内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

昨日のブリュッセル自由大学での講義・講演を終えて

2017-04-20 10:04:38 | 雑感

 今、ブリュッセル市内のホテルの一室でこの記事を書いています。
 昨日のブリュッセル自由大学でのプログラムは、サイト上のタイトルでは講義・講演(cours-conférence)となっていて、実際はどんな形になるかその場に行くまでよくわからなかったのですが、実際の聴講者は十二三名で、むしろこじんまりとしたセミナーといった感じで、その分気楽に話すことができました。
 プログラムは二時間の予定だったのですが、予めお願いしてあったビデオプロジェクターが本来禁止なのに借り出されいて、それが戻ってきてセッティングが完了するまでに少し時間がかかったため、実際は定刻から十分ほど遅れて始まりました。
 その時々の講義者・講演者によってやりかたは少しずつ異なっているとのことでしたが、大体は、講義者が主に話し、終わりの方で若干の質疑応答という形になるようです。しかし、私としては、自分としてもまだ十分に練れていないところも話して、それについてのさまざまな意見を聞きたいという意図もあったので、講義内容は二時間分用意していったのですが、実際は約一時間十分ほどで切り上げ、残りの四十分ほどを質疑応答にしました。
 講義の年間テーマは「見えるものと見えないものの間」となっているので、それに沿うかたちで私の発表内容も準備してきました。タイトルは « Où est le sujet ? Où est le cœur ? » (「主体はどこにいるのか? 心はどこにあるのか?」)とし、日本語がその基本構造において示している知覚世界の把握の仕方の特徴をいくつか簡単な例文を挙げて説明することからゆるゆると講義を始めました。そして、時枝の言語過程説の要点を略説してから、同説がいくつかの点においてフッサール現象学におけるノエシス・ノエマの相関性に触発されて展開されていることを押さえた上で、言語過程説に依拠しつつ日本語に示された世界把握の特徴についての議論をさらに展開していきました。そして、結論として、時枝理論の描き出す世界像は大森荘蔵の「天地有情の世界」像とある点で近接していることを示し(因みに、時枝の所説と大森のそれとの間に見られる近接性については、夙に小浜逸郎『日本の七大思想家』(幻冬舎新書、2012年)の中で指摘されています。この本は、そのタイトルはいかにも大仰すぎで鼻白むところがありますし、所説にも承服できないところが多々あるのですが、所々に創見も見られ、「刺激的な」内容ではあります)、両者をあわせて援用することで、日本の古代和歌の現代の注釈者たちによる解釈が知らぬまに陥っていることがある古代世界とは無縁な心身二元論的構図を解体したときにはじめて可能になる解釈を示すことで、タイトルとして示した二つの問い「主体はどこにいるのか」「心はどこにあるのか」に対する答えに代え、発表を締め括りました。
 その後の質疑応答では、私のほうがいろいろと気づかされれる良い質問があれこれで出て、それに答える中で私自身がこれから考えていかなければならない問題もよりはっきりしてきて、とてもありがたい機会となりました。
 講義後は、その講義のオーガナイザーの一人で私を講義者として招待してくれた友人研究者とその友人二人、友人の指導教授と大学近くのカフェ・レストランでベルギービールを片手に、そして軽く夕食を取りながら、十時頃まで大いに談論風発、とても楽しい時間を過ごすことができました。
 今日は、その友人とその指導教授と昨日の講義の主催者の教授と昼の会食を大学近くのレストランでしてからストラスブールへの帰路につきます。ブリュッセル・ストラスブール間には直通のTGVが日に何本かあり、所要時間はおよそ三時間四十分ほどです。午後八時頃には自宅に帰り着けるでしょう。












昨日の記事についてコメントをくださった方たちへの感謝とお詫びのご返事に代えて

2017-04-19 03:40:23 | 雑感

 普段、拙ブログにコメントをいただくことはほとんどありません。せいぜい、月に数回といった程度です。ところが、昨日の記事に対しては、それぞれ別の方から三つもコメントを頂戴いたしました。しかも、いずれも記事内容をそれぞれの仕方で真剣に受け止めてくださった上でのありがたくも厳しい内容のコメントでした。驚くやら恐縮するやら、とにかく慣れないことなので、ちょっと戸惑ってしまいました。
 それらのコメントを読ませていただいて、こちらのいい加減なところがずばり突かれていて、正直、ぐうの音もでませんでした。確かに、昨日の記事は、粗忽に過ぎ、ご指摘はすべてごもっともと頭を垂れるほかありません。それにしても、これだけのリアクションをいただいたのは、それだけ何か大切な問題にいかにも軽率な仕方で迂闊にも触れてしまったのだなあと反省いたしております。
 言い訳にもなりませんが、今日19日のブリュッセル自由大学での講演原稿の準備に昨日は忙殺されておりまして、いつものようには投稿前に読み返し推敲することなく、えぃやぁっと、朝のうちにアップしてしまいました。それにしても、いただいたそれぞれのコメントにすぐにはちゃんとお答えできる準備ができていないことを本当に恥ずかしく思います。そんなことなら、そもそも投稿などしなければよかったのですから。
 すぐには無理かもしれませんが、そして、直接的なお答えにはならないかもしれませんが、拙ブログの今後の記事の中で、いただいたコメントへのご返事になるような、少しは実のあることを書くべく努める所存でおります。その気持だけはお伝えしたく、今日の記事を認めた次第です。












「物のあはれ」の倫理、あるいは受苦の共同態という虚構の幻出

2017-04-18 09:48:56 | 哲学

 もし昨日の記事で提示した推論が妥当であるとすれば、『古事記伝』における国粋主義的な言説と「物のあはれ」論に見られる〈現在〉における感性の共同体への志向とは、宣長において、矛盾しないどころか、表裏一体をなしている、とさえ言うことができるだろう。
 しかし、山田が参照している百川敬仁『内なる宣長』(東京大学出版会、1987年)の次の一節(手元に原本がなく、山田の『三点確保』からの孫引きであること、乞御寛恕。山田書には百川書からの引用箇所の頁数が示されていない)を読めば、私たちがここで直面しているのは、「整合的な」宣長像という狭い意味での思想史な問題枠組みを遥かに超えた、現代日本において再び問い直されるべき倫理学的根本問題の一つであることがわかる。

「宣長の要求するところはきわめて厳格である。一方で秩序の規範を尊重しながら他方でそれに従いかねる心を歌うという引き裂かれた心情にあくまで踏みとどまること、それが『まごごろ』の本性に忠実な『物のあはれ』の倫理というわけだ。これに堪えるとき、おのずから言外に溢れる悲哀は疎外された大都市の大衆の根本気分にふれ、交響し増幅しあって、現実の諸条件を棚上げに一瞬の共同態を幻出させるのである」。(山田前掲書、149頁)

 折りに触れ「物のあはれ」を感ずる心は、受苦の共同態を善悪正邪の「彼岸」に一挙に一瞬にして幻出させる。この「彼岸」とは、しかし、善悪正邪が言挙げ・言(事)分けされる以前の〈古〉として絶対化され、神聖化されている。そのことと現実の秩序の規範を遵守することとは少しも矛盾しない。この受苦の共同態の中で、「物のあはれ」の名の下に、私たちを拘束する社会的規範とそれに従おうとしない心情とが〈歌〉によって「止揚」されてしまうからだ。
 「物のあはれ」が文学の自律的価値の問題という枠組みを超えて、共同体的倫理の原理と化すとき、私たちは、「美しい日本」の中の受苦の共同態という虚構の裡に幽閉され、そのことに気づくことさえできなくなってしまう。












歴史的変遷を超えた〈古〉の絶対化は、〈今・ここ〉の絶対化にほかならない

2017-04-17 13:38:05 | 哲学

 音声言語は文字言語に先立って成立するというテーゼがすべての言語に普遍的に妥当するかどうかはここでは問わない。しかし、少なくとも日本語に関しては、音声言語の文字言語に対する先在性について異論の余地はない。しかも、その文字表記は、日本において内発的に独自に形成されたものではなく、日本語とはまったく文法構造・音韻体系を異にする外国語の表記体系を転用することではじめて可能になった。
 それに、ルソーが『言語起源論』で言っているように(Essai sur l’origine des langues où il est parlé de la mélodie et de l’immitation musicale, 1781, Chapitre V « De l’Écriture »)、一般に、文字表記成立の根本的な理由の一つが、ある言語を他の言語から区別しかつそれら複数の言語を同時使用する人々の間のコミュニケーションの必要性にあるとするならば、文字表記は最初から「国際性」を有していることになる。ある民族に固有な純粋な〈原〉音声言語に立ち戻るためには、この「国際性」を排除しなくてはならない。
 山田広昭は、昨日の記事で取り上げた『三点確保』の中で、村井紀『文字の抑圧―国学イデオロギーの成立』(青弓社、1989年)に依拠しながら、次のように述べている。

国学が「文字」への蔑視によって自己を確立し、「文字」への抵抗をとおしてその体系を形成した(村井紀)のだとすれば、この体系が「発見」することになるのは、皇国の正しく清らかなる音声言語であるほかはない。(130頁)

 しかし、漢字による表記を「後にあてたる仮の物」として排除し、一切の文字表記に先立ってそれとして独立に存在していたであろう「汚れなき古言」、つまり「純粋な」原音声言語にたどり着くことは、文字表記を介しては不可能である。平仮名・片仮名に表記を限定したとしても、それらが漢字から得られたものであるかぎり、音声言語に対するその事後的媒介性を廃棄することはできない。
 ここから導かれ得る帰結の一つは次の通りである。
 〈原音〉に立ち戻ることは、表記を通じて過去に遡行することによってではなく、現在においてその音を発声することによってのみ可能である。一言で言えば、〈原音〉は〈現音〉としてのみ可能なのである。したがって、〈古〉の真意は、歌を声に出して〈詠む〉ことで直に今ここで感じることによってのみ達しうる。
 しかし、歴史的〈原音〉を現在において〈現音〉として再現することが原理的に不可能であるとすれば、変遷を必然とする表記の歴史の彼方の〈古〉の絶対的自存性の主張は、実のところ、〈現在〉の絶対化の意匠の一つでしかない。歴史的変遷を超えた〈古〉の絶対化は、〈今・ここ〉の絶対化のヴァリエーションの一つとしてしかありえない。












ロマン主義的言語観と民族主義のゆくえ

2017-04-16 20:00:34 | 哲学

 山田広昭『三点確保 ロマン主義とナショナリズム』(新曜社、2001年)は、その全体構想の雄大さに比して各部の議論には荒削りなところが少なからずあって必ずしも説得的ではないのだが、示唆に富んだ指摘に満ちたきわめて刺激的な論考集である。
 巻末の補論を除いて、全体は三部に分かれ、第二部が書名と同じく「三点確保」と題されており、本書の中心をなしている。今日その第二部のところどころを何度目かに読み返していて、フーコーの『言葉と物』における新文献学の意味についての見事な分析に言及している次の箇所で立ち止まってしばらく考えた。

フーコーの分析の優れている点は、言語の純粋に形式的な探求と見えるものと、言語に対する、より明白にロマン派的な態度、たとえば言語を民族精神そのものの現われ(ひとつの言語において語っているのは民族である)とみなすような態度を、ただたんに並列するのではなく、両者を内的に結びつけることのできる視点を提出しようとしていることにある。グリムら新文献学者の関心は、いわば語形論に集中しているといっていいが、そこでなされた語基(語根の実現形態)の厳密な研究は、語基が「もの」を指し示すのではなく、本来、行為を、過程を、要求や意志を表わすものであることを証明することで、それまでの名詞中心の言語観をくつがえし、言語がその本質において動詞的であることを示したのだった。言語はこうして知覚された事物の側にではなく、活動する主体の側にこそ根を持つことになる。言語が個人に属することがない以上、この主体は共同体的なものでしかありえない。じつをいえば、言語が思考に対して透明性を失い、固有の厚みを持つようになったこと、そのこと自体が言語をして伝統や慣習、奥深くしまわれた民族の精神の宿ることのできる場所たらしめたのだといってもよい。さらに付け加えるならば、言語の内的な歴史の存在は、われわれの歴史の、記憶の彼方にある根源的な出来事の再構成へと道を開くのである。(126頁)

 引用のちょうど真ん中あたりに「言語がその本質において動詞的であることを示した」とある。ここを、日本語に即して、特に宣長から時枝へと連なる言語観に即して、山田の文意から少し「ずらして」言い換えれば、言語は、その本質において、〈詞〉ではなく、〈辞〉によって機能している、ということになる。つまり、助詞と助動詞の働きにこそ日本語の本質があるということである。なぜ文脈を無視してこのような「ずらし」をあえてしたかというと、その方が次の文の後半に示されたテーゼ、言語は「主体の側にこそ根を持つ」とより整合的に順接するからである。
 実際、山田は、ロマン主義的言語観がもたらす帰結を上の引用に見られるように示した上で、次章で本居宣長を正面から取り上げる。そこにこそ私の主たる関心は向かっているのだが、そこでの山田の議論を追う前に、その準備として、この引用箇所から私自身にとって気になる問題をいくつか未整理のままだがここに書きつけておこう。
 このようなロマン主義的言語観が主張する「言語主体は共同的なものでしかありえない」という命題と、言語は個人に属することがないという言語一般の本性から引き出される同文命題とは、それぞれその妥当性が検討されるべき次元を異にしている。
 言語の思考に対する透明性の喪失という出来事は、西洋近代については語ることができるかもしれないが、そもそもそのような言語の透明性神話が西洋に固有な〈普遍性〉幻想でしかないとすれば、言語は「伝統や慣習、奥深くしまわれた民族の精神の宿ることのできる場所である」というロマン主義的言語観もまたその幻想の否定として生まれた西洋近代に固有の新しい幻想ということになる。
 ロマン主義的言語観によれば、「言語の内的な歴史の存在は、われわれの歴史の、記憶の彼方にある根源的な出来事の再構成へと道を開く」はずである。しかし、その「根源的な出来事の再構成」もまた言語によってしか可能でないとすれば、その道はとどのつまりある内閉した「民族精神」の中での「永遠の」堂々巡りでしかないのではないのか。












古義学、あるいは〈原〉テクスト奪回のための実戦のドキュメント

2017-04-15 17:43:16 | 哲学

 伊藤仁斎は『語孟字義』の巻頭の識語の冒頭に古義学的テクスト読解の要諦として、「語孟の二書を熟読精思し、聖人の意思語脈を能く心目の間に瞭然たらしむる」と述べている。
 子安宣邦は、『江戸思想史講義』(岩波現代文庫、2010年、初版は1998年刊行)で同箇所に言及しながら、仁斎の古義学を次のように定義している。

「語孟の二書を熟読精思し、聖人の意思語脈を能く心目の間に瞭然たらしめよ」という仁斎の命題は、朱子テクストの〈内的〉読解を通しての朱子学的儒学説の反復的な再生産の構造の〈外部〉に己れの視点を設定することを意味する。「語孟二書」とはそのような反復的な再生産の構造の〈外部〉にとられた視点である。だから『語孟字義』とは、「語孟二書」によって朱子学として反復される儒学的言説とその概念構成のあり方を脱構築しようとする作業、すなわち「語孟字義」という言語的作業の集大成である。[中略] だから「語孟」による「字義」の解明とは、「語孟」を視点とする「字義」の読み直しである。それが「古義」学である。(100-101頁)

 膨大な朱子学的注釈の蓄積を排して、『論語』『孟子』の二著を熟読玩味せよ、というだけのことならば、むしろ古典読解の基本的態度として当然のことではないかとも思われるかもしれない。しかし、この態度を根底に据えるためには、いわゆる伝統的な「内的」読解サークルからの自覚的・自律的な離反がその前提となる。
 上掲の引用箇所の中の「〈内的〉読解」という表現には後注が付されており、ピエール・ブルデュー『話すということ』(稲賀繁美訳、藤原書店、1993)の中の「検閲と成型」と題された節から次の一節が引用されている。

この内的な読解とは、テクストそのものの限界に内に閉ざされた読書であり、それに付随することだが、読書とは内的な読解であるという定義を自明なこととして受入れている読解の専門家グループという閉ざされた集団のためにリザーヴされた読書である。

 序だが、この引用が稲賀訳からの正確な引用だとすると、この訳には、原書 Ce que parler veut dire. L’économie des échanges linguistiques, Fayard, 1982 に対応する表現がない語句「読書とは内的な読解であるという定義を自明なこととして受入れている」が挿入されていることになる。訳者による親切な注解付訳ということだろうか。
 それはともかく、ハイデガーおよびその「忠実な」注釈者たちの集団の閉鎖性を批判するブルデューのテキストに子安が読み取っているのは、「対象であるテクストに〈親密〉な人々による専門的な読解」(子安、366-367頁)およびそれを「職業」とする専門家集団の閉鎖性に対する脱構築の必要性であり、専門家たちによって内閉化されたテクストに「直接」接近するための〈外部〉を設定する読解方法の要請である。
 しかし、最初からそのような閉鎖的集団に対して距離を取り、それぞれ「独自」の読みを「自家で」試みればよいというような簡単な話ではもちろんない。そのような脱構築的読解は、閉鎖的専門家集団によって独占されたテクストを奪回するための戦いであり、戦いである以上、戦略と戦術を必要とする。
 仁斎の古義学とは、その実戦のドキュメントにほかならない。












方法としての日本の私

2017-04-14 16:02:55 | 哲学

 私ごときが偉そうに言うべきことではないと重々承知してはいるのですが、学生たちを前にすると、つい立場的な優位性を利用して(といっても、彼らはちゃんと醒めた眼でこちらの多寡が知れた力量を見抜いていることがほとんどの場合なのですが)、性懲りもなく繰り返している言説があります。その都度言い方には多かれ少なかれ違いがありますが、一言に要約すれば、「方法意識を持て」ということで、至極当たり前のことです。
 彼らが学ばされている内容は多岐にわたり、それらは彼らにとって面白かったりつまらなかったりするわけです。それで、彼らにしてみれば、こんなこと勉強していったい何の役に立つんだよぉと愚痴りたくなるときも当然あるわけですね。
 逆に、「お役立ち情報」ばかり提供するような話に対しても、別の理由でちゃんと警戒すべきなのですが、それについてはいずれまた別の機会に話題にすることにしましょう。
 そんな「つまんねぇ~」話を聞かされていると彼らが感じているであろうときに、ちょっと考えてみてくれないかなって、彼らに次のように話すことがあります。
 語られている内容そのものに自分が興味をもてるかどうかとは別に、そしてその内容が今自分たちが生きている現実に対して即効性を持っているかどうかはひとまず括弧に入れて、そこで対象となっている事柄に対して、どのような「道具」を使い、どういう手順で作業し、その結果としてどのような結果が得られているのかに注意を払ってみてほしい。つまり、どのような方法を使って結果が得られているかに注意を集中してみてほしい。そうしてみて、そこに何か一貫したプロセスが見いだせれば、それは別の問題場面に応用可能かもしれない。つまり、「使える」かもしれない。
 じゃぁ、そういうお前はそんな授業ができているのかよ、って問われれば、正直、ちょっと口ごもっちゃうところもあるのですが、「方法意識を持て」と常日頃言っている手前、そんな意味で「使える」授業を目指してはいるつもりです。
 今日の記事の一見意味不明なタイトルの「心」はそんなところにあります。














山中で遠い谺を聞くかの如く

2017-04-13 23:59:59 | 雑感

 今年に入ってからでしょうか、何人かまったく未知のフランス人若手研究者からメールが届き、いずれも何らかの仕方での研究上の交流を私に求めてくる内容でした。今日もパリ第一大学哲学部の教員の一人からそんな内容のかなり長いメールが届きました。
 先方が私のことを知ったきっかけは、人づてだったり、私の論文を読んでだったり、あるいはどこかで私の研究発表を聴いたことがあるからだったりと、様々です。いずれの場合も、日本の哲学あるいはもっと広く日本思想に関心をもち、すでにその分野であるテーマについて研究を始めていたり、さらにそれを大きく展開したいと企図している方たちです。
 基本方針として、そのようなコンタクトや依頼には肯定的に答えています。場合によっては、私よりも相手の方の要望に相応しい人を紹介することもありますが。いずれにしても、自分のこれまでの研究活動が何らかの仕方で知られ、それがいくつかの反応を引き起こしているのはありがたいことだと嬉しく思っています。
 喩えるならば、かつて自分がどこかで発した声の反響が、その直後には聞こえてこなかったのに、時を経て予期せぬ仕方で谺のように返ってきたのを聞くような心持ち、とでも言えばいいでしょうか。あるいは、ある山中にあって、周りには人影が見えず、独りで迷い込んでしまって途方に暮れているとき、あるいは日暮れて道遠しの感をひしひしと感じているときに、意外に近いところにやはり何かを探し求めている人がいるのだということに音や気配で気づかされて、勇気づけられるときのような気持ち、とも言えるかもしれません。
 そんな気分の中で、来週水曜日のブリュッセル自由大学での講義・講演の準備に明日から集中的に取り組もうとしているところです。












源信『往生要集』、あるいは路傍の地獄を直視する眼

2017-04-12 23:59:59 | 読游摘録

 講義の準備のために学科図書室から源信の『往生要集』(岩波日本思想体系、1970年)を借り出して表紙を開けたら、月報が挟んであって、その冒頭が大江健三郎の「『往生要集』と想像力」と題されたエッセイだったので少し驚いた。このエッセイ執筆当時三十五歳の大江がどうしてこの浄土思想を説く平安中期の仏教書に強く惹きつけられてきたのかがそこに語られていて興味深い。このエッセイが書かれた時期は、小説作品に関して言えば、『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』(1969年)と『空の怪物アグイー』(1972年)との間になるが、同じ1970年、評論・ノンフィクションとしては、『壊れものとしての人間』『核時代と想像力』『沖縄ノート』の三冊が刊行されている。このエッセイを読むと、源信の描き出す地獄の阿鼻叫喚と浄土の寂光は、現代社会の問題に深い関心を寄せる大江によって想像力の機能という問題意識とともに新たに読み直されていることがわかる。
 私もまた、仕事上の必要を離れて、あるいはそれを超えて、現代の現実を直視する眼をそこから学ぶために、復活祭の休暇中に『往生要集』を読み直してみようと思う。












ジャン・ジョレス、あるいは私たちの肉体と大地との友情について

2017-04-11 20:41:03 | 読游摘録

 修士一年の演習で読んできた中井正一の『美学入門』第四章「生きていることと芸術」の中の「芸術とその媒介」と題された節に、フランスの政治家・平和主義者で作家ロマン・ロランの親友だったジャン・ジョレス(1859-1914)の『感覚世界の現実について』(De la réalité du monde sensible, 1891)からの長い引用がある。
 中井はまったく出典を示していないのだが、引用されている邦訳に頻繁に出てくる「大地」という語がフランス語の « la terre » に対応することは間違いないので、それを手掛かりにネットでさまざまな検索をかけたところ、Wikisource であっさりとテキストを特定することができた。つくづく便利な世の中になったものだと思う。引用は原典の第五章「感覚と形」(« La sensation et la forme »)からである。
 ジャン・ジョレスからのこの引用は『美学入門』の様々な引用の中でも目立って長く、それだけ中井も深く心を動かされるところがあったということだろう。私もその引用を読みながら、自然に対してこのように感応できる感性をもった政治家なら親しみが持てるし、信頼を寄せることができるよなぁ、と、ジョレスが生前絶大な大衆的人気を誇る政治家・平和主義者だったことに得心がいった次第である。
 まず、『美学入門』の中の引用全文(誰の邦訳なのかはわからなかった)、そしてネットで見つけた原文の当該箇所を掲げる。名文だと思う。

時々私たちは、大地を踏んでいると、その大地を踏んでいることが、大地そのもののように静かな深い喜びを感ずることがある。私はよく小道をよぎったり、野原をよぎって歩んでいると、自分が踏んでいるのが大いなる大地である、ということ、しかも私がその大地そのものであり、大地であるということを、愕然と気づく時があった。そして思わずしらず私は歩みをゆるめた。大地のこの大いなる表面を歩むのに、別にコセコセするにはおよばない。一足ごとに私は大地を感じており、大地をすっかり把握しているのだから。また私の魂は、いわば、最も奥の深いところへと探りすすんでいたのだから。だから私は、私の歩みをゆるめたのである。また私はよく溝の辺に臥して、日が沈んでいく時柔らかな深い深い青色の東方に向って、大地が大いなる旅をしつつあること、また一日の疲れと、日の沈んでしまった地平線の彼方に、彼女はめざましい飛躍をもって、静かな夜と、無限の地平に向って飛び去っていること、そして、大地が私をも、その地平線の彼方へ連れていってくれることを思ったのでした。私は、私の問いの中に、私の魂の中と同じように大地そのもののわななき、進んでいく大地の飛び去りゆくわななきを感じた。そして私は、私たちのまえにただ一つの皺しわも、ただ一つの襞ひだも、ただ一つのささやきもなしに開いている、寂しずかな寂かなこの青空に、不思議な和やかさを見いだした。おお、私たちの肉体と大地との、この友情は、私たちのまなざしや、星の輝く大空の中にさまよう、漠然とした友情よりもいかばかり深く、いかばかり強烈なものであろう。もし私たちがこの大地に結ばれていることを、こんなに深く感じなかったら、この星の散らばっている夜の美しさは、こんなにみごとな美しさとはならなかったであろう。(中井正一『美学入門』中公文庫、51-53頁)

Il y a des heures où nous éprouvons à fouler la terre une joie tranquille, et profonde comme la terre elle-même. Si nous l’enveloppions seulement du regard, elle ne serait pas à nous ; mais nous pesons sur elle et elle réagit sur nous ; mais nous pouvons nous coucher sur son sein et nous faire porter par elle, et sentir je ne sais quelles palpitations profondes qui répondent à celles de notre cœur. Que de fois, en cheminant dans les sentiers, à travers champs, je me suis dit tout à coup que c’était la terre que je foulais, que j’étais à elle et qu’elle était à moi ; et, sans y songer, je ralentissais le pas, parce que ce n’était point la peine de se hâter à sa surface, parce qu’à chaque pas je la sentais et je la possédais tout entière, et que mon âme, si je puis dire, marchait en profondeur. Que de fois aussi, couché au revers d’un fossé, tourné, au déclin du jour, vers l’Orient d’un bleu doux, je songeais tout à coup que la terre voyageait, que, fuyant la fatigue du jour et les horizons limités du soleil, elle allait d’un élan prodigieux vers la nuit sereine et les horizons illimités, et qu’elle m’y portait avec elle ; et je sentais dans ma chair aussi bien que dans mon âme, et dans la terre même comme dans ma chair, le frisson de cette course, et je trouvais une douceur étrange à ces espaces bleus qui s’ouvraient devant nous, sans un froissement, sans un pli, sans un murmure. Oh ! combien est plus profonde et plus poignante cette amitié de notre chair et de la terre, que l’amitié errante et vague de notre regard et du ciel constellé ! Et comme la nuit étoilée serait moins belle à nos yeux, si nous ne nous sentions pas en même temps liés à la terre.