« Les Dialogues des petits Platons » という対談叢書は、各巻その最初の章で、その対談の主役である哲学者が、対談相手の質問に答えるという形で、知的自伝を語ることになっている。私がこれまでに読んだ巻の哲学者たちはみなほぼ同世代に属し、1940年代生まれが多い。それだけに、ほぼ同じ時期にフランスの哲学教育を受けながら、その出自、家庭環境、幼少期から思春期を過ごした土地、受けた学校教育、交友関係、師弟関係、広い意味での知的環境などの違いによって、それぞれの哲学の個性がどのように育まれていったのかが垣間見られて大変興味深い。
フランス語の初級を終えられて、本格的な哲学書はまだ歯が立たないけれど、フランス語で哲学的に考える文章(しかし、対談であるから、話し言葉の息吹をとどめており、構文は比較的易しい)を読んでみたい方、特にその対談の主役の哲学者に関心がある方には、おススメのシリーズである。造本も、最近の出版物には珍しく、糸かがりがしてあり、堅牢である。出版社のいい意味でのこだわりを感じる。
明日の記事から読んでいくのは、同叢書の Vincent Descombes, Exercices d’humanité — Dialogue avec Philippe Lara (2013) である。
ヴァンサン・デコンブは、1943年生まれ。フランスではいまだに少数派だが、英米系の分析哲学、言語哲学、心の哲学、行為の哲学等に精通し、特にウィトゲンシュタインからインスピレーションを受けながら、独自の哲学を展開している(当代フランスの最も優れた哲学者の一人であるジョスラン・ブノワ(Jocelyn Benoist, 1968-)もよくデコンブを引用していて、きわめて高く評価している)。
私は、同氏の Le complément de sujet (2004) から特に多くを学んでおり、自分の論文でも何度か引用している。奥様が日本人で、ストラスブールで一年間同僚だった十数年前から存じ上げているのだが、先日あるシンポジウムで久しぶりにご一緒したときに、この本を書くのに日本語の構造がご主人にインスピレーションを与えたかと尋ねたのだが、「まったくそういうことはありません」ときっぱりと否定された。それでなおのこと、同氏が同書の中で展開している « sujet » 論の一部がまさに日本語の構造にピタリと当てはまるのを面白く思った。
同書の書名 Le complément de sujet(伝統文法における文の主要素としての「主語」(« sujet »)という考え方を排し、« sujet » を目的格補語と同列に見なし、動詞の補語と見なす立場を表明している)は、今日忘れられかけているフランス人言語学者リュシアン・テニエール(Lucien Tesnière, 1893-1954)の構造的統語論に依拠していることが同書中に明言されており、しばしばテニエールの主著から引用もしているから、発想の源泉という点では、もはや誤解の余地はない。しかし、同氏には、もし日本語をお読みになれるのなら、是非時枝誠記の『国語学原論』を読んでいただき、ご意見を伺いたいところであるが、それは叶わぬ夢のようである。
デコンブ氏がソルボンヌで哲学教育を受けた時期は、いわゆる「六十八年五月革命」の前後であり、同氏がフランス現代哲学にとっても特別なその「季節」を学生としてどのように過ごされたかが対談の第一章で語られている。当時指導を受けた教授がすでに令名高きポール・リクール(1913-2005)であり、「演習」(« travaux pratiques »)を担当していたのが、「若き俊秀」ジャック・デリダ(1930-2004)であった。明日の記事では、デコンブ氏が高く評価する当時のデリダの演習の方法を紹介しよう。
以下に引用するのは、68年以前の大学教育現場の嘆かわしい「物質的条件」と、その中に颯爽と登場する若き未だ無名のデリダに触れた一節である。フランス語初級を終えられた方ならば、辞書なしでも容易に理解できる文章である。
Avant 1968, nos études s’étaient faites dans des conditions matérielles qui expliquent d’ailleurs pour moitié des événements de Mai. Il faut savoir par exemple qu’on ne pouvait pas suivre tous les cours, car il n’y avait pas assez de place dans les salles. Par ailleurs, un étudiant était assez libre de mener ses études comme il l’entendait. À l’examen, on ne demandait pas aux étudiants s’ils avaient assisté au cours, on leur demandait de faire une dissertation. Suivre les cours était une chose, faire la dissertation en était une autre. En somme nous étions libres de nous cultiver comme nous voulions. Mais il était déconseillé d’essayer de suivre plusieurs des grands cours, parc que les salles étaient trop petites. En revanche, on pouvait suivre les cours donnés par les jeunes maîtres assistants sous le nom de « travaux pratiques » et qui étaient en réalité d’autres cours. C’est ainsi que j’ai suivi les cours de Derrida — un professeur remarquable, très impressionnant, complètement inconnu puisqu’il n’avait pas encore publié de livres (V. Descombes, op. cit., p. 9).