内的自己対話-川の畔のささめごと

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師から愛弟子へ献呈された曲 ― ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第28番 イ長調

2015-06-04 15:00:06 | 私の好きな曲

 ベートーヴェン四十六歳の時の作品。中期と後期との間の三年間のいわゆる「寡作期」の終りに位置する。後期の傑作群へと至る過渡期の作品、あるいは後期の入り口と位置づけられる作品。
 作曲時すでに十年数来のピアノの弟子の一人であったドロテア・フォン・エルトマン男爵夫人に献呈されている。優れた才能と深い音楽性を備えた夫人は、ベートーヴェンのピアノ曲の最も良き理解者の一人であったと言われている。
 第一楽章は、心の傷をそっといたわるかのような密やかに優しいメロディーで始まる。過去の苦しみをいささかの心の痛みを感じつつ回想しながらも、もうそれによって今の精神生活が乱されることはないほどの距離がそこにはあるような感じ。第二楽章は、そのようなしみじみとした情感性から身を起こし、決然と前進していくかのような力強い行進曲風の展開。中間部では穏やかなカノンに転じる。第三楽章は、深沈として瞑想的な、俯きながら静かにゆっくりと歩を進めていくかのようなメロディーで始まり、そこから第一楽章冒頭のメロディーの回想へと移行する。そしてトリラーを繋ぎとして、堂々たる主部が力強く展開される。その力強さは、しかし、第二楽章のいささか気負ったかような行進曲的な前進性ではない。ところどころに軽快さもそなえた高邁さ。堅固な意志の輝かしい表出をもって曲は閉じられる。
 最初に聴いたのは三十年以上前。アシュケナージの一九七六年録音のDECCA版だった。LPで繰り返し聴いた。その後しばらく聴かなくなったが、クラウディオ・アラウのピアノ・ソナタ全集をクリスマスプレゼントとして贈られて、またよく聴くようになった。その後その他の演奏もいくつか聴いた。その中では、エミール・ギレリスの演奏を最も好む。より最近の録音では、内田光子の演奏には心打たれた。すべての音符に込められるだけの意味を込めようとしたかのような入魂の演奏。
 この記事は、昨日届いたばかりの最後期五つのソナタを二枚のCDに収めたDECCA版で久しぶりにアシュケナージの演奏を聴きながら、いささか感傷的で回顧的な気分の中で書いた。