文学における雲雀の表象には、洋の東西を問わず、一つの共通性が見られる。
今日の記事では、日本の古代文学の例を見てみよう。
大野晋編『古典基礎語辞典』(角川学芸出版)の「ひばり」の項には、「天空高く舞い上がる様子は「雲雀あがる」という表現で歌に詠まれ、太陽の使者とみなす場合もあった」とある。例として、『古事記』下巻「仁徳天皇」中の鳥王の歌、「雲雀は 天に翔る 高行くや 速総別 鷦鷯捕らさね」(記歌謡68)が挙げられている。
伊藤博『萬葉集釋注』(集英社文庫版)の巻第十九巻末の家持春愁絶唱三首の第三首「うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば」の注には、「「上る」は過程なく一挙に高く上がる意で、「登る」がしだいに頂上に達する意を示すのと相対する」とある。
いずれの場合も、雲雀には、上昇・飛翔・天空の表象が伴う。そこに軽快・自由という意味も加わり、天空に響く歌声から欣喜という含意も生まれて来る。しかし、それらの表象は、現実の雲雀の生態学的諸特徴の記述に対応しているというよりも、文学において古代からそれらの概念の暗喩として〈雲雀〉が機能していたことをむしろ示している。
家持の名歌そのものの鑑賞にはまた後日立ち戻ることにして、明日の記事では、西洋文学における〈雲雀〉の表象について瞥見する。
以下に記すことは、Pierre Hadot, N’oublie pas de vivre. Goethe et la tradition des exercices spirituels, Ablin Michel, 2008 を読んでの差し当たりの感想である。この本は、刊行直後に購入、以来、折に触れて読んできた。今回、今月末の講演の準備の一環として読み直した。
本来複雑な問題を単純な二者択一に還元すること自体が非哲学的態度だと人は言うだろう。私もそう思う。にもかかわらず、あえてそのような暴挙を試みてみよう。
哲学的態度には、ラテン語で言えば、memento mori(メメント・モリ)と memento vivere(メメント・ウィウェーレ)とのどちらかしかありえない。両者の間のディアレクティークは、これを認めない。つべこべ言うな、選べ、どちからを。
前者は、古代ローマにまでさかのぼる格言だ。「いつか自分が死ぬことを忘れるな」ということだ。その意味するところは、古代ローマとキリスト教世界とでは同じではない。今は、しかし、そのことは措く。
後者は、「生きることを忘れるな」という意味。いわゆる格言ではない。ゲーテの詩の中の言葉。『マイスター・ヴィルヘルムの修業時代』には、そのドイツ語訳「Gedenke zu leben」が出てくる。
不可避の死を気晴らしによって忘れ、現在の生を楽しめ、ということではない。避けがたい死を差し当たり逃れることに汲々として、今、この瞬間、ここで生きることを忘れていないか。今、この各瞬間に無償で恵まれている命を十全に生きることを忘れていないか。
私は、哲学的態度として、memento vivere を選択する。