先月末二十九日から三十一日までパリに滞在し、三十日には、かねてから発表者の一人として参加する予定であった École française de Daseinsanalyse の年次最終研究集会で、「日本語における〈慎み深さ〉」について話した。会場は École normale supérieure rue d’Ulm の « Salle des Résistants »。
その日のテーマは « Retenue, honte et pudeur »(「抑制・恥・羞恥」)で、これらのテーマに関連する西洋の哲学・文学・絵画・民族的習慣・現実社会などに見られる表現の分析が主であった。現象学、精神分析、精神医学、心理学等の専門家たちの研究組織であるから当然のことである。
しかし、私の発表は完全に確信犯的「ずる」であった。自己表現における日本語そのものの「慎み深さ」という問題にすり替えてしまったのだ。これはもう苦し紛れの破れかぶれの窮余の策だった。当日のテーマに合った素材を日本社会の現実に即して探してみようとはしたのだが、どうにも自分で面白いと思えるものが見つからず、ずっと途方に暮れていたのだが、集会が二週間後に迫ってきたところで、とうとう「逃げた」のである。
それでも、せめて「受け」は狙おうと、枕のところでかなり笑いをとるという狡猾な「戦術」に出た。これがずばり当たった。五十人ほどの聴衆で一杯になった会場の空気が明らかにほぐれた。そうなれば、もうこっちのものである。日本語論を一気にまくしたて、与えられた時間通りに終えた。発表後の会場の反応も概して好意的で、いくつか出た質問にも「適当に」答え、なんとか窮地を切り抜けた次第である。
昼食会では、最初の発表者だった Françoise Dastur 先生の隣になり、その他の発表者・司会者たちとも楽しく会食することができた。
その昼食後は、イナルコの哲学研究会のメンバーと来年度のことなどをカフェで打ち合わせ、その後、私一人会場に戻った。集会がお開きになると、朝からずっと参加されていたご婦人の一人が近づいてきて、自分は精神分析を専門としているが、「あなたの発表を聴いて実にたくさんのことを学んだ。何か出版されている論文などあれば教えてほしい」という過分なお言葉も頂戴するという「おまけ」付きで、「意気揚々」とストラスブールに帰ってきたというわけである。
これで今年度の発表はすべて終了。大学の方は、夏休み前に残っている仕事と言えば、来週の追試の試験監督と採点くらいのもの。大学外では、バカロレアの日本語の筆記試験の採点の仕事が月末にあるが、これも半日もあれば済む。
明日から大森荘蔵の「ことだま論」仏訳を再開し(月末完成予定)、それと並行して七月の東洋大学大学院での集中講義と同大国際哲学研究センターの研究会の準備を始める。こちらのテーマは、「哲学的思考方法としての種の論理あるいは絶対媒介の弁証法」である。来年度、大学院での演習を通じて、サバティカルで日本からいらっしゃる先生と丸山眞男の共同研究を行うことになっているので、その下準備も始めよう。