内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

憎しみはどこから来るのか

2020-11-20 23:59:59 | 雑感

 人はいつ憎むことを学ぶのだろうか。生まれて最初に懐く感情が憎しみではないことは確からしいことだ。憎しみとともに生まれてくる赤子はいないだろう。たとえ難産の末に生まれたとしても、その最初の困難が直ちに憎しみという感情をもたらすわけではないだろう。確かに、劣悪な環境の中に生まれ、生まれて間もなく親から虐待を受けるようになれば、その赤子が肯定的な感情を懐くことはできないだろうが、その中で懐く最初の感情もまた憎しみではないだろう。
 人はいつどのようにしてなぜ誰かを或いは何かを憎み始めるのだろう。少なくとも一つ確からしいことは、憎しみを懐かせるものは、その人にとってひどく堪え難いこと、つらいことであるに違いない。そして、それを自力で取り除くことができず、それによって引き起こされる苦痛を受け続けなければならないとき、憎しみはその人にとって持続的な感情となり、心を蝕んでいくのだろう。
 いつもそうなるとはかぎらないとして、もともとの憎しみの原因を離れて、憎しみの対象が一般化されることもある。その一般化によって初期の原因による苦痛からは解放されるということもあるのかも知れない。たとえば、「罪を憎む」という言い方がある。個々の犯罪者ではなく、そのような罪そのもの、あるいはそれを引き起こしてしまった環境への怒りへと憎しみが転化される場合もあるだろう。他方、憎しみの対象の一般化がその増幅・深化をもたらし、初期の原因とは別の対象にそれが攻撃性として発現し、犯罪を引き起こしてしまう場合もある。
 犯罪とまでいかなくても、初期の原因から離れて深化した憎しみが基底的な感情となって、その人のあらゆる人間関係を困難なものにしてしまう場合もある。このような場合、本人はそれと知らずに、憎しみの「原因」を妄想することで憎しみを「充足」させているのではないかとさえ思われる。
 私の言っていることはすべて間違っているかも知れない。が、こんなことを考えさせるまでに理解と対処が困難な一件に今遭遇している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「横議」「横行」「横結」は現代社会で再び可能になるだろうか ― 藤田省三「維新の精神」再読

2020-11-19 23:59:59 | 講義の余白から

 明日の授業の準備のために藤田省三の「維新の精神」を再読した。「横行」という言葉が頻繁に出て来る。今日の日本語では、「おうこう」と読み、「勝手な振る舞いが盛んであること、ほしいままにはびこること」という悪い意味で使われるのが普通だ。この意味でのこの語の使用は、しかし、『続日本紀』にも見られ、古代からあったことがわかる。古代から近世までは、「おうぎょう」(わうぎゃう)とも読まれていた。中世には、例えば『太平記』の中で「勝手気ままに歩き回ること、自由にのし歩くこと」という意味でも使われたが、これもけっしていい意味ではない。否定的な意味合いなしに、「横ざまに行くこと。また、横にはって行くこと」という意味で使われている例が『山陽詩鈔』(1833年)に見られる。
 藤田省三の「維新の精神」(初出『みすず』1965年3、5月号、1966年7月号)では、「横行」が維新をもたらした積極的なエレメントの一つとして強調されている。江戸末期、開国を迫られ、全国各地で身分の上下を超えて、横への議論が沸騰した。それが「横議」である。以下の引用は、『藤田省三セレクション』(平凡社ライブラリー 2010年)所収の同論文からである。

横への議論の展開は横への行動の展開を伴う。「横議」の発生は「横行」の発生をもたらした。藩の境界を踏み破って全国を「横行」するものが増大していった。[中略]かくして「身分」によることなく「志」のみによって相互に判断し結集する「志士」が生れ、それは紆余曲折を経ながらも、ネイション・ワイドの連絡を曲がりなりにも作ることとなった。旧社会の体内に新国家の核が生れたのである。維新の政治的一面はこの時誕生したと言ってよい。(158頁)

その論議の過程で、「横議」・「横行」・「横結」が発展した限りにおいてのみ、維新は発生したのであった。事の本末を見失ってはならない。そうして二十世紀後半の今日、「横」の討論と「横」の行動形態と「横」の連帯とを達成せんとするならば、我々は何をなすべきなのであろうか。(160頁)

 コロナ禍は、世界的な規模で、「横」のつながりを分断し、国家による国民の行動の統制をもたらしている。「維新の精神」を現代世界のコンテキストの中で読み直すこと。それを明日の授業で試みる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


修士課程在学中の学生の中に本当に勉強したい学生はいったい何人いるのか

2020-11-18 23:59:59 | 講義の余白から

 修士の二年生には、ここ数年、フランス語で彼らが書く修士論文から一つテーマを選ばせて、日本語で小論文を書かせていることは、過去に何度かこのブログで取り上げた。
 最初は、それぞれの小論文から特に問題になる箇所のみ、教室で学生たち全員を前にして行っていた。だが、この方法だと一部の添削しか取り上げられないし、それらの添削箇所はすべての学生にとって必ずしも重要な箇所ではない。レベルの高い学生に合わせると、低い学生は置いてきぼりになってしまうし、低い方に合わせると高い学生は退屈してしまう。
 学部でトップと底辺に開きがあるのは、おフランスの「だれでもいらっしゃい」大学入学制度からして仕方がないとして、修士の学生たちのレベルの開きも年々大きくなってきている。その開きは、絶望的とまでは言わないとしても、憂慮すべきレベルに達している。なぜこのような状況に立ち至ってしまったのか。
 それには主に二つの理由がある。一つは、入学基準が甘くなっていることである。書類選考など、あってないに等しい。もう一つは、学士号だけでは就職がないから、特に勉強がしたいわけではないのに、とりあえず修士課程に入ってくる学生が増えていることである。
 結果として、学部を芳しくない成績でぎりぎり卒業したような学生でも、つまり、本来修士に来るべきではない学力不十分な学生も、成績はそれほど悪くなくとも勉強する気が本当はあるわけではない学生も、いとも簡単に修士過程に登録できてしまう。その多くはいつの間にかいなくなってしまう。
 こんなことでいいはずはない。教師陣としては、正直なところ、優秀でやる気のある学生だけを受け入れたい。しかし、それは現行制度上できないし、仮にそれができたとしても、入学者の数を減少させることにしかならないから、下手をすれば、修士課程の閉鎖に追い込まれてしまう。
 それでも敢えて言おう。やる気のない者は直ちに去れ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第二回日仏ZOOM合同ゼミの報告 ― 逸脱的「アクティブ・リーディング」の試み

2020-11-17 23:59:59 | 講義の余白から

 今日の午前9時から10時半まで第二回目の日仏合同ゼミが行われた。前回よりも三十分延長した。構成は基本的に前回と同じく、個人発表、ブレイクアウト、報告・総括の三部構成。まず、ストラスブール側の二人で一つにまとめた発表。続いて法政側が二人の個人発表。この二つの発表は、前回に引き続き、和辻の『風土』における自然と風土の違いを、衣替えや古い民家など、それぞれ自分にとって身近な例に引きつけて理解しようとする試み。具体的な例に即しての簡潔で明快な発表。ストラスブール側は、すでに演習の枠内で個別に発表した内容をあらためて手直ししたもの。
 この発表は、私が予め与えた三つの問いに答えることから成っている。その三つの問いはそれぞれ派生的な一つの問いを小問として伴っている。
 問1 あなたが季節を感じるときは、あるいは、季節の到来を感じるときは、どんなときですか? 問1-1 その季節の到来は、あなたにどんな感情を引き起こしますか?
 問2 その感覚・感情は他の人と共有されている感覚・感情ですか? 問2-1 それが共有されていることをどのように確認することができますか?
 問3 その季節と分かちがたく結びついているものはなんですか? 問3-1 そのものとあなたとはどんな関係ですか?
 これら三つの問には、演習出席者全員にそれぞれスライドを用意して二週間前に答えさせた。その中から特に優れていた二つの発表を共有するのが今回の目的だった。
 上掲の問いを見てわかるように、和辻のテキストから離れ、自分たちにとって身近な感覚から問題を考えさせた。これはこれでいくらかの成果を上げることができたと思う。発表した学生たち自身は必ずしも気づいていないが、風土の問題に触れる経験が自ずとそこには含まれていた。それを引き出すのが私の役目だった。
 今回の総括の最後に私がまとめとして述べたことのうち、二点記しておく。
 一点目は、風土を固定的な所与としてとらえるのではなく、むしろ間風土性から風土を考えてみようという提案。様々に可能な自然と人間との関係が差異化されていく動的な過程として風土が形成されていく〈場所〉として間風土性をより根源的な次元として措定するというアイデアである。
 二点目は、一点目から導かれる一つの可能性として、自然と人間との関係の形成あるいは再生の方法として風土を捉えることはできないかという問いかけである。
 いずれも、和辻の『風土』の読み方としては逸脱的との誹りを免れがたいかもしれない。それを承知で敢えて言えば、私が提案しようとしているのは、テキスト読解・解釈を超えた「アクティブ・リーディング」の一つの試みなのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


現代哲学が忘却した広大無辺な内面世界を今新たに探索すべきとき

2020-11-16 20:05:35 | 雑感

 遠隔授業・会議の利点の一つは、そのための移動時間を必要としないことだ。その直前まで別のことをしていることができる。終わった直後に教室・会議室を離れ、別のヴァーチャルな場所に瞬時に移動できる。あるいは、自宅での生活に戻れる。現実の教室や会議室の場合、移動時間を考慮しなくてはならない。ましてや遠く離れた場所への移動が必要であれば、まさにそれが理由で同じ日には無理ということにもなる。この点で、遠隔授業・会議は大いに時間の節約になっている。
 ところが、このような日々が続くと次第に疲労が蓄積してくる。身体的にはまったく自宅から外に向かって移動していないどころか、コンピューターの前に張り付いている時間が大半で、体を長時間ろくに動かしもしないままでいる。だから、これはあちこち身体的に移動することによる肉体的疲労とはまったく質の違った疲労である。
 十年以上に渡って水泳を続けてきたおかげもあって、長時間のデスクワークのせいでそれ以前にはときに悩まされたこともあった肩こりともずっと無縁だ。他の点でも、ありがたいことに、体のどこかに不調があるわけでもない。それにもかかわらず、何か身心が徐々に不活性にむかって傾斜していく。こんな状態が何ヶ月も続いたらたまらないという気持ちになる。
 もちろん、この身心の不活性化傾向の要因を自宅でのテレワークのみに帰することはできない。むしろ外出が厳しく制約されている現在の状況がいつまで続くのかわらないという不確定性の中にいわば宙づりにされていることで身心のエネルギーが浪費されることほうが要因としては大きい。自由に外出できるのであれば、テレワークの合間に、あるいはその前後に外出して気分転換を図ることもできる。それが著しく制約されていることで恒常的なストレス状態に置かれていることが未だかつて経験したことのないこの異質な疲労からの解放を困難にしている。
 そこからの逃避を図ろうにも現実にはどこにも逃避場所がないというこの閉塞感から抜け出すにはどうすればよいであろうか。この場にとどまりつつ、異界(ヘテロトピー)への回路を探るか。いや、二十世紀の哲学がそれを廃棄することに躍起になっていた内面世界の忘却された沃野が今新たに探索されるべきなのかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


外出禁止令下、冬の日の散歩道の混雑

2020-11-15 23:59:59 | 雑感

 ほぼ毎日一時間、ウォーキングのために外に出ているが、三月から五月にかけての外出禁止令のときと大きく違うのは、日がどんどん短くなっていくことである。それを日に日に実感している。それは、日没時刻が日一日と短くなっていくことが空を見ていてわかるというだけではなく、ウォーキングやジョギングその他運動が日中にできる時間が短くなるについて、同じ時間帯に外出する人の数が増えていることでもわかる。自宅近所の散歩道や自転車専用道路など、午後三時以降、混み合うとまではいかないが、平時にはありえない人出である。
 日の出は現在で八時であるから、もう仕事開始時間が間近で、その前に外で運動という気にもなりにくいであろう。日没以降に外で運動したって一向に構わないのだが、やはり日のあるうちに外で体を動かしたいと思う人が多いのだと思う。私もその一人だ。私のような稼業だと、遠隔授業の時間は動かすわけにはいかないが、自宅でのテレワークは早朝に済ませるなど、自分で時間を調整できるから、その分、日中に外出の時間を作りやすい。
 この冬はストラスブールを世界的に有名にしているクリスマスのマルシェもないし、レストランもテイクアウトしかしないから、平時ならば、今頃からノエルまで日没以降にも街の中心部は大変な人出で賑わうのだが、きっとひっそりとしていることだろう。今は忙しくて、わざわざそれを確かめに行くような好奇心も湧いてこないが、十二月に入って仕事が一段落したら、そんな非常時の街を観察しに行こうと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


長い一日を祝福で終えることができた喜び

2020-11-14 11:57:40 | 雑感

 昨日は、午前十一時から午後六時過ぎまで、まったく切れ目なしに授業三つと博士論文の公開審査が続いた。ちょっときつかったが、なんとか無事乗り切った。三つの授業の合間にそれぞれ十分間の休憩を取った。ちょっとコーヒーを飲むとかトイレに行くとかでその休憩もすぐに終わってしまう。合計四時間以上、ZOOMでスライドを共有しながら、ひたすら学生たちにフランス語で話す。
 「近代日本の歴史と社会」では、前半で苅部直の『「維新革命」への道』が提起する近代思想史へのアプローチの意義について説明し、後半では前田勉の『江戸の読書会』の要所を読んだ。授業の終わりに、年明けにZOOMを使って遠隔かるた大会をやるから、今から百人一首を勉強しておけと、いくつかサイトを紹介しておく。「メディア・リテラシー」では、学問の自由と表現の自由について論ずる。修士の方法論演習では、急遽予定を変更して、伊藤亜紗の『手の倫理』の序を方法論の観点から精読し、そこに示されている「さわる」と「ふれる」の区別が、別の演習で読んでいる和辻の『風土』の理解にも一つの手がかりを与えてくれることを示唆する。
 修士の演習が終わって一息つく暇もなく、今度は Teams を使ってブリュッセル自由大学での博士論文の公開審査に外部審査員として臨む。審査開始前の三十分間、まず審査員が「審査会場」とは別の「部屋」で事前の打ち合わせをし、午後四時から審査開始。審査員は指導教授を含めて五人、指導教授の講評の後、私は二番目に講評を述べた。博士論文は、大森荘蔵の立ち現われ一元論を主な考察対象としていたが、大森荘蔵の哲学研究の最初期から『物と心』に至るまでの変遷を丁寧に辿る第一部と立ち現われ一元論の詳細な分析からなる第二部から成っている。大森荘蔵の哲学について仏語で書かれた最初の博士論文としての高い価値を評価したあと、いくつか訂正されるべき点について述べ、最後に五つの質問をする。それらに対して満足のいく回答を博士号申請者から聴くことができた。審査終了後、「別室」で最終審査。全員一致で博士号授与承認。また「審査会場」に戻って、博士号授与の発表。フランスの大学と違って、評価のランクはない。審査員全員で祝福の拍手を送って審査終了。
 かくして博士号を取得した彼のここまでの長い道のりとその間の労苦を知っているだけに、心からの拍手を送りたい。おめでとう!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「さわる」と「ふれる」の意味の差異を古典語に遡って調べてみると

2020-11-13 00:17:51 | 読游摘録

 伊藤亜紗の最新刊『手の倫理』の序は、「さわる」と「ふれる」という触覚に関する二つの動詞の用法と両者の意味の差異を実例に即して考察することから始まる。この予備的考察を前提として、「倫理」「触覚」「信頼」「コミュニケーション」「共鳴」「不埒な手」とそれぞれ題された第一章から第六章まで、触覚を基礎感覚とした倫理的考察が展開されていく。随所に示唆的な考察と知見が見られる。
 「さわる」と「ふれる」の意味論的差異に注目したのは彼女が最初ではない。序で言及されているように、哲学の立場から両者の違いに注目したのが坂部恵である。伊藤亜紗は坂部の主張を、「「ふれる」が相互的であるのに対して、「さわる」は一方的である」と一言にまとめている。
 言葉の用法についてのこうした哲学的考察は、往々にして、論者の都合に合わせて言葉の使い方が作為的に切り分けられてしまうきらいなしとしない。ただ、事柄の言分けに貢献するのであればそれはそれで一つの考察方法であるとは思う。
 二つの似た言葉の差異を探るとき、私はまず古語に立ち返ってそれぞれの意味を確かめる。それで問題が解決するわけではないし、意味は時代によって変化するから、古語の用法を論拠にできるともかぎらない。ただ、言葉の生い立ちを知るように常に心がけることは、事柄に対してより繊細な感覚を養ってくれる。「なつかし」「かなし」「はかなし」などの言葉についてこのブログで考察を試みているのもそれが理由である。
 「ふれる」と「さわる」について、例によって、『古典基礎語辞典』を読んでみよう。「ふれる」の古形は「ふる」。上代には、意志的動作を表す四段活用が下二段活用と共存していたが、中古にはそれは滅びた。万葉集に見られる自動詞四段活用は、「手とか指とかで軽く瞬間的に相手にさわる。ほんのちょっとかすめるようにさわる」の意。自動詞下二段活用は、「軽く表面に接する。ちょっとものにさわる」「ちょっと手をつける。ほんの少し食べる」「男女の関係をもつ」などの意。
 それに対して、「さはる」は、他のものに接触して、動きが滞り、時には妨げになる意。物の動きの先に何かがひっかかって障害となること。語釈として、「自然のなりゆきで移動・往き来の邪魔になる。物につっかかって通りにくくなる。主に「障る」と書く」とある。近世に入って意味が拡張され、単に接触する、かかわりをもつことをもいうようになった。この意の場合、主に「触る」と書く。
 つまり、「ふる」が対象との短時間の軽いあるいは淡い関係にとどまるのに対して、「さはる」は何かの妨げになることである。今日でも、前者の意味は「この問題にはふれるだけにとどめます」という表現などに、後者の意味は「私の言ったことが気にさわったのなら、許してください」という表現などに保持されている。
 現代語には、相手がふれてほしくない問題などに言及することを「痛いところにふれる」という言い方があるように、ふれることがいつも優しい所作とはかぎらない。ふれられただけで痛いほどの問題というものは、誰しも思い当たる節があるだろう。「痛いところ突く」となれば、もちろんもっと攻撃的だ。
 現代語では、「手ざわりがいい」という表現は珍しくないが、語源的には、さわるものは「障るもの」なのだから、この表現は矛盾していることになる。今日でも「耳ざわり」は、耳に不快な音について使われるのが主で、「耳ざわりがいい」とはあまり言わないだろう。語源的には誤用と言ってもいいのだから当然のことだ。「お酒を飲みすぎると、お体にさわりますよ」と誰かが私にやさしく言ってくれることがあるとすれば(実際はないが)、アルコールの過度な摂取は体に悪いからご注意なさい、ということだ。
 ちなみに、「気がふれる」と言うときの「ふれる」の語源はよくわからない。「振れる」あるいは「触れる」に関連づける説があるが、仮説の域をでない。「ものごとが常軌を逸する」の意から来ていることは確かだが、この意味での用法は室町末期以前には遡れない。漢字で「狂れる」と書けば、語源はともかく、意味に誤解の余地はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


グーグル日本語入力についての無駄口一言 ― 意想外の変換候補もまた愉しからず哉

2020-11-12 13:47:41 | 雑感

 今日は、超多忙につき、無駄口一言のみにてお暇させていただきます。
 普段、グーグル日本語入力を使っています。「変換の煩わしさを感じさせない思いどおりの日本語入力を提供します」というのが謳い文句であるが、「話半分に聞いとこか」というのが率直な感想であります。学習機能はけっして優秀とは言えないし、唖然とするような変換候補を挙げて、楽しませてくれたり、イライラさせたりしてくれます。だったら他のアプリを使えばいいじゃないかと言われそうですが、固有名詞の変換精度が高いので使い続けています。
 今日の別の文章を書いていて、「試みだ」と打とうとしたら、最初の変換候補が「心乱」だったのです。「こころみだれ」と打ったのならともかく、「こころみだ」だけで「心乱」が第一候補って、どういうことよ。常日頃私が選択している変換パターンから、グーグル日本語入力が私の心を見透かしているってこと?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


冷気に触れて冴え返る頭で思考の途を切り開け

2020-11-11 23:59:59 | 雑感

 今日は、Armistice(第一次世界大戦休戦記念日)で国の祝日だが、私にとっては休みではない。先週月曜日から来週金曜日までまったく休みがない。理由は、11月2日に遠隔授業に移行したからだけではない。授業の外に、博士論文の公開審査、修士の特別演習、個別面談、来年度留学希望学生たちとの会議、学科の会議等、毎日何かしらあって、それぞれに準備を必要とするので、一日も休めないのである。これらすべてが遠隔で行われる。自宅の机の前に毎日10時間ほど張り付いたままだ。少し頭がおかしくなりそうだ。
 ほぼ毎日、午後には一時間ウォーキングのために外に出る。日がどんどん短くなっていくので、現時点で、日暮れ前に戻って来るためには、遅くとも午後4時には家をでないといけない。12月下旬の冬至には、4時半には日が暮れてしまう。日中の時間はわずか8時間17分である。考えたってしょうがないことだが、日の短さは身心に応える。それにこの季節、天気は曇りがち。霧もよく出る。「おお、霧に沈むカテドラルよ」とかなんとか、カッコいいこと言っていられるのは気持ちに余裕があるときだけだ。
 ただ、寒さは嫌いではない。外を歩いていると、冷たい空気が頭を冴え返らせてくれる。速歩で一時間歩けば、汗も流れ出す。帰宅してすぐに熱い風呂に入る。そして、また机に向かう。