内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

伊藤亜紗『手の倫理』と渡部泰明『和歌史 なぜ千年を越えて続いたか』を読み合わせることで開かれる視角

2020-11-10 23:59:59 | 読游摘録

 最近というか、もう何年もと言うべきだろう、一冊の本をゆっくりと時間をかけて読んだことがない。この夏も、ホメロス大全を、結局、ごくわずかしか読めなかった。カエサルの『ガリア戦記』の新仏訳もちょっと触れられただけ。どちらも仕事机からすぐ手の届くところに今でも置いてある。
 植物の哲学の端緒を開けたは望外の収穫だった。じっくりとは読めなかったとしても、刺激を受けた本、それどころか感銘を受けた本もある。その記録はこのブログに残してある。
 ただ、とにかく読み方が忙しない。一日平均十冊ほど目を通す。これはもう読書ではない。さっと読みながら、「使える」ところを探してばかりいる。ほんとうは腰を据えて読むべき本なのに、そんなふうに走り読みしてしまうとき、その本と著者に対して申し訳ないと思う。もっとも、その程度で十分だという代物も掃いて捨てるほどある。いや、そもそも一瞥を与えるにも値しない駄本の量は地球環境を脅かすほどだ。
 電子書籍を頻繁に購入するようになったのは今から三年ほど前だが、今では日仏英合わせて1500冊ほどになっている。授業で使うにはとても便利で重宝している。学生たちから要望があれば、当該部分をスクリーンショットですぐに送れる(やりすぎると違法だけれど)。特に、日本語の紙の本は、入手しようとすれば高くつくし時間もかかるから、購入後即読める電子書籍はほんとうにありがたい。
 とはいえ、紙の本でその手触りと重みを感じながら落ち着いて読みたい日本語の本があっても、すぐには入手できないからと、電子書籍版で読むのは、私のような旧世代人には、やはり味気ない。
 昨日今日と、本当は紙の本で読みたいと思う電子書籍版の最新刊を一冊ずつ購入した。昨日購入したのが伊藤亜紗の『手の倫理』(講談社選書メチエ)、今日購入したのが渡部泰明の『和歌史 なぜ千年を越えて続いたか』(角川選書)。この二冊を合わせ読むことがまた新たな研究上のパースペクティヴを開いてくれるという直感的確信に今ちょっとウキウキしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


悩ましき遠隔試験

2020-11-09 23:59:59 | 講義の余白から

 今日から遠隔授業第二週目が始まった。第一週の先週は、今回がはじめての遠隔授業だった教員も数人いたにもかかわらず、全体としてさしたる問題もなく終えることができた。
 すでに万聖節の休暇中から教員間で話題になっていたことは、試験をどうするかという問題である。私が担当する文明系の講義は遠隔にも比較的に対処しやすい。そもそもカンニングなどまったくしようのない試験問題を作ることができるからだ。ところが、語学系は、遠隔試験の場合、いかにカンニングを防ぐかに頭を悩ませなくてはならない。
 というのも、いくら教員たちが口を酸っぱくするようにして、不正が確認された場合、零点、悪質な場合は、査問委員会にかけ、最悪、次年度大学に登録できなくなることもある、と警告しても、いっこうに不正はなくならないからだ。
 簡単な翻訳問題など、ネット上の自動翻訳でかなり精度の高い翻訳が一瞬にしてできてしまう。ある教員など、教室の試験の答案は、学生の答案を採点していることになるが、遠隔の場合、自分が採点しているのは、実のところ、グーグルやDEEPLの翻訳でしかないと嘆いている。
 もう一つの問題は、遠隔試験中に学生たちがSNS等を使って答えを教え合うことを防ぎようがないことである。高度な翻訳問題の場合、完全に同一な答案が二つ以上あれば、疑いをかけることができるが、初歩的な問題では、答えが同じになることはむしろ当然であり、学生が自分で解いたのか、友だちに聞いた答えを写しただけなのか、区別しようがない。
 これらの問題への対処法として、筆記試験をやめて、遠隔での個人面談方式の口頭試問に切り替えることも不可能ではない。しかし、それはクラスの人数が比較的少ない場合にのみ可能である(それでも、一斉の筆記試験に比べて、少なく見積もって、その十数倍も試験時間がかかる)。登録学生が何百人もいる講義では、そもそも実際問題としてそれは実行不可能だ。
 これから一週間ほど、でこの問題に対して学科としての基本方針と具体的な対処法を策定しなくてはならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日仏独をZOOMで繋いだ遠隔ワークショップ「越境する日本語・日本文化──言語文化の多様性をもとめて」最終日

2020-11-08 23:59:59 | 雑感

 日独仏をZOOMで繋いだ三日間の遠隔ワークショップ « 3rd EU Japan Workshop / 2020 International New Generation Workshop » (Consortium for Global Japanese Studies (CGJS)・Hosei University Research Center for International Japanese Studies (HIJAS)・European Center for Japanese Studies in Alsace (CEEJA)共催)の今日が最終日だった。本日のキーノートの後、二つの個人発表があり、それに引き続いて、締めくくりとして全体ディスカッションが行われた。
 そこで初めて私もコメンテーターとして発言する機会があった。他の八人のコメンテーターは、今回のワークショップ全体についての感想と個別発表のいくつかについてのコメントを述べていたが、十の個別発表のうちその半分ほどしか聴けなかった私は、個別発表については昨日の最後に聴いた大阪大学博士後期課程在学中の若手研究者の発表についての感想を述べるにとどめた。それは、戦中の在朝鮮日本人画家の一人についての研究で、お世辞抜きで大変興味深い研究であり、かつ発表の仕方も模範的であった。
 全体として過去二回のCEEJAでのワークショップに比べて、はるかに充実した集会であったとは思う。しかし、遠隔の利点を活かす或いはその欠点を補うための工夫には欠けていたというのが私の感想であった。その点について若干の批判的コメントを述べ、次回以降のワークショップの全体の構成についての提案を行った。
 CEEJA学術部門担当副所長によるワークショップそのものの閉会の辞の後、結果として二時間近く、残れる人たちの間でのZOOM懇親会が行われた。ここでは大いに発言させてもらい、他の参加者からの興味深い話もいろいろ聴けてとても楽しかった。これが現実にある場所に一同に会しての集まりであったら、まだまだ続いただろう。しかし、こちらの時間で午後四時(日本時間で午前零時)近くになったところでお開きとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


小論文添削道場主からのメッセージ

2020-11-07 23:59:59 | 講義の余白から

 今週の日本語小論文のお題は、「他人のつらさを自分のつらさのように感じることはできるでしょうか」であったことは今月二日の記事で話題にした。授業で吉野弘の「夕焼け」を朗読し、『この世界の片隅に』の漫画原作とノベライズを一部解説した上での出題であった。明日日曜日の23時59分が締め切りである。
 現在、金曜日夜の時点で、九本届いている。文章力の差は歴然としている。最優秀の学生は、たった三日で二八〇〇字を超える堂々たる文章を書いて送ってきた。内容的にも優れていて、現実世界における共感の困難さと検証不可能性について論じたあと、文学における虚構世界での登場人物との共感的一体化の可能性に文学作品の存在理由の一つとして示すことで締めくくっている。讃辞とともに添削を返送した。
 他方には、ただの一文も直しの入らない文はなく、しかも言いたいことがよくわからないところがあるから完全には直せない文章しか書けない学生もいる。よくわからないから書き直せと言いたいところだが、そうしてもさして改善するとは思えない。またしても添削で真っ赤になった自分の文章を見て、意気阻喪するばかりだろう。ただ、そういう学生も自分が言いたいことがうまくいえないもどかしさに苦しんでいることは文面から察することができる。お題そのものには強い関心があり、言いたいこともいっぱいあるのだ。だが、それが日本語の文章としては表現できない。思うこと・考えていることはいろいろあるのに、それが言葉にならないという経験が重なると、学習意欲も削がれてしまう。
 総合的な知力に秀で、日本語の作文能力も決して低くはないが、自分に対する要求水準が高い学生も苦しむ。フランス語での自分の思考の微妙な部分が日本語では表現できていないということがよくわってしまうから、いつも締め切りギリギリまで推敲を重ねる。それでも満足しきれないまま送ってくる。結果、本人が予想していた以上に私の朱が入った添削が送られてくる。本人の言いたいことが私にはよくわかるから、それに相応しいより高度な日本語表現を提案するつもりで朱をいれているのだよと説明を添えて添削された文章を返すのだが、本人は素直にはそれを喜べない。
 自分の日本語力のレベルがよく自覚できていて、その範囲で無理せずに書いてくる学生もいる。言いたいこともよくわかるし、直しの必要もほとんどない。これは一つの賢い選択ではあるのだが、そこに安住していると伸びない。こういう文章に高得点は上げない。むしろやや低めの点数にする。体操競技で難度の低い業でうまくまとめても点数が伸びないのと同じ理屈だ。低めの点数は「もう一歩上を目指せ」という私からメッセージなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


場末の得体のしれないディスカウントショップのオヤジのような教師としての私

2020-11-06 19:14:22 | 講義の余白から

 今日金曜日は、午前十一時から午後三時半までの遠隔授業三連チャンの前に、午前九時から遠隔ワークショップにオブザーバーとして参加したこともあり、かなりハードな一日だった。ワークショップはただ聴いていただけだから、疲れはしなかったけれど、普段なら十一時ギリギリまで授業の準備に充てられるのに、それができなくてちょっと不安をかかえたまま、本日最初の講義である「近代日本の歴史と社会」の授業開始時間を迎えた。
 結果から言うと、全体としてうまくいった。いわゆる一つの結果オーライってやつですね。
 詰めが甘いという自覚が授業に臨む際の緊張感をいつもより高める。こういうときは特に出だしが肝心だ。声にいつも以上に張りをもたせる。それでうまく乗れると、自ずと言葉が出て来るようになる。思考のリズムと声のリズムが一致する。話しているうちに次に言うべきことが自ずと準備されて口に乗る。こうなればしめたものである。話していて即興性が心地よくなる。その心地よさは、遠隔であっても、聴き手に「感染」する。
 しかし、すべてこの調子でいったわけではない。二コマ目の「メディア・リテラシー」では、現在進行中の日本学術会議任命拒否問題の複雑な背景をひとしきり説明し終わったところで、「問題の複雑性がこれでわかったと思う」と言ったとたん、「先生、まさに複雑すぎて、よくわからないということだけがわかりました。もう一回説明してください」と、強烈なカウンターパンチをくらってしまった。そこで、もう一度、それこそ噛んで含めるように、説明し直した。「さっきよりはよほど明瞭になりました。ありがとうございました」と言ってくれたけれど、それはクラスでも指折りの知力のある学生の答えであるから、サイレントマジョリティーは「わっけわかんねえし」というのが実情であったかも知れない。
 今日三つ目の授業である修士の演習では、植物の哲学について今私が考えている最中のことを話した。素材は十分すぎるくらい揃っているのだが、まだ料理し終えていない。しかも、作り慣れた料理ではない。この数ヶ月に集めた「食材」で今まさに創作中の一品なのだ。それを無理やり「味見」させられる学生たちにとっては、ヒドく迷惑な話だ。生煮えだったり、味が薄かったり、しつこかったり、とにかくまだバランスが悪い。盛り付けも試行錯誤中で、見た目もよくない。
 なんとか最後まで辿り着いて、「ごめんネ、こんなまとまらない話で」と謝罪したら、「そんなことありません。大変興味深い話でした」とチャットで返してくれる学生がいたり、良い質問をしてくれた学生がいたりして、救われたのは私の方でありました。
 ところで、植物の哲学が日本研究と何の関係があるのかと不審に思われた方もいらっしゃるかも知れない。ごもっともである。正直言って、カンケイ、ない。が、敢えて開き直ろう。対象としての日本文化ナンチャラではなく、一人の日本人がテツガク的にあれこれ考えている現場のみっともない姿を晒すことがブンカジンルイガク的な日本研究の一対象を提供していることになるのである(― よく言うよ、ホント)。
 それにしても、と思うことがある。日本近代史と現代メディア・リテラシーと植物の哲学を三連チャンで講義するとは、我ながら呆れる。よく言えば、オールラウンダーである(文学史に関しては、古代から現代まで全部教えたという「グランドスラム」を昨年度後期に達成した)。悪く言えば、ありとあらゆるマガイモノを売りつける場末の得体のしれないディスカウントショップのオヤジである。
 自己評価としては、前者二割、後者八割、である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


講義の準備に明け暮れた一日

2020-11-05 23:59:59 | 講義の余白から

 今日は午前四時から午後七時まで、午後に一回荷物を取りに出かけた以外は、明日の授業の準備に充てた。
 明日は、通常授業の他に、各専任が回り持ちで一回担当する修士の方法論の演習があるので、その準備の時間も確保しなくてはならなかった。ところが、通常授業の方はすでに大凡準備できていたパワーポイントを少し手直しすれば済むと思っていたのに、見直していると、遠隔用に拡充すべき箇所がいろいろでてきて、結局作り直すことにした。
 「近代日本の歴史と社会」では、前期の主要なテーマの一つである「鎖国」概念の徹底的な見直しを取り上げるので、自ずと力が入った。結果として、日中はほぼこの授業の準備に充てられた。
 「メディア・リテラシー」では、休暇前に引き続き、日本学術会議任命拒否問題を扱うが、その間に収集した新情報もあり、問題をより広い背景の上に位置づける必要もあったから、やはり準備済みのパワーポイントを作り直した。
 それが終わった後に、方法論の演習のパワーポイントを新規に作り始めたが、その時点でもう午後六時を過ぎていた。このまま続けても、頭はよく回らないし、時間もそれだけ余計にかかってしまうから、明朝も四時に起きて続けることにして、午後七時には切り上げて、夕食にし、テレビドラマを見ながらワインも飲み、寝る前にゆっくり湯船に浸かって十一時前に就寝した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本語で考えるための小論文演習

2020-11-04 09:16:27 | 講義の余白から

 昨日から始まった修士二年の演習(全六回)は、その名も « Technique d’expression écrite » である。約二ヶ月間で2000字の小論文を書かせる。長くはないが、その分何度も推敲させる。テーマは、自分の修士論文の問題系から、学生たち自身が自分で選んだ一つのよく限定された問いである。
 まず、準備中の修士論文から引き出した問いをそのまま問いの形で私に送る(最も速い学生は、演習直後に送ってきた)。それがOKだと、その問いに相応しい論文のタイトルを自分で考える。それをまた私に送る。学生が考えるタイトルは、往々にしてそのままでは使えないぎこちない表現が多いので、より小論文に相応しいタイトルを私から提案する。
 次のステップとして、学生は全体プランと最初の400字を書いて今週末までに私に送る。それを添削した上で、来週中にZOOM を使って個別面談を行う。一人20分から30分。9名いるから、こちらとしては結構な拘束時間になるが、添削はやはり個別でないと効果的ではない。遠隔は、面談前後の移動時間もなく、お互い都合のいい時間に最小限の拘束時間で済むし、画面共有しながら添削について話し合えるから、とても便利だ。
 添削と個別面談との結果を踏まえて、二週間後の次回の演習を行う。そこで、学生たちの文章に見られた表現の問題のうち、共有するに値すると私が判断した点について解説する。それに加えて、本多勝一『日本語の作文技術』、木下是雄『理科系の作文技術』、村上紀夫『歴史学で卒業論文を書くために』などからの摘録を一緒に読み、表現の問題について考えていく。
 参考記事:2019年11月19日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


話すように書くことはできないが、書くように話すことはできる ― 学生たちの文章修行

2020-11-03 23:59:59 | 講義の余白から

 学部三年生の授業でも修士の演習でも、文章を書く練習は私が学生に課すもっとも重要な作業である。もちろん彼らのレベルに合わせてのことだが、日本語である程度まとまった文章をかなり頻繁に書かせる。
 それは単に書く力をつけさせるためではない。書く力を鍛えることは、口頭表現能力も高める。その逆は成り立たない。かなり流暢に話す学生でも、いざ書かせると相当に間違った表現を使っており、もちろん本人はそのことに気づいていない。あるいは、間違いとまでは言えないにしても、書き言葉としては不適切な表現が少なくない。つまり、話せても書けない。話すようには書けないのである。
 一文一文は単純だが全体として構成のしっかりした文章を、ほとんど辞書を使わずに書けるようなレベルに達すれば、自ずと話せるようにもなるし、口頭発表能力のその後の進歩も速い。それは構文の基礎が確実に身についているからである。
 それだけではない。文章を読むときに、語彙・表現・構文により注意深くなる。単にそれらを理解するだけではなく、「道具」としてそれらを使えるようになりたいと思って読むからである。最初は、パクリでも模倣でも構わない。それを繰り返し、拡充していく過程で、それらが自分の表現手段として身についてくる。結果として、文章読解力も向上する。
 もちろん、ただ書いただけでは進歩しない。誰かの添削を受けなくてはならない。それが私の仕事だ。その作業は、迅速かつ注意深く行う。直し過ぎてはいけない。書き手の個性を殺してしまうから。
 その添削をどう活かすかで、その後の進歩に大きな開きが生まれる。伸びる学生は、すぐに次の課題のなかで私が添削として提案した表現を使ってみようと試みる。それをまた私が手直しする。この相互作用を重ねることで進歩する。
 日本語の文章力を高めることは、自己の総合的な表現力を高めることに結果としてなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


前期後半戦遠隔授業で開始 ― 他人のつらさを自分のつらさのように感じることはできるか

2020-11-02 23:59:59 | 講義の余白から

 万聖節の休暇明けの今日から遠隔授業が一斉に始まった。休暇中に遠隔への全面的な移行が決まったから、いくらかは準備の時間があったし、すでに三月からの第一回目の大学閉鎖時の経験があるから、初日の今日、教員の側にも学生の側にも、大きな混乱はなかったようだ。
 しかし、朝、Moodle への接続が集中したせいで、一時間あまり、接続がきわめて不安定になり、これでは使いものにならないと、学生たちにはメールでBBBのURLを別途知らせた。結果としては、午前11時の授業開始10分前には Moodle の当該ページが開けるようになったので、ほぼ全員開始時間には接続できていた。
 今日のところは、まずは安定した接続を確保するために、学生たちのカメラとマイクはオフにさせ、私の方だけカメラをオンにし、授業を始める前に学科の今後の方針についてフランス語で説明してから、日本語での授業を始めた。まずホワイトボードを使って、「今の自分の気持ちを日本語一語で表現してみてください」と書くと、「疲労」「心労」「不安」「心配」「怖い」「ストレス」などの言葉が並んだ。
 後は、準備しておいたパワーポイントを使って、教室でと基本的に同じパターンで授業を展開していった。日本語ワンポイント・レッスン(「必ずしも」「けっして」「しかも」「したがって」の使い方)、日本文明・文化を理解するためのキーワード(「見ゆ」から「思ふ」へ 〈眼〉から〈心〉へ ― 万葉集から古今和歌集への世界認識の転回点)、本日のメインテーマ「戦争と日常」(『この世界の片隅に』をめぐって)、今週の詩(吉野弘「夕焼け」)。最後に、日本語作文の課題として、「他人のつらさを自分のつらさのように感じることはできるでしょうか」という問題を出した。提出期限は今度の日曜日。
 授業に先立って、大学のサイト内にパッドを開設しておき、学生たちはいつでもそこに自由に書き込みできるようにしておいた。そちらを使って質問してもよいことにしてある。こうしておけば、私の方で定期的にパッドをチェックして、質問があればそれにその都度答えを書き込むだけでよく、いちいちメールのやり取りをしなくて済むし、同じ質問を避けることができる。
 前期はもうおそらく教室での授業には戻れない。遠隔一本という条件下、学生も教員もあまり無理せず、できるだけインターラクティブな授業を展開し、出口の見えない閉塞感を僅かなりとも軽減させたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


雨の万聖節の徒然 ― 海の藻屑の独り言

2020-11-01 10:58:41 | 雑感

 昨日のハローウィン、昨年は仮装した近所の子どもたちが私の家にもお菓子を貰いに来たが、昨夜は誰も来なかった。こんなところにも外出禁止令の影響が出ている。
 古代ケルト人のサムハイン祭がハローウィンの起源といわれる。これは死の神サムハインを讃え、新しい年と冬を迎える祭りで、この日の夜には死者の魂が家に帰ると信じられた。この日に死者を祀る習慣はヨーロッパ全土で広く行われていたが、カトリック教会はこの異教の習慣を抑えるために万聖節を定め、諸聖人の祝日である万聖節の前夜として位置づけられた。Hallowとはアングロ・サクソン語で「聖徒saint」を意味し,All Hallows Even(万聖節前夜祭)がつづまって « Halloween » となった。それは九世紀はじめのことである。
 万聖節は国の祝日なのだが、今年のように日曜日と重なっても、日本と違って、翌月曜日が振替休日になることはない。春夏冬で合計六週間の有給休暇がヴァカンスとしてしっかり消化されるのが一般的な国だから、休日が一日減ったくらいで文句を言う人もいないようである。
 万聖節には、多くのフランス人が家族の墓に参り、花を手向ける。それゆえ、外出禁止令下でありながら、今日まで花屋さんは営業が許可されている。今日は朝から氷雨が降っている。
 ところで、「不要不急」とは、『広辞苑』によれば、「どうしても必要というわけでもなく、急いでする必要もないこと」の意である。フランス語では « non essentiel » という表現がそれに対応する。どちらにせよ、自分の職業がそういう扱いを受けて嬉しい人はいないだろう。
 思えば、大学というのは不思議なところである。学部・学科にもよるし分野にもよるから、一概にはもちろん言えないが、私自身の授業内容に限って言えば、まさに「不要不急」である。学生に卒業資格を与えるという社会的機能の末端は担っているからまったく無用ではないとは辛うじて自己弁護できるが、授業内容に関して「不要不急」という基準で厳しく仕分けされれば、ひとたまりもなく、たちまち海の藻屑と化すほかはない。
 近い将来に海の藻屑と化す者にも働く場所を与えてくれる大学に対する感謝の気持ちだけは定年まで忘れずにいたいと思います。