内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

個体化過程に到来する「先験的」な形式 ― ジルベール・シモンドンを読む(31)

2016-03-21 06:09:00 | 哲学

 六つのポワンヴィルギュル(セミコロン)で区切られた七つの文で構成された十四行に渡る文章の残りの四つ文は以下の通りです。この四文は、質料形相論的図式および先験論的構図の批判として一まとまりをなしています。

Ici encore il faut se détacher du schème hylémorphique ; il n’y a pas une sensation qui serait une matière constituant un donné a posteriori pour les formes a priori de la sensibilité ; les formes a priori sont une première résolution par découverte d’axiomatique des tensions résultant de l’affrontement des unités tropistiques primitives ; les formes a priori de la sensibilité ne sont ni des a priori ni des a posteriori obtenus par abstraction, mais les structures d’une axiomatique qui apparaît dans une opération d’individuation.

 アリストテレスに淵源する質料形相論は、あからさまにそれが主張されていない場合でも、いやむしろその場合の方が、西洋哲学史の思考の枠組みを深いところで規定して来ました。最初に所与として与えられた質料は、それ自体は不定形なもので、それ自身には何らの自己形成力もなく、そこに形相が与えられてはじめて或る形が生まれる。この形相の方は、それ自体不変なものとして、質料とは独立に自存する。大雑把に言えば、こういう考え方です。
 この考え方の枠組みに囚われているかぎり、存在の生成について、つまり個体化過程について、その物理レベルでの起源から現代技術社会に生起している個体化過程をめぐる諸問題まで、総合的かつ徹底的に考えることはできない。こうシモンドンは考えているのです。その考えが上掲の引用箇所にも典型的な仕方で表現されています。ここでは、質料形相論とともに、カントの先験論もまた批判の対象となっていることがわかります。
 生命の世界を織り成しつつある諸形態を生成の相の下に全体として捉えるためには、それを妨げる主たる原因である質料形相主義と先験主義を放棄しなくてはなりません。現に生成しつつある個体の形は、その形の決定因としての形相を先験的なものとして想定することによっても、経験的所与から先験的形式を抽出することによっても捉えることはできないからです。
 生命世界をつねに構成しつつある諸形態の形成過程全体を把握するための思考は、それでは、どこから始まるのでしょうか。それは、極性を有した生命の世界に発生した諸要素間の葛藤の結果として生じた緊張状態に一定の解決を与えるものとして、生命世界の諸形態を捉えることからです。このような出発点から開かれるパースペクィヴに立つとき、感覚の先験的な諸形式と見なされてきたものは、実は、個体化作用の中で現れて来る一つの「公理系」の諸構造だということになります。





































































認識のはじまりにある有極性世界 ― ジルベール・シモンドンを読む(30)

2016-03-20 07:32:17 | 哲学

 昨日の記事で引用した二文の次の一文を引用します。

la connaissance ne s’édifie pas de manière abstractive à partir de la sensation, mais de manière problématique à partir d’une première unité tropistique, couple de sensation et de tropisme, orientation de l’être vivant dans un monde polarisé ;

 認識の起源、つまり、認識はどのようにして生まれるのかということがここでの問題です。認識は、所与としての感覚与件から抽出されることによって形成されるものではないとシモンドンは言います。では、どのようにしてなのでしょう。それを説明するのに、シモンドンは、生物学的概念である « tropisme » を導入します。
 この語についての『小学館ロベール仏和大辞典』の説明をまず見ておきましょう。

(1)屈性:植物が外部刺激に対して一定方向に屈曲する反応。
(2)趨性:屈性と走性 taxie を合わせた、以前の呼称。
(3)向性:固着生活をする動物のある部分が刺激源に対し一定の方向に向かって動く性質。

 « tropisme » とは、生物が刺激に対して一定の方向性をもって動く性質だとこれらの説明からわかります。
 上に引用した一文からだけではまだよくわからないところもありますが、シモンドンが認識の起源をどのように捉えようとしているかは予測することができます。
 上の文が言おうとしていることは、認識が生まれるのは、最初から或る一定の極性を有した生命の世界に発生した葛藤あるいは緊張状態に対して、生物個体が何か一定の方向に向かって解決をもたらそうとするときだ、ということではないでしょうか。
 ここまで読んできた「序論」の部分を踏まえて、シモンドンが認識の起源について考えていることを、私なりに以下のようにまとめてみました。
 認識のはじまりに在るのは、感覚対象に対して中立的な認識主体ではなく、生物個体に先立って存在する「客体的」環境世界でもない。認識は、生命の世界の中の個体化過程から生まれた生命体が、自分において発生した或る一定の問題(群)に対して、相互限定的な関係にある環境の中で、或る一定の方向に向かって解決を図ろうとするときに生まれる。



































































心理活動の意味を環境の中で捉えるために必要な作業 ― ジルベール・シモンドンを読む(29)

2016-03-19 06:29:15 | 哲学

 個体化理論の中で、或る準安定状態が孕んでいる葛藤に対する解決としての心理活動とはどのようなものなのでしょうか。それを理解するためには、生命における一連の準安定的システムが、あるシステムから別のシステムへと、どのようにして段階を追って成立・機能するに至るのか、その本当の道筋を発見しなくてはなりません。
 その発見のために必要な作業が順次述べられている文章の最初の二文が今日読む箇所です。この文章は、始まりからピリオド(ポワン)まで十四行もありますが、途中六つのセミコロン(ポワンヴィルギュル)で句切られていて、七つの文に分かれています。

Pour comprendre ce qu’est l’activité psychique à l’intérieur de la théorie de l’individuation comme résolution du caractère conflictuel d’un état métastable, il faut découvrir les véritables voies d’institution des systèmes métastables dans la vie ; en ce sens, aussi bien la notion de relation adaptative de l’individu au milieu que la notion critique de relation du sujet connaissant à l’objet connu doivent être modifiées ;

 上に述べた発見のためにまずしなければならないことは、二つの既存の考え方に変更を加えることです。
 一つは、個体の生成と生存とは、個体がそこで己が生きる環境に自分を適応させることにもっぱらかかっているという考え方です。
 この箇所には脚注が付いていて、それによると、特に環境を一つの等質的なものとする考え方が批判されています。環境自体が複数の現実の階層を統合化したシステムなのであり、しかも、それらの階層間のコミュニケーションは個体化過程以前にはまだ成り立っていません。つまり、環境は、個体化過程とともに環境としてのダイナミズムを獲得するのであって、個体発生以前にすでに所与の条件として在るのではないということです。
 批判的に検討されるべきもう一つの考え方は、認識主体の認識対象に対する関係という批判哲学に典型的に見られるシェーマです。いわゆる主客二元論の枠組みに留まるかぎり、個体化過程をその全体として総合的かつ妥当な仕方で把握することはできないからです。






















































個体化、それは問題解決のための新しい公理系の発見 ― ジルベール・シモンドンを読む(28)

2016-03-18 06:10:54 | 哲学

 昨日の記事の末尾に、亀や蝸牛のように遅々としたペースで読んでいくと書きましたけれど、今日から月末までは、それよりもさらに遅くなるというか、もう一日に原テキストの二三行ずつについてメモを残しておく程度の記事になります。
 このペースダウンの最も大きな理由は、締切りの迫った原稿に集中する必要があるということです。そのために来週と再来週の修士の演習を二回休講にして四月に補講をすることにしたくらい切羽詰っています。その原稿の内容は、二十世紀に仏訳された日本の哲学書についての概観です。仏訳された外国書の歴史を中世から順に出版している大規模な辞書シリーズの中の二十世紀の巻の一項目になります。
 さて、今日から読みはじめる段落は、ILFIの30頁一頁をほぼ占めている比較的長い一段落です。それを細切れにして、毎日細々と読んでいきます。

Aussi, psychologie et théorie du collectif sont liées : c’est l’ontogénèse qui indique ce qu’est la participation au collectif et qui indique aussi ce qu’est l’opération psychique conçue comme résolution d’une problématique. L’individuation qu’est la vie est conçue comme découverte, dans une situation conflictuelle, d’une axiomatique nouvelle incorporant et unifiant en système contenant l’individu tous les éléments de cette situation.

 昨日まで読んできた前段落の内容から、心理学と集団の理論とは互いに結び合わされていることがわかります。それは、個体発生という統一的な観点から複合的・重層的な個体生成過程を捉えるというシモンドンの一貫した思考が導き出した帰結です。
 集団への参加とはどいうことなのか、そしてまた、個体が抱えた問題群の解決として形成された心理的操作がどのようなものか、それを示しているのが個体発生なのです。
 過程としての生命に他ならない個体化は、葛藤や争いを孕んだ状況の中で、問題群を解決するための前提となる新しい「公理系」(一つのシステムとして構造化された自明性)の発見として生成されます。この公理系が、当の問題の個体をその裡に含んだシステムとして、個体がそこに置かれている状況を構成しているすべての要素を一体化し統合化するのです。


























































非実体論的関係概念 ― ジルベール・シモンドンを読む(27)

2016-03-17 05:58:31 | 哲学

 昨日と同じ要領で段落の最後まで読んでしまいましょう。
 これまで読んできた中でもすでに何度か繰り返されてきたことですが、個体は実体ではありません。そして、ここで、個体は集団の単なる一部分でもない、と明言されます。
 では、集団とそれに参加する個体との関係は、どのようになっているのでしょうか。集団は、個体的な問題群に解決をもたらすものとして個体に対して働く、とシモンドンは言います。これはどういうことでしょうか。以下がこの問いに対するさしあたりの答えですが、その答えの中に「関係」(« relation »)が再び鍵概念として出て来ます。
 集団的な現実の基底は、個体の中に部分的にすでに含まれています。その含まれ方は、個体化された現実に結び付けられたままの前個体化的現実という形を取ります。この考えに従うと、心理・社会的世界での関係は、実体論的思考における関係概念とはまったく異なっていることがわかります。ここで批判される実体論的思考とは、個体的現実を実体化してしまう考え方のことです。この考え方に拠ると、関係は、関係を構成することができる個体が一切の関係に先立って先ずそれぞれ在って、それらの間に成立するだけの事後的なものになってしまいます。ところが、存在を生成の相の下に見る個体化論においては、関係は、それを通じて個体が個体になっていく個体化の一次元です。心理・社会的世界においては、言い換えれば、集団的なものが個体に対して働きかけてくる世界では、関係とは、個体がそれに参加する個体化の一次元であり、その参加は、順次段階を追って個体化されていく前個体化的現実から始まっているのです。
 ここまで読んだところでの私の考えを補注として一言加えておきます。
 個体から関係の成立を考えるのではなく、関係から個体の生成・限定を考えるという思考の方向は、和辻倫理学にも見られますね。両者の比較は、現代社会における技術・身体・倫理を相互に密接に関連する問題として考えるというこの夏の集中講義のテーマを展開するためにも一つの重要な手掛かりを与えてくれるだろうと思っています。
 それはそれとして、両者の決定的な違いについて、さしあたりの私見を一言記しておきます。
 シモンドンの個体化過程論においては、関係生成の可能性の条件として前個体化的現実がつねに前提されています。ところが、和辻倫理学においては、「間柄」の底にあるのは「空」の運動であるように思われます。
 両者の比較については、しかし、後日立ち戻ることにして、少なくともILFIの序論を読み終えるまでは、これ以上立ち入ることはしません。
 亀のようなというか、蝸牛のようなというか、この遅々としたペースで読んでいくと、序論を読み終えるのは今月末か来月の初めになりますが、序論をきちんと読んでおけば、膨大な本論の理解もそれだけ明確な見通しをもって深めていけるでしょうから、焦らず怠らずに読んでいきます。



















































主体としての個体は「問題的な存在」である ― ジルベール・シモンドンを読む(26)

2016-03-16 17:46:51 | 哲学

 昨日の記事では、「通・超個体的」(« transindividuel »)という概念が新たに導入される箇所を読みました。今日はその続きを読みます。ですが、原テキストの訳に私の解釈と補足をかなり思い切って随所に織り込んでありますので(こんなこと論文じゃ絶対に許されませんけど)、今日の記事は敬体で統一します。
 「通・超個体的」なものからなる「心理・社会的世界」(« le monde psycho-social »)は、ただ単に社会的なものでも、一個の個体として個体化が完了したものでもありません。この世界は、真の個体化作用をその前提とします。真の個体化は、前個体化的現実をその起源としており、諸個体に結び付けられており、新しい問題群を構成することができます。この問題群はそれとして構成されると、それ固有の準安定性を獲得します。心理・社会的世界は、いわば量子的条件を表現しているのであり、この条件は、複数の異なった大きさの次元と相関的で、それに応じて可変的です。
 この世界でそれ固有の働きをする生命体つまり主体としての人間存在は、そこで「問題的な存在」(« être problématique »)として現働します。主体としての人間存在は、出来上がった統一体以上でありかつそれ以下のものです。一旦獲得された準安定性に固執せずに、より複雑で高次のシステム内システムへと自己変容できるという意味で完結した統一体以上のものであり、つねにまだ解決すべき問題を抱えている不完全なものであるという意味でそれ以下であるということです。
 生きているものが問題的だと言うことは、生成を生きるものの次元の一つとして考えることです。つまり、生きるものは生成の相の下にあるのであり、そこでは本来的に「媒介」(« médiation »)として働くものなのです。
 生きているものは、自ら個体化を実行するものであると同時に個体化の舞台(あるいは劇場)でもあります。生きるものの生成は、恒常的な個体化過程です。というよりも、一連の個体化の連続であり、それらの個体化は、準安定性から準安定性へと進んでいきます。
 生きるものの恒常的な個体化過程は、己に固有の問題を内に抱えている個体をその内に含みつつ、まさにそれら個体を媒介として、より高次の安定性をもったシステムの生成へと進んでいくのです。






















































心理的個体と集団との相補性あるいは「通・超個体性」について ― ジルベール・シモンドンを読む(25)

2016-03-15 09:19:59 | 哲学

 自分自身が抱えている問題を解決するために行為を通じて世界の一要素となって働くとき、個体には「心理」(« psychisme »)という次元が発生する。これが昨日読んだ箇所の要点でした。
 しかし、この心理的存在と成った個体は、己自身の内だけで自分固有の問題群を解決することはできない、とシモンドンは言います。言い換えると、心理的存在としての個体は、自分自身だけでは主体となることができないのです。個体が抱える問題解決の可能性の条件として導入されるのが「集団」(« collectif »)という次元です。しかし、あらかじめ一言断っておけば、この集団とは、個体化された複数の個体の単なる寄せ集めではありません。
 あらゆる個体化の基底として、「前個体化的現実」(« réalité préindividuelle »)ということがこれまで繰り返し言及されてきました。ここでもこの現実が集団を可能にしていると言うことができます。この現実は、心理的存在として個体化された個体につねに分有されています。心理的存在としての個体に分有された前個体化的現実は、個体化された生命体の諸々の限界を超えて、生命体を世界と主体とのシステムの中に統合します。この現実が、集団という個体の個体化の条件という形で「参加」(« participation »)を可能にします。
 集団という形で生成された個体化は、心理的存在と成った個々の個体をグループの個体つまりグループに結び付けられた個体にします。それを可能にしているのが、それぞの個体が分有している前個体化的現実です。この現実は、他の個体にも分有されているからこそ、「集団的統一体として個体化される」(« s’individue en unité collective »)のです。
 心理的個体化と集団的個体化という二つの異なった次元の個体化は、互いに他方を前提としています。心理的個体の存在しないところに集団的個体はありえないし、集団的個体のないところに心理的個体もありえません。
 この二つの個体化が « transindividuel » という、ここで新たに導入される範疇を定義することになります。この範疇が内的個体化(心理)と外的個体化(集団)とによって形成される全体のシステムとしての統一性を説明してくれます。なぜなら、この範疇は、個々の個体によって分有され、それらを活性化している前個体化的現実と、それら個体が内属する、その意味でそれら個体に対して高次の個体として生成された集団を活性化している前個体化的現実との共通性をそれとして提示するために導入されているからです。
 この共通性を « trans-» という接頭辞が示しているのですが、この接頭辞には「~を超えて」という意味と「~を通じて」という意味とがあり、« transindividuel » にはその両方の意味が込められています。つまり、「通個体的」と「超個体的」という意味です。いずれの個体にも分有されているという意味では前者に、そのいずれの個体の属性にも還元されえないという意味では後者に、それぞれ該当します。そこで、この両義性を反映させるために、こなれていない日本語であることは承知のうえで、以後 « transindividuel » を「通・超個体的」と訳すことにします。
 ところで、シモンドンと直接関係はないのですが、この « trans- » という接頭辞を使った哲学概念の一つとして私がかねてより注目しているのが、アンリ・マルディネの « transpassibilité » です。この概念については、博士論文の一つの注の中で少し言及してあります(2014年4月17日の記事を参照されたし)。















































物理・生命のレベルからから心理・集団のレベルへ ― ジルベール・シモンドンを読む(24)

2016-03-14 08:53:26 | 哲学

 昨日まで、一般存在生成論に他ならないシモンドンの個体化論を、個体化の第一範型である物理レベルでの個体化から始めて、物理レベルには還元できない特徴を備えた生物レベルでの個体化まで辿ってきました。
 今日から、「心理(現象)」(« psychisme »)と「集団」(« collectif »)のレベルでの個体化過程に入ります。一言先取りして言っておけば、この両者は、不可分で互いに他方を前提としています。
 存在としての「関係」についてシモンドンが立てた仮説を昨日一昨日と取り上げました。その仮説に従えば、個体の内的および外的関係を考えるために、もはや新たな実体を導入する必要はありません。この内的関係が心理に、外的関係が集団に相当します。どちらも生命のレベルでの個体化の後にやって来ます。
 まず、心理の次元はどのように発生するのでしょうか。シモンドンの考えを聴いてみましょう。
 以下の常体のテキストは、ILFIの「序論」29頁の第二段落の三分の一ほどの内容をほぼ忠実に追っていますが、私が加えた補足と解釈が微量ですが混じっています。
 心理は、ある一個の存在が、自分に固有の問題を解決するために、己自身問題そのものの構成要素として自らの行為によって働かなければならないとき発生する。一言で言うと、ある一個の存在が「主体」(« sujet »)として働くとき、心理が発生する。
 主体も、もちろん、個体化された生命体として存在している。しかし、それと同時に、世界を通じてその世界の要素と次元として己の行為を自分に対して表象する存在でもある。主体は、このような二重存在の統一体として考えることができる。
 一個の生命体の生命に関わる諸問題は、それ自体で閉じた閉鎖系の問題群を構成することはない。それら一連の問題が成す体系は、つねに開かれており、より一層の前個体化的現実を巻き込み、その現実を環境との関係の中に統合していく個体化過程の連鎖の無限の連続によって果てしなく拡大されていく。
 この無限の複合的・重層的過程の中で、前個体化的現実の巻き込みが「受感性」(« affectivité »)を、その現実の環境への統合化が知覚を発生させる。前者は「情動」(« émotion »)として、後者は「学知」(« science »)として過程の中に組み込まれる。この組み込みは、個体化過程に新しい次元の統合が要請されたことを意味している。






















































生成する存在としての関係 ― ジルベール・シモンドンを読む(23)

2016-03-13 07:31:19 | 哲学

 昨日の記事で読んだシモンドンの仮説からどのような帰結が引き出されるのでしょうか。原文では、仮説提示の直後に、その仮説から導かれうる帰結が控えめな表現で提示されています。その提示の仕方は簡潔ですが、「関係(連関)」(« relation »)「内的共鳴(共振)」(« résonance interne »)「参加(分有)」(« participation »)などの重要語の理解に有益な記述もあり、しかもフランス語としては比較的易しいところなので、まず原文をそのまま引用します。

Selon cette hypothèse, il serait possible de considérer toute véritable relation comme ayant rang d’être, et comme se développant à l’intérieur d’une individuation nouvelle ; la relation ne jaillit pas entre deux termes qui seraient déjà des individus ; elle est un aspect de la résonance interne d’un système d’individuation ; elle fait partie d’un état de système. Ce vivant qui est à la fois plus ou moins que l’unité comporte une problématique intérieure et peut entrer comme élément dans une problématique plus vaste que son propre être. La participation, pour l’individu, est le fait d’être élément dans une individuation plus vaste par l’intermédiaire de la charge de réalité préindividuelle que l’individu contient, c’est-à-dire grâce aux potentiels qu’il recèle (p. 28-29, souligné par l’auteur).

 ご覧のように、イタリックで強調されている部分がやたらと多いのですが、それだけシモンドンも強調しかつ読者の注意を促したいところなのでしょう。重要と思われるポイントを挙げていきましょう。
 まず注目されるのは、「あらゆる真なる関係(あるいは連関)」に「存在の身分」(« rang d’être »)が与えられていることです。すでに個体化された諸項がまず在って、その間に関係が成り立つのではなく、関係そのものが存在としての身分を有つ。しかし、その存在身分は、固定的なものでも恒常的に安定的なものでもありません。新しい個体化の内部で自発自展するものです。それが「真なる関係」だと言うのです。
 このような存在としての関係は、個体化システムの内的共鳴(共振)の一面であり、システムの一状態を構成する要素だとされます。
 ここで突然、「生命体(生きているもの)」(« vivant »)という言葉が出てきます。しかも「この生命体」となっていますから、先行する文章中の何かを指しています。関係を指していると思われます。つまり、ここでテーマとなっている「あらゆる真なる関係」とは、生命体(生きているもの)のことに外ならないのです。
 この生命体は、統一体(あるいは単位)以上でありかつ以下のものだと言われます。どういうことでしょう。生命体は、己の内部に問題群を抱えていながら、己に固有な存在よりも広大な問題群の中にその要素として入ることができるということです。
 個体にとって、より広大な個体化の中にその要素として入ることが「参加(分有)」することです。その参加が可能になるのは、個体が内包している前個体化的現実の負荷を介して、つまり己に内蔵されている諸々の潜在性のおかげです。
 上に掲げた原文から見えてくるのは、生命の世界での存在概念のシモンドン独自の構想です。
 この構想においては、個体化が完了した個体を基礎単位とするという前提が放棄されています。生命レベルでの存在は、一つの問題群に他ならない個体が内包する関係とその同じ個体が内含されているより大きな関係との、共振的・可変的・重層的な生成過程の全体として捉えられています。各個体は、それぞれ己の問題を内に抱えながら、己が内属するより大きな個体化過程に、その過程内に発生している問題に解決をもたらしうる要素として参加することができる「関係存在」です。この重層的な関係の生成過程が恒常的な個体化過程に他なりません。個体にこのような重層的な個体化過程への参加を可能にしているもの、それは、その過程に参加する各生命個体に潜在性として包蔵されている前個体化的現実の無限の豊穣性です。




























































個体化は新たな種々の個体化をもたらしうる ― ジルベール・シモンドンを読む(22)

2016-03-12 06:21:20 | 哲学

 昨日までILFIの「序論」をずっと読んできました。個体化(individuation)、前個体化的現実(réalité préindividuelle)、準安定性(métastabilité)などの根本概念のシモンドンによる規定を追ってきました。
 それらの規定を踏まえて、特に生命のレベルにおける個体化の特性を前提としながら、シモンドンは一つの仮説を提示します。その仮説は、物理学における量子についての仮説や潜在エネルギーの諸レベルの相対性に関する仮説と類比的だと言います。以下がその仮説です。
 個体化は、すべての前個体化的現実を汲み尽くすものではない。この現実の準安定的な体制は、個体によって保持されるだけでなく、個体によって運ばれもする。その結果として、構成された個体は、前個体的現実をいわば荷電されたままになっており、その現実のすべての潜在性によって活性化された状態で移動する。ある一つの個体化は、物理的システムにおける構造の変化のように相対的なものである。そこでは、あるレベルでの潜在性が残されており、種々の個体化がまだ可能な状態にある。前個体化的性質が個体に結びついたままになっていること、このことが将来の準安定的状態の源泉になっており、そこから新たに様々な個体化が発生しうる。
 この仮説を私なりに言い換えると以下のようになります。
生命の世界での個体化は、個体化以前の状態から個体化へと一回的・不可逆的に移行することではなく、個体化の結果として生じた個体は、その個体化以前の状態を内部に保持したまま、可動的な存在となり、そのことによって、別の場所・別の関係において新たな個体化を生成する原基となりうる。
 このような仮説からどのような帰結を引き出すことができるでしょうか。テキストの続きを読む前に、少し自分たちの頭で考えてみましょうか。

 それではまた明日。御機嫌よう。