人はいつ憎むことを学ぶのだろうか。生まれて最初に懐く感情が憎しみではないことは確からしいことだ。憎しみとともに生まれてくる赤子はいないだろう。たとえ難産の末に生まれたとしても、その最初の困難が直ちに憎しみという感情をもたらすわけではないだろう。確かに、劣悪な環境の中に生まれ、生まれて間もなく親から虐待を受けるようになれば、その赤子が肯定的な感情を懐くことはできないだろうが、その中で懐く最初の感情もまた憎しみではないだろう。
人はいつどのようにしてなぜ誰かを或いは何かを憎み始めるのだろう。少なくとも一つ確からしいことは、憎しみを懐かせるものは、その人にとってひどく堪え難いこと、つらいことであるに違いない。そして、それを自力で取り除くことができず、それによって引き起こされる苦痛を受け続けなければならないとき、憎しみはその人にとって持続的な感情となり、心を蝕んでいくのだろう。
いつもそうなるとはかぎらないとして、もともとの憎しみの原因を離れて、憎しみの対象が一般化されることもある。その一般化によって初期の原因による苦痛からは解放されるということもあるのかも知れない。たとえば、「罪を憎む」という言い方がある。個々の犯罪者ではなく、そのような罪そのもの、あるいはそれを引き起こしてしまった環境への怒りへと憎しみが転化される場合もあるだろう。他方、憎しみの対象の一般化がその増幅・深化をもたらし、初期の原因とは別の対象にそれが攻撃性として発現し、犯罪を引き起こしてしまう場合もある。
犯罪とまでいかなくても、初期の原因から離れて深化した憎しみが基底的な感情となって、その人のあらゆる人間関係を困難なものにしてしまう場合もある。このような場合、本人はそれと知らずに、憎しみの「原因」を妄想することで憎しみを「充足」させているのではないかとさえ思われる。
私の言っていることはすべて間違っているかも知れない。が、こんなことを考えさせるまでに理解と対処が困難な一件に今遭遇している。