レヴィ・ブリュールが「社会的なるもの」を共同的な行動の知覚の仕方として捉えるとき、その心性の社会学は、ベルクソンの形而上学と交叉する。この交叉は、ベルクソンの形而上学が一つの知覚の哲学として提示されるかぎりにおいてのことである。
この両者の交叉点については、レヴィ・ブリュールにおける「神秘的」(« mystique »)という語の使用の仕方の中にその指標を見出すことができる。この語によって、レヴィ・ブリュールは、分有(融即)の或る一つの質を指示しており、この質が分有(融即)の知覚様態を表象の明確な枠づけから区別している。ここで「神秘的」ということは、集合的精神が全体的に顕現することを意味しているのではない。「神秘的」とは、集合的精神を知覚した個別的精神がその知覚によって変化させられながら、その変化の原因を明確に特定することができない状態にあることを意味している。
ベルクソンもレヴィ・ブリュールもそれぞれに己の思想の一つの源泉とした二十世紀初めのころに発展した神秘主義の心理学の教えるところによると、神秘主義とは、科学的観点からすれば全体的で空疎だと断罪されるような一つの認識形態であるよりも、「知覚された対象の必然的に不完全な性格によって発動される行動過程」(« un processus d’action enclenché par le caractère nécessairement incomplet de l’objet perçu », Présentation pour La mentalité primitive, op. cit., p. 18)である。言い換えれば、神秘的経験は、その対象を混乱したした仕方でしか把握しないから、その対象から受けた衝動を延長する行動過程を発生させるということである。
「神秘的」ということがこのような意味で理解されるところでは、それが宗教的な含意からすっかり切り離されていること、つまり、「神秘的」ということは、ある一つの組織された宗教のはっきりとした枠づけの中には入らないことがわかるだろう。そのように「神秘的」という語を使用することによって、レヴィ・ブリュールは、「日常的経験の中で接近可能な質的な異質性」(« une hétérogénéité qualitative accessible dans l’expérience ordinaire », ibid., p. 19)を指し示そうとしているのである。ここでレヴィ・ブリュールは、ベルクソンがそれを空間の等質的枠組みから切り離すために「持続」(« durée »)と呼んだところのものに接近している。
実際、レヴィ・ブリュールは、1890年に、ベルクソンの Essai sur les données immédiates de la conscience(『意識に直接与えられたものについての試論』ちくま学芸文庫)の書評を哲学専門誌 Revue philosophique に発表している。その中で、レヴィ・ブリュールは、ベルクソンにおける質的な異質性としての因果性という新しい考え方を強調しているが、他方では、ベルクソンの「純粋持続」に対して、持続を「社会化」(« sociologiser »)する必要性にも言及している。
「私たちは一人で持続するのではない」(« Nous ne durons pas seuls »)。このような視野に立つとき、「原始的心性」は、持続のさまざまは流れを、つまり、それぞれの個体において生きられている異なった持続の流れを、社会の空間的枠組みの手前のところで協調させる様態として考えられるようになる。