最近というか、もう何年もと言うべきだろう、一冊の本をゆっくりと時間をかけて読んだことがない。この夏も、ホメロス大全を、結局、ごくわずかしか読めなかった。カエサルの『ガリア戦記』の新仏訳もちょっと触れられただけ。どちらも仕事机からすぐ手の届くところに今でも置いてある。
植物の哲学の端緒を開けたは望外の収穫だった。じっくりとは読めなかったとしても、刺激を受けた本、それどころか感銘を受けた本もある。その記録はこのブログに残してある。
ただ、とにかく読み方が忙しない。一日平均十冊ほど目を通す。これはもう読書ではない。さっと読みながら、「使える」ところを探してばかりいる。ほんとうは腰を据えて読むべき本なのに、そんなふうに走り読みしてしまうとき、その本と著者に対して申し訳ないと思う。もっとも、その程度で十分だという代物も掃いて捨てるほどある。いや、そもそも一瞥を与えるにも値しない駄本の量は地球環境を脅かすほどだ。
電子書籍を頻繁に購入するようになったのは今から三年ほど前だが、今では日仏英合わせて1500冊ほどになっている。授業で使うにはとても便利で重宝している。学生たちから要望があれば、当該部分をスクリーンショットですぐに送れる(やりすぎると違法だけれど)。特に、日本語の紙の本は、入手しようとすれば高くつくし時間もかかるから、購入後即読める電子書籍はほんとうにありがたい。
とはいえ、紙の本でその手触りと重みを感じながら落ち着いて読みたい日本語の本があっても、すぐには入手できないからと、電子書籍版で読むのは、私のような旧世代人には、やはり味気ない。
昨日今日と、本当は紙の本で読みたいと思う電子書籍版の最新刊を一冊ずつ購入した。昨日購入したのが伊藤亜紗の『手の倫理』(講談社選書メチエ)、今日購入したのが渡部泰明の『和歌史 なぜ千年を越えて続いたか』(角川選書)。この二冊を合わせ読むことがまた新たな研究上のパースペクティヴを開いてくれるという直感的確信に今ちょっとウキウキしている。