ジャン・ジョレスの社会主義は、人類的レベルでの精神的原理の擁護を含意しているとしても、そのことは、フランスが、「人類のエリート」として、その理想を体現しているという自負を持つことを妨げるものではなかった。当時のフランス知識人たちの多くに共有されていたこの祖国への自負は、ジョレスとレヴィ・ブリュールの École Normale Supérieure の同窓であるデュルケームやベルクソンを、「ドイツ的心性と私たちの心性」あるいは「消耗する力と消耗しない力」とを対立的に見るヨーロッパ観へと導いた。
この点において、レヴィ・ブリュールは、それら同時代を代表するフランス知識人たちと一線を画する論説を展開している。その立場は、1915年に或る国際雑誌に発表された « Les causes économiques et politiques de la conflagration européenne »(「ヨーロッパの争乱の経済的・政治的諸原因」)という記事によく見て取ることができる。その同時代的考察は、単にドイツ側の戦争の首謀者たちの言説のみを対象とするものではなかった。レヴィ・ブリュールによれば、それらの言説は、戦争の「象徴」でしかなかった。
レヴィ・ブリュールがそこで試みていることは、ヨーロッパを未曾有の規模の争乱に至らせた構造的かつ心理的諸原因間の相互作用を「理解する」ことである。それは、単に「それぞれの国民の責任を確定する」ためばかりではなく、「事実からはっきりとした教訓を引き出し、将来再発するかもしれない同様な大災厄に備える」ためでもあった。レヴィ・ブリュールは、相互にますます依存性を強める国家間の対立を激化させる経済的・政治的諸関係の複雑な相互作用を喚起する。痛ましいアルザス・ロレーヌ問題、一触即発状態のバルカン半島、植民地問題処理をめぐるドイツの嫉妬、フランスの自己過信、オーストリア・ハンガリー帝国がかかえる内的緊張等々。
同時代の多くのフランス知識人たちが、フランスの参戦を正当化するために、敵国ドイツについての教条的なイメージを提示していたとき、レヴィ・ブリュールは、フランスとドイツが相互に争いの責任を擦り付け合う構造的な原因の作用を分析している。
「戦争を勃発させた国の中に戦争の諸原因を探すのは理にかなったことだと人々は考えている。しかし、それらをドイツの中にばかり探すのは公平とは言えないであろう。現在におけるヨーロッパ全諸国の経済的・政治的状態を考慮しなくてはならない」と、レヴィ・ブリュールは、同記事の中で訴えている。そして、「経済界は、通常は平和を何よりも望む」が、自分たちの商売に不利になるような緊張関係を解消するために、政府を戦争に駆り立てることがあるのだと説明する。
もし戦争の原因がとどのつまり経済的な性格のものであるのならば、戦争の解決も、武力によってではなく、経済によってなされなくてはならない。このような確信から、レヴィ・ブリュールは、積極的に軍部に働きかけ、前線から工場労働者たちを引き上げさせ、他方では、国内の女性労働力を活かし、フランス国内の産業強化を図る計画を献策する。このような政策は、国内で論議を呼んだが、労働者たちの意識を改革した。
このような戦争経験を通じて、レヴィ・ブリュールは、国民意識が国家組織から社会の底辺に至るまでの活動へと拡大するのを目の当たりにした。言い換えれば、「社会全体の可視性」(« la visibilité du corps social »)の変容を内側から観察することになったのである。