一年で新幹線が最も混むこの日、東京駅で一時間待って新大阪行「のぞみ333号」に乗り、名古屋下車、名古屋から岐阜まで東海道本線新快速、岐阜から美濃太田まで高山本線と乗り継ぎ、そこからは、迎えに来てくれたK先生とCさんの車で、やはり東京から来たK先生の娘家族と一緒に、八百津町福地村に向かう。福地村は山奥にあり、美濃太田から車で約一時間かかる。
廃校になった小学校を改造してK先生がこの地に棲まわれるようになって二十数年が経つ。その間、東京ではときどきお目にかかる機会があり、その都度福地村での活動についてはお話を聞いていたが、福地を訪れる機会はなかなか巡ってこなかった。しかし、機会は、それが到来するのを待つものではなく、こちらから捉えるものだと思い、ようやく今回の訪問が実現した。
先生がこの村でここ数年取り組んでこられた新しいコミュニティ創りの話は先生ご自身からたびたび伺ってはいたが、ようやくそれをこの眼で、たとえ垣間見る程度であれ、確かめることができるこの機会を喜んでいる。
晩には、K先生家族とCさんと一緒に二台の車に分乗して、村から六十数キロ離れた多治見市まではるばるお蕎麦を食べに行った。多治見本町オリベストリートにあるお蕎麦屋さん「井ざわ」で美味しいお蕎麦と天ぷらその他のおかずをいただいた。美味だった。
沖縄滞在最終日の今日の午前中、M先生のお車で本島南端に位置する平和祈念公園を訪れた。
その敷地の広大さにまず驚いた。沖縄での戦争犠牲者の慰霊塔が全国の三十数県の各県ごとにそれぞれ数十平方メートルの敷地内に建てられている。それらをカート案内でざっと回り、今も新たに刻まれつつある犠牲者名簿の石碑「平和の礎」を間を歩いて見てから、平和祈念資料館の常設展示を見に行った。夏休み中ということもあり、小中学生の見学者も少なくなかったが、拡大展示された写真の中には残虐な戦闘の犠牲になった女性や子供たちの無残な写真もあり、それらは小中学生たちには衝撃が強すぎるのではないかと心配になるほどであった。
祈念公園は丸一日時間を掛けてゆっくり訪問すべき場所だったが、飛行機の時間もあるので、簡単に昼ごはんを園内で済ませた後、ひめゆりの塔へと向かった。
その平和祈念資料館内に展示された二百数十人の女学生と教師たちの顔写真を一枚一枚見ながら、いかなる仕方でも正当化し得ない仕方で惨酷な戦争がその命を奪った彼女たち彼らたちへのレクイエムは、ひどく唐突に聞こえるかも知れないが、シモンドンがいう意味でのインフォメーション(新しい形を与えるアクション)とコミュニケーション(異なった大きさのオーダー間の関係形成)とによってこそ現実化されるのだと私は思った。このインフォメーションとコミュニケーションの媒介者、それが個々の主体であるところの私たち個体であることは言うまでもない。
ひめゆりの塔から那覇空港まで先生に送っていただき、そこでこの四日間の歓待と心遣いを謝し、お別れした。空港の混雑により定刻より30分ほど遅れて出発したANA便はそれでも午後6時前には羽田に着き、そこから京急で品川まで、品川から渋谷まで山手線、渋谷からは東急バスで滞在先の妹夫婦の家に7時半に帰り着いた。
明日からは岐阜県福地に二泊三日。午前11時過ぎの東京駅発の新幹線に乗る。
辺野古新基地建設反対を貫いた翁長雄志沖縄県知事の突然の訃報が昨晩伝えられたばかりの辺野古をM先生にお車でご案内していただき、キャンプ・シュワブ前の集会に参加し、正午からのデモ行進にも参加した。小学生の時に父に連れられて参加したデモ行進(プラカードを首から下げ、父と手を繋いで行進している自分の写真がアルバムに残っているが、今アルバムで確かめようがないので、なんのためのデモだったのかはわからない)を除けば、これが生まれて初めて参加したデモ行進である。「新基地建設絶対反対」とシュプレヒコールを他の参加者たちと共に唱えながら基地前通りを行進し、ゲート前では、皆で拳を突き上げ、シュプレヒコールを繰り返した。
これまでの反対運動の経過をそれほどよく知っていたわけではないが、この新基地建設計画がまったく民意を無視し、自然環境を平気で破壊する国家権力の横暴であることは誰の眼にも明らかなことであり、私もこの反対・阻止運動に賛意と支持を表明する意味でデモ行進に参加した。
その後、辺野古の海辺まで先生にやはり車で連れて行ってもらい、その美しく碧き海の色とそれを破壊しつつある建設現場、そこに立つ民間会社の雇われ警備員を写真に撮った。
辺野古の後、ヘリパッドが建設された東村高江区へと向かった。ヘリパッドそのものは見ることはできなかったが、反対運動を続ける人たちのテントを訪れ、当番の人たちに話を聞くことができた。そのテントでもらったパンフレットの一節を引いておく。
高江区は2度に渡りヘリパッド建設反対の決議をしてきましたが、国は工事を強行し、2016年に6箇所のヘリパッドが完成し、米軍に提供されました。その中でもN4のヘリパッドは県道から約150メートル、一番近い民家まで約400メートルしか離れていません。現在はひどい時で3機のオスプレイが夜11時近くまで、超低空で住宅の上空を飛び回ります。そしてその訓練が約3週間毎日続くこともあり、住民はゆっくり寝ることもできず、騒音と低周波と墜落の不安の中で暮らさなければいけません。子供たちを守るために引っ越しをする世帯もあります。しかしそんな世帯に対しての補償などは一切ありません。国はそこで住み続けなければいけない住民の暮らしがどうなっていくのかなどの調査や聞き取りなども一切することはありません。結局住民がすべての犠牲を背負うことになるのです。そして今、日本全体で同じような軍事の拡大が「抑止力」と「負担軽減」という名目で進んでいます。もう高江だけの問題ではありません。
今日は、M先生ご夫妻のお車で、沖縄本島最北端のその名も「奥」という名の集落に棲まうあるご夫婦のお宅をお訪ねした。ご主人は沖縄出身、陶芸を主たる活動としながら、竹籠・和紙・染め物などの工芸も手掛けられつつ、日々哲学書を読み思索に耽りつつ、手作業・農作業を実践されている。お住まいも自らの手ですべて建てられた。奥様は関東圏のご出身だが、沖縄に移住されて三十年以上。ご主人の「哲人」的生活の良きパートナーである。
もともとは住む人もなかった原生林の一角をご主人自らが切り開くことからそこへの定住生活は始まった。電気・ガスその他、生活のすべてのインフラストラクチャーをご夫婦自身で整え、四年半掛けて自宅を完成された。
ご主人は、物づくりの中で突き当たる問題をとことん突き詰めずにはいられない性分。そのために参照されたありとあらゆる本が家の各所に設えられた本棚にぎっしりと並べられている。別室には、ご自身の陶芸その他の作品が所狭しとならべられている。しかし、それらは売り物ではないという。いったいどうやって生計を立てられているのか、皆目検討もつかない。
そのお宅で、M先生ご夫妻と昼前から昼食を挟んで夕方まで様々な話題について話が尽きなかった。初対面の私の拙い話も真剣に聴いてくださった。
到着してまずご主人が案内してくださったのが沖縄本島最北端の海の光景である。リビングの窓前を覆う原生林を掻い潜るようにして抜け出たところに見えた断崖からの海の景色に私は息を呑んだ。今日の記事に貼った写真はそのときの写真である。
こんな生き方がありうるのだということに、私は、衝撃にも近い感動を覚えた。
今朝6時50分羽田発のANA便で沖縄へと向かう。那覇空港には定刻前に着く。空港まで迎えに来てくださったM先生の車で、勤務先でお待ちの奥様を迎えに立ち寄り、高速道路を北上した。途中、山原のJAで買い物した後、昼食を取ってから沖縄愛楽園に向かう。その交流会館で同園の歴史について少し学んだ後、同園内の桟橋跡から美しい沖縄の海を眺める。
そこから今帰仁城跡に向かう。気温は体感で35度くらいに感じられたが、東京の炎暑に鍛えられてきた身体にとってはさほどこたえない。それに、日陰に入れば涼しい。2002年に世界遺産に登録された城跡は、琉球王国興亡の歴史を忍ばせる見ごたえのある史跡。観覧料を支払えば無料で解説してくれるボランティアのガイドさんのおかげで、まったく予備知識がなかったにもかかわらず、城跡について少し学ぶこともできた。
城跡に併設された歴史文化センターを観た後、今帰仁村にある先生夫妻宅で休憩。北向きのリヴィングの大きな窓扉から海が見渡せる素晴らしい眺め。この季節、ベランダに出れば、まだ海に沈む夕日も見られる。そして、夜空には満天の星。
沖縄滞在一日目は、ご夫妻のご配慮とご案内のおかげで、私にとってこの夏のほんとうのヴァカンスの佳き初日となりました。
毎年恒例の世田谷区立中学校夏期プール開放第二期(19日までの2週間)が今日から始まりました。自分の母校でもあり、元の実家である現在の妹夫婦の家からわずか徒歩二分のところにあるこの中学の夏期プール開放を利用するのは、2013年からこれで5回目(2015年は開放中止。その年は自由が丘にある八幡中学のプールに通いました)になります。
利用料金は、2時間で220円。2013年からずっと据え置きです。午前10時の開始とともにプールに入りました。最初の10分間はプール全体が私一人の貸切状態。一本だけコースロープが張られた遊泳コースで泳ぎました。その後、私が泳いでいる間に三人の中高年男性が入って来ましたが、皆コースロープが張られていない大きなスペースの中の一コースをそれぞれマイペースでのんびりと泳いでいました。私は最初から最後までコースロープが張られた隅のコースを独占し、途中10分の休憩を挟んで2000メートル泳いだところであがりました。
やや曇りがちではありましたが、プールサイドの寒暖計は11時の時点で34度まで上昇していました。雲間からときどき照りつける太陽の熱を体表に感じながら、背泳ぎを主にして緩急をつけて泳ぎました。泳いだ後のなんとも言えずここちよい寛やかな全身的疲労感に包まれながら、家までの坂道をゆっくりと登りました。
午後は、先週から予約してあった歯医者で治療、その足で渋谷に出て、11日から13日までの岐阜の福地滞在のためにJRの往復切符を買いました。明日7日から10日までは、二年前に沖縄に移住されたM先生ご夫妻をお訪ねします。初めての沖縄です。
今日の午前中は、何をするでもなく、滞在先の妹夫婦の家でぼーっとしておりました。そんな無為の時間を冷房のよくきいた部屋であたかもきりりと冷えた極上酒のようにちびりちびりと味わっておりました。去年の夏休みの終わりから昨日まで、気持ち的には全然休みがなかったので、ここでちょっとくらい活動停止状態になっても罰はあたらないでしょう。むしろこの休息が心身のエネルギーの再充填を可能にし、帰仏後の激務にも耐えられるだけの耐性を心身に回復させてくれることと期待できます。
午後は、災害レベルの炎暑を物ともせず、外出いたしました。まず、飯田橋西口近くの喫茶店で法政大のA先生と来年二月のストラスブールでの日仏共同ゼミの打ち合わせ、そして二時間ほど歓談。その後、神楽坂の「山せみ」で高校時代から友人と一年ぶりの再会。この一年間、彼は人生の岐路に立たされ、大きな決断を強いられましたが、結果、いい方向に舵を切ることができたようで、我がことのようにそれを嬉しく思いました。酒盃を傾けながら、お互い気持ちよく話すことができました。
有楽町線で神楽坂から永田町へ、永田町で半蔵門線に乗り換え、宮崎台まで帰る彼を車内に残し、三軒茶屋で下車。別れ際、がっちりと握手をして、この冬の再会を約しました。
「災害レベルの」記録的な酷暑の中、五日間の集中講義を今日無事終えました。反省すべき点ももちろんのこと多々ありますが、今年で八年目の夏期集中講義も、それに参加した者たちそれぞれにとって収穫のある内容にできたかなと思っております。なにはともあれ、一仕事終えて、ホッとしています。
私自身にとっては、先月刊行されたばかりの『個体化の哲学』の邦訳の「序論」をこの集中講義の中でつぶさに検討する機会を与えられたことは幸いでした。おかげで、ちょっと捻くれた間接的な言い方になりますが、私にもまだやるべきことがあるのかも知れないと思えるようになりました。
先週土曜日に帰国してちょうど一週間、これで今回の夏期日本滞在中の職業的義務はすべて終了いたしました。バンザ~イ。明日から夏休みだぜぃ。
今日の午前中、集中講義「校外実習」と称して、TOHOシネマズ新宿で『万引き家族』を学生とTAと一緒に観てきました。今日の午前中の上映がパルムドール受賞後に始まったロードショウの最終回だったのです。今回の帰国中にどうしても観ておきたいと思っていたので、観ることができてとても喜んでいます。テーマ・ストーリー展開・映像・音楽、みなよかったのですが、何よりも出演者たちの演技がほんとうに素晴らしかった。この映画は誰か一人が主役なのではなく、血の繋がりのない「疑似」家族が主役なのですが、強いてその中の誰かに賞を上げるとしたら、個人的には、安藤サクラに最優秀主演女優賞を上げたいと思いました。いずれにせよ、是枝裕和監督の最高傑作と言っていいのではないかと思っています。
その後、車中で映画の感想を語り合いながら大学まで電車で移動し、いつもの演習室でシモンドン『個体化の哲学』読解を継続しました。しかし、私の注解が次第に文脈を離れて、自分でもなんでその話をしているのかわからないところまで遠ざかってしまうことがたびたびあり、量的には「序論」のほんの二頁弱しか読めませんでした。それでも、シモンドン哲学入門としては、かなり中身の濃い演習になっていると自負しております。
私がシモンドンの哲学に特に強い関心をもつのは、世界の諸事象の中に含まれた問題群をそれとして剔抉し、それらに表現を与えるためにとても有効な概念装置をそれが提供してくれるからです。つまり、シモンドンの哲学は「使える」のです。その点を演習中にも繰り返し強調しました。
明日は、集中講義の最終日。例年通り、学生の発表です。でも一人しかいませんから、TAにも発表してもらうことにしました。彼女は、今月半ばに北京で開催される世界哲学大会で発表するので、その「予行演習」をしてもらうことにしました。私は、今日までとは違って、質問する側にまわります。二人それぞれにとってこれからの勉強あるいは研究の役に立つような議論ができるように配慮したいと思っています。
なんすか、この暑さ。気象庁発表で東京の最高気温は37度。アスファルトの照り返しがあるところでは10度アップって、勝手に上がってんじゃねーよ、などと、ギラギラと照りつける太陽に向かってお門違いの叫びを心の中で投げつけながら、そんな素振りはいっさい表には出さず、足取りも軽く(なわけねーだろ!)今日も集中講義に行ってまいりました。
外の暑さとは無関係に、エアコンがビンビンきいた演習室で、予告どおり、K先生の特別マン・ツー・マン授業が午後一時のチャイムと同時に始まりました。先生の淀みなく流れる清流にも似た立て板に水の日本語は、高原の深山の仄暗い竹林を吹き抜ける冷風の如く、それを聴くものの脳が真冬の澄み切った空のようにピュアでクリアーになる(って、読む人を少しでも涼しい気持ちにしたくて御託を並べてみました)ともっぱらの評判です(は~ぁ、やっぱだめだ、書いてて空しいし)。
それはともかく、今日は読解の速度のことでもお話ししましょうかね。
その言語を母語とする人たちにはそこまで落とせない速度でテキストを読むときにだけ、そのテキストが垣間見せてくれる形姿、そっと囁き始める内語がある。それを見て取り、聴き取ることができるのは、その言語を外国語として学ぶ者たちだけに許された特権なのだ。
ちょっとやっかいな日本語のテキストの読解に四苦八苦している日本学科の学生たちに向かって、日頃このようにK先生は励ましています。
それは日本で外国語の難解なテキスト(あるいはそのクソ難しい翻訳)に向き合っている日本人の学生たちに対しても、基本、同じです。
なかなか前に進めないことを嘆くな。むしろそれをチャンスだと知れ。なぜなら、限りなく零に近い速度で読むときにしか見えてこない言葉のテクスチャーがあるからだ。それを掴み、そこから思考の織物をゆっくりと紡いでゆけ。
こう激励しつつ、超低速読解の伴奏者として、K先生は今日も学生と涼しい教室で汗を流してきました。
その後の夕食時の冷え切ったビールの最初の一口の美味さ、これはもう、それに比べれば天女が御酌してくれる天上の甘露も苦く感じられるほどでございます。
それを味わうためにこそ、明日もまた、K先生はキャンパスへの坂道を汗を流しながら登るのです。