内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

無神論者は「信者」よりも信の近くにいる ― ジャン=リュック・ナンシー『脱閉域 キリスト教の脱構築1』より

2023-09-20 23:59:59 | 哲学

 今日はまったく論文の推敲ができなかった。午前中には雑用が重なり、午後は、修士論文について学生と面談、二つの授業、その後、来年度日本留学希望の二人との面談。自宅に帰り着いたのは七時前。さすがに夕食後に論文と向き合う気にはなれず、テレビでドラマを見た後、早めに就寝することにする。
 論文に引用する最後の文献は、ジャン=リュック・ナンシーの『脱閉域 キリスト教の脱構築1』)(La Déclosion. Déconstruction du christianisme, 1, Galilée, 2005.大西雅一郎訳『脱閉域 キリスト教の脱構築1』、現代企画室、二〇〇九年)である。ナンシーは、昨日の記事で引用したエックハルトの説教の少し先のところに出て来る言葉、「私は神に祈る、神が私を神から自由にしてくださるようにと」を引きながら、次のように述べている。
 「神が引き退いた場には、根底も隠れ場所もない。この神はその不在性が文字通り神的な性格をなすような神、あるいはその神性-を-欠いた空虚さが文字通り真理であるような神である。」(邦訳七一頁)
 「キリスト教的な保証とは、いわゆる宗教的な信仰=信条〔croyance〕のカテゴリ-とは完全に対極にあるカテゴリーにおいてのみ起こりうる。この信[foi]のカテゴリーは、不在性に対する忠実さであり、あらゆる保証が不在なところでこの忠実さに確信を抱くことである。この意味で、慰めを与えるような、あるいは贖いをもたらすようないかなる保証も断固として拒絶する神なき者[無神論者 athée]は、逆説的あるいは奇妙な仕方においてであるが、「信者」よりも信の近くにいる。」(同頁)
 この引用をめぐっての考察によって論文は締め括られる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


真の心の貧しさから遠く離れて

2023-09-19 22:05:55 | 雑感

 九月末締め切りの原稿、量的には指定枚数の三〇枚に達した。今日は、最後の論点について必要な引用等、資料的な部分で増補しただけだったが、それだけで指定枚数いっぱいになってしまった。まだ書き足したいこともある。残された十一日は推敲に当てる。少しでもよいものにしたい。
 今日は一日、マイスター・エックハルト「三昧」だった。ドイツ語説教集とその関連文献を読み漁った。久しく遠ざかっていた故郷でひとときを過ごせたかのように、それはそれで嬉しかった。と同時に、悲しくもあった。なぜか。婉曲的な言い方になるが、肺腑を抉るようなノスタルジーに苛まれたからである。
 贅言は虚しい。今日一日繰り返し読んだエックハルトのドイツ語説教五二の一部を引く。

神が魂の内で働こうとする場合、神自身がその働きの場となるほどに、[…]人が神と神のわざのすべてとにとらわれていないとき、それを精神における貧しさというのである。なぜならば、人がそれほどに貧しくなったのを神が見出すとき、そのときに(はじめて)神は神自身のわざをなすのであって、人はそのような神を自分の内に受け、かくして、神が働くのは神自身のうちであるという事実から、神は神のわざの固有の場となるのである。ここに至り、つまりこのような貧しさにおいてこそ、人は、彼がかつてあったし、今もあり、そしてこれからも永遠にそうでありつづけるような、永遠なる有を再び取り戻すのである。

田島照久編訳『エックハルト説教集』、岩波文庫、一九九〇年、一七一頁。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

\


最後の本棚

2023-09-18 21:20:13 | 雑感

 今日は、先週注文した本棚が届いたり、他にも注文品の配達があったり、午後三時から学科の専任教員の会議があったりで、半日しか論文執筆に集中できなかった。それでも二十四枚まで到達し、量的にはあと六枚ほどとなった。論文を締め括るために導入するもう一つの論点に残された枚数すべてを使うことになるから、完成まであと一息というところまできた。
 五月あたりから、論文や書評の執筆のために仕事机に積み上げられた参考文献が空間的に飽和状態となり、それぞれの原稿執筆に必要な文献を締め切りが近い順に移動させざるを得ず、かなり往生していた。そこにこの夏の一時帰国中に購入した五十冊ほどの本が加わったから、仕事机まわりはもうスペース的に限界に達していた。
 そこで、書斎のなかでまだ書棚を置くことができる最後のスペースであるガラス戸左脇のスペースにちょうど合う細長い本棚を先週購入した。それが今日の午前中に届いた。廊下や寝室など、まだ書棚を追加するスペースがないわけではないが、それはしない。きりがないからここらへんを限度とすると決めての今回の購入であった。
 ところが、その本棚を組み立てて、仕事机にうずたかく積み上げられていた本を移動させたら、あっと言う間に本棚が一杯になってしまった。
 まあ、それでも机上はとにかくすっきりしたから、これで月末まで原稿執筆に集中できそうで、嬉しく思っている。
 今後はもう本棚を買い足すことはせず、不用になった本は、地下の物置に移動させるか、人にあげるか古本屋に売ることにする。定年になったら、日本語の本はすべて日本学科に寄贈するつもりでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ほんまにありがとうございます

2023-09-17 17:22:19 | 雑感

 今日も一日論文執筆に取り組む。四〇〇字詰め原稿用紙にして二〇枚半まで書けた。指定枚数は三〇枚前後だから、三分の二は一応書けたことになる。ただ、構想段階で予定していた論点がもう一つ残っている。それは数日「寝かせ」て今度の週末に取り組むことにして、明日月曜日から金曜日までは、すでに書けている部分の推敲と増補に当てる。
 今朝、原稿執筆前に一つだけ大学関係の簡単な仕事を処理した。
 先月まで大阪大学に一年間留学していた学生が、大阪で仕事を見つけたので、フランスに戻らずにビザを学生ビザから就労ビザに切り替える手続きを始めたと知らせてきた。その手続のためには、ストラスブール大学の卒業証明書が必要なのだが、大阪大学からの正式な成績証明書は九月末にならないと発行されず、それでは手続きに間に合わない。どうしたらいいかという相談のメールだった。メールは立派な日本語で書いてあって、この学生の一年間での上達ぶりにちょっと驚かされた。
 こういう相談・依頼に対して、私は滅法迅速に対応する。恐らく大学全体でも指折りの速さだと自負している。当該の学生には、非公式の成績表でいいからすぐに送ってくれ、そうすれば月曜日には卒業証明書が発行されるように教務課に書類を送る、と即座に返事を送った。幸い学生は阪大のサイトの成績表のスクリーンショットをPCに保存してあった。
 学生からの感謝の返事が可笑しかった。
 「了解です!ご迅速な対応とお手伝い、ほんまにありがとうございます。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


今週末は論文執筆に集中

2023-09-16 23:59:59 | 雑感

 今週末は論文執筆に集中する。今日、規定枚数の半分近くまで一気に書く。今月前半メモを取りながら考え続けたことを順序立てて書いていく。まだ三つほど織り込むべき論点が残っている。それは明日書く。その後、締め切りの月末まで、増補と推敲を行う。
 今年度前期担当する四つの授業は水曜日と金曜日にそれぞれ二コマずつなので、それだけ週日でも自宅でまとまった時間が取りやすいとはいえ、大学関係のメールも少なからず入って来て、それを無視するわけにもいかないので、長時間一つのことに集中するのは難しい。
 だから、今日明日と、来週末でほぼ方を付ける。


私のなかの「フラッシュバック」的なもの

2023-09-15 17:59:39 | 雑感

 『明鏡国語辞典』には、「ピーティーエス-ディ【PTSD】」が立項してあって、「生命の危険を感じるような恐怖や絶望を体験したあとに継続して起こる、不安・うつ状態・パニック・フラッシュバックなどの障害。心的外傷後ストレス障害」と説明してある。
 この説明のなかの「フラッシュバック」を同じ辞書で引いてみると、第一の語義は映画の技法としてのそれで、第二の語義は、「過去の麻薬使用時の幻覚・妄想や、災害・事故などの強烈な体験の記憶が、あるきっかけで再発すること」となっている。第二の語義でいつごろから使われるようになったのかはわからない。
 ジャパンナレッジのなかの『日本国語大辞典』には、驚いたことに、上掲の第一の語義のみで、第二の語義がない、と思ったら、「フラッシュバック現象」が別に立項してあり、そこには、「薬物乱用による中毒で幻覚や妄想などの症状が生じるようになると、治療により回復したようにみえても小さなきっかけで幻覚・妄想などが再び起こる現象」とあった。
 『現代心理学辞典』(有斐閣)では、「フラッシュバック」の項はただ「⇨心的外傷後ストレス障害」と別項送りなっているだけ。その項のなかに、「症状には,①心的外傷的出来事が再び起こっているように感じたり行動する(フラッシュバック)」とある。
 私自身は、上掲の定義に当てはまるようなフラッシュバックの体験はないが、まったく突然かつ不随意的に、遠い過去の嫌な体験あるいは一場面がふと蘇り、なんで今こんなことが思い出されなくてはならないのかとしばし不快な気分になることはときどきある。
 その過去の嫌なことそのことが今の気分を不快なものにするというよりも、なんでこんなつまらないことが何十年経っても記憶に残っているのだろうかとうんざりするのだ。自分で自分にうんざりするというよりも、自分のなかの制御できない部分に不意打ちを喰らわされることに対して、いい加減にしてくれ、と言いたくなる。
 日常生活に支障をきたすわけでもなく、取るに足りないことと言えばそれまでだが、私のなかにも「フラッシュバック」的なものを引き起こす素因はあるということなのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


興味と関心の違いについて

2023-09-14 23:59:59 | 日本語について

 ある授業で取り上げる日本語のテキストのなかに「興味・関心」と併記してあり、それぞれの語に異なった意味が与えられているかどうかは文脈からは判断しかねた。もし授業で学生からこの両語の違いについて質問があったらどう答えようかと考えた。
 一番無難かついい加減な解答は、「ほぼ同義である」と一言で済ますことである。当該の文章の中では実際そうなのだから、これはこれで間違った解答ではない。しかし、文脈を離れた両語の一般的な用法については、これでは答えたことにならない。実際、用法の違いがあるからである。「無関心」とは言うが「無興味」とは言わない。だが、「興味がない」とは言える。「興味津々」とは言えても、「関心津々」とは言わない。読みからして「カンシンシンシン」と「シン」が三つも重なって笑ってしまう。
 手元にある国語辞典四冊『角川必携国語辞典』『三省堂国語辞典』『明鏡国語辞典』『新明解国語辞典』を引いてみた。最初の三冊は、いずれも語釈がそっけなくて両語の違いを明解に説明する手がかりがない。『新明解』だけ、「関心」の語釈が目立って詳しい。

その事について自分自身に直接かかわりがあるかどうかに関係なく、無視するわけにはいかないと感じ、△より深く知ろう(今後の成行きに注目しよう)とする気持ちを持つこと。〔心理学・教育学では「興味」と同義に用いることもある〕

 「興味」の方はわりとそっけない。

その物事について、おもしろいと思うこと。

 これらの語釈によると、例えば、「政治に関心がない」と「政治に興味がない」とではどう違うのか。
 「関心がない」と言えば、「(自分には)関係がないから、より深く知ろうとは思わないし、成行きがどうなろうと知ったことではない」という意になるだろう。「興味がない」と言えば、「面白くないから、知りたいとも思わない」という意になるだろう。
 「知的関心」と「知的興味」とではどう違うか。前者には、関心の対象に対する情報に敏感になり、情報を収集するという継続的な態度が予想されるが、後者は、対象に対する知的好奇心が引き起こされた状態である。こう違いが言えそうな気がする。前者は、その関心が何らかのより大きな理由によって引き起こされるのに対して、後者は、対象そのもの魅力によって引き起こされるという違いもあるだろうか。
 「関心」と「興味」の用法の違いという問題とは別に、対象に対する二つの異なった心的状態という問題もあるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


嬉しい知らせは〈外〉から到来する

2023-09-13 23:59:59 | 哲学

 ここ二年の日本学科の学生たちに対する私の感情を一言でまとめるならば、「悲哀」の一語に尽きる。私が授業で話したことの多くに関して、無関心、無理解、軽視、誤解など、どうしてここまで否定的な反応(というよりも、無反応)なのかと、ほとんど絶望的な思いに気持ちが沈むことが多かった。
 このような物言いにはいささか誇張があることは認めるがが、現実を歪曲してはいない。
 そんな鬱陶しい気分から私をいくらかでも解放してくれたのが昨日の記事で話題にした一通のメールであった。
 そして、今日、まったく思いがけないことに、また一通の嬉しいメールが届いた。
 数年前、ハイデガーと京都学派との対話についての博士論文の共同指導者としての指導を私に依頼してきた学生からのメールだった。曲折あり、彼女が現在所属している大学では、博士論文に関して学外の共同指導者は認められないことが昨年の今頃わかり、そこでやりとりは途絶えていた。その彼女からのメールだった。幸いなことに、博士論文の執筆は順調に進んでいるという。
 そのメールの末尾に、同大学のもうひとりの博士論文課程の学生と、現象学についての研究集会を来年に向けて準備しているが、それに参加してくれないかという打診が添えられていた。
 今年に入って、フランス国立図書館(来年五月)とカナダのラヴァル大学(来月)とでの講演、現象学と日本哲学について京都大学で開催予定のシンポジウム(来年三月)への参加、ロレーヌ大学のアンリ・ポアンカレ研究所主導の「数学と京都学派」研究チームへの参加の依頼に次いで、これが五つ目の依頼である。
 所属する当の日本学科ではもはやほとんど無用者に過ぎないが(もうすぐいなくなるから、今しばらくのご辛抱を願う)、まさにそれだけに、こうした外からの依頼や打診は嬉しいし、いささか慰められる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


四年前論文指導した学生からの嬉しい知らせ

2023-09-12 16:28:58 | 哲学

 二日前にとても嬉しいことがあった。
 いつものように朝大学のアドレス宛のメールをチェックしていると、件名が Remerciements となっているメールが一通届いていた。誰からだろう開けて見ると、四年前の2019年11月から翌年6月末まで、マイスター・エックハルトの説教と禅仏教の教説における「離脱」(放下)についての卒業論文を指導した他学部の学生からのメールだった。人文学科に所属するその学生が私を最初に訪ねてきたときのことは、2019年11月12日の記事でかなり詳しく話題にしている。
 論文指導の最後の三ヶ月ほどは、コロナ禍で大学が封鎖されていたので、指導はもっぱらメールで行ったが、今数えてみたら二十回以上やり取りをしていた。学部の卒企業論文としては出色の出来であった。その論文作成の経緯については、2020年7月3日の記事で詳しく説明している。
 一昨日届いたメールによると、2020年秋からの一年間はハイデルベルク大学の哲学・神学セミナーに参加し、2021年秋からはまたストラスブール大学に戻ってきて、哲学部の修士課程登録、今年の6月に修士論文「マイスター・エックハルトの著作における魂の根底に関する語彙の研究」を提出して、修士号を取得、この秋からは、さらにエックハルト研究を深めるべく、同哲学部の博士論文課程に登録したという。
 メールは、エックハルト研究へと最初に導いた私に対する以下のような誠意のこもった感謝の言葉で結ばれていた。

Par ce courriel, je voulais vous témoigner ma reconnaissance et ma gratitude, car c’est sous votre direction que j’ai été introduit à la pensée eckhartienne, mais aussi aux penseurs de l’école de Kyoto, dont la lecture (en particulier cette de Keiji Nishitani) a largement participer à constituer ma culture philosophique. La découverte du corpus eckhartien a été un moment important de mon cursus universitaire également, et je prépare actuellement un projet de thèse sur le vocabulaire eckhartien qui sera dirigé par Edouard Mehl.

 添付されていた修士論文は150頁に迫る実に立派な研究である。
 日本学科で指導できる修士論文は私の専門から離れたテーマのことが多く、こっちも勉強しながら熱心に指導したとしても、このようなかたちで実を結ぶことはこれまでなかったし、今後もまずないであろう。
 それだけに、この学生からの予期せぬメールはことほか私を喜ばせた。


たった一語の読みが従来の伝統的解釈を転倒させる恐ろしさ

2023-09-11 01:39:48 | 読游摘録

 昨日の記事で紹介した入矢義高氏の『増補 求道と悦楽 中国の禅と詩』には、「臨済録雑感」と題された講演が収録されている。講演時の話し言葉の調子が保たれた文章で読みやすい。でも、内容的にはかなり高度だ。
 入矢氏が初めて『臨済録』を読んだのは昭和二十三年のこと、三十八歳のときだった。その時読んだのが岩波文庫版だったのだが、入矢氏は読みちがいが大変多いのに驚かされる。伝統的な読み方に誤りが非常に多いという。
 その一例として一番短い例が挙げられている。
 臨済は「祖仏の顔を見たいか、会いたいと思うか」と修行者たちに問う。それに続けて臨済は「祗你面前聴法底是」(ただなんじめんぜんちょうぼうこれなり)と言う。従来は、権威ある専門家も含めて、「お前の目の前で法を聴いているものがそうである」と理解している。つまり、無依の道人、無位の真人というものが、修行者たちとは別に、たとえその内部においてであろうと、想定されている読み方をしてきた。
 ところが、この読み方はまったく間違っていると入矢氏はいう。中国語原文は、「祗你、面前……」と二音節ずつ繫がっている言葉で、最初の二字は「ほかでもないおまえが」「おまえこそが」という意味である。つまり、臨済が言いたいのは、「私の目の前で、私の説法を聴いているもの、まさにそのおまえ、他ならぬそのおまえこそが祖仏なのだ」ということである。
 「別に無位の真人とか、そういう超越的、絶対的なものを措定する必要は全然ないのです。『祖仏はおまえだ』というのです。音読しますと何でもないことで、ピタリと決まるわけですが、従来はこういう解釈ではなかった。」(111‐112頁)
 岩波文庫の新しい版は先版と比べて全体としてかなり訂正されているが、懸案の箇所については訂正されていないという。つまり、「無位の真人」というものを修行者とは別に措定したままの現代語訳になっている。ところがそうではないのだと入矢氏は強調する。「いま、私の眼の前で説法を聴いている生き身のおまえたちが、他ならぬ祖仏なのだ」と端的に言っているのだと氏は繰り返す。
 入矢氏はこの点がきわめて重要だと考えているようで、もう二回ほぼ同じ主張を繰り返している。
 「従来の解釈のように「おまえの目の前で」ではなくて「私の目の前で」法を聴いている修行者たちを、その現在の生き身そのままに、本来人として、祖仏として肯定しているわけです。」(113頁)
 「外在的にしろ、内在的にしろ、真仏を介在させる、あるいは前提させるという手順は、ここではまったく不要だということです。そういうものが内に在って働きをなすのではないのです。われわれが生き身のままで、本来無依の道人なのだと、と臨済は説いているのです。」(同頁)
 入矢氏によれば、『臨済録』を中国語原文として読めば、リズムから自ずと読みが決まってきて、先に挙げた二字「祗你」は「ほかならぬおまえ」としかならない。
 たった一語の読み方の違いで、まったく異なった解釈になってしまい、それがしかも臨済の禅思想の根幹の理解に関わる問題であるということにかなり衝撃を受けた。と同時に、原文を一字一句ゆるがせにせずに読むという作業が、基本中の基本でありながら、必ずしも実践されてはおらず、結果として誤った解釈が「伝統」として長年に亘って継承されてしまうことに恐ろしさも感じた。