の要素から構成される全体を一つの個体として取り扱うことができるのか、という概念的可能性の問題である。同章の後半は、この問題と密接な関係がある「アイデンティティ」という概念の検討に充てられている。
 対談相手の Philippe de Lara が章の冒頭で立てている問いがこの章全体の導きの糸になっているから、そこをまず見ておこう。
 デコンブ氏固有の哲学的スタイルが形成されたのは、概念的あるいは「文法的」探究と人類学との出会いによってであり、それが一つの「社会哲学」(« philosophie sociale »)の領域とそこで取り組まれるべき問題群を規定している。この出会いは、次のような考えに基づいている。
 社会科学は、その学術的な探究において、概念に関する諸問題に直面せざるを得ない。その諸問題とは、経験的・実証的な探究の中で提起されるが、それ自体は経験的・実証的な次元に属さず、したがって、哲学的解明を必要とする諸問題のことである。
 これら社会科学者を困惑させる概念規定を巡る諸問題の中で、特にデコンブ氏が注意を注ぐのは、「集団的個体」の問題である。この問題の検討は、1992年にポンピドー・センターで行った、まさにこの「集団的個体」という概念をタイトルとした講演をその発端としており、一昨年2013年に出版された Les embarras de l’identité (『アイデンティティの困惑』) で再びこの問題に立ち戻り、それを詳細に検討し直している。
 この「アイデンティティ」という概念は、社会科学において実に特殊な位置を占めている。なぜなら、この概念は、不可欠でありながら、何か場違いでもあるからだ。というのも、「国民主権」や「通貨」のような社会的事実を考えるときには不可欠であり、したがって、それらの事実が問題とされる文脈では至るところで前提とされながら、この概念そのものに対しては、何か居心地の悪い思いをするからである。この居心地の悪さはどこから来るのか。
 「アイデンティティ」を問題とするとき、一方では、例えば「国民」「国家」などの集団的個体概念は、私たちの歴史の中の最も暗い時代へと連れ戻されるかのような恐れを私たちに抱かせ、他方では、実のところは在りもしない「実体」を前提とした不可解な言説を振り回しているだけではないかとの疑問が湧いてくる。
 私たちが直面するこのような困惑に対して、デコンブ氏は、何がそこでの問題なのかを明確化するために、問題を二つに分ける。
 まず、「集団的個体」のような概念に結びついたその知解に関わる困難という問題である。つまり、相互に作用し合う諸個人は、複数の相互作用する要素の集合以上のもの、一つの全体である「社会」を形成しているのか、という問題である。
 次に、「アイデンティティ」という言葉が私たちの言語の中で新たに持つようになった意味の問題である。言い換えれば、 「アイデンティティ」は、どのようにして古い意味から現在の意味へと移行したのか、という問題である。この「アイデンティティ」の意味の変化について、フランス語で、今日、« identique » と « identitaire » という二つの形容詞が使い分けられていることにその一つの徴表を見て取ることができる。古い意味は、« identique » という形容詞に対応し、新しい意味は、« identitaire » という形容詞に対応している。
 デコンブ氏がこの二つの形容詞の意味の違いを明確にするためにそこで挙げている具体例を見てみよう。
 あるフランス語圏のカナダ人がフランス語を話すとき、そのカナダ人は、その言語圏に属する人たちと「同じ」(« identique »)言語を話している、と言うことができる。これはごく一般的な用法で、例えば、お互いに咬み合わない議論をしている日本人二人について、「同じ日本語を話しているのに理解し合えない」などと言うときも同様である。これらの場合、ある一つの言語が実体的に同定可能な対象と考えられている。このような同一性が「アイデンティティ」のもともとの意味であった。
 ところが、このフランス語圏のカナダ人がフランス語を話すことは、その人にとって « identitaire » だと言うときには、フランス語がその人のアイデンティティの構成要素になっている、ということを意味している。言い換えれば、フランス語を話すということが、その人にとってあるグループへの帰属の条件になっているということである。したがって、もしその人がフランス語を話すことを禁じられてしまうと、その人のアイデンティティの少なくともその一部が損なわれることになる。逆に言えば、フランス語を話すことによって、その人はある集団的個体を肯定することに参加しているのである。