4.古い街並みを散策
もう一度訪ねてみたい街、近江八幡の八幡掘界隈を歩いてみる。
近江商人のふるさとと言われるようにうだつの上がる街並みや、見越しの松などが当時の隆盛を思い起こさせてくれます。
近江八幡に大きな足跡を残しているヴォーリズを忘れてはならない。
明治38年に八幡商業高等学校の英語教師として来日し、キリスト教の伝道と
医療、学校教育などの社会貢献活動を続けました。
我々がよく知っているメンソレータムの近江兄弟社は、ロート製薬への譲渡などの事情もあったが今でも生産を続けている。
会社の前の歩道には少女が ヴォーリズに花束を渡しているブロンズが建てられている。
街角に朝鮮人街道と書かれた石柱がある。
これは1607年から200年間に亘って朝鮮通信使が来日したうち10回が
中山道を 外れ近江八幡、安土を通った。
それでこの道を朝鮮人街道と呼んでいるそうだ。
ハングルでも謂れが書かれていた。
明治10年に八幡東学校として建てられた白雲館は今は観光案内所として町並みのシンボル的存在になっている。
小雨の中の散策だったので、すべてを見ることができなかった。
やはり近江八幡は、
訪ねて良かった街、もう一度訪ねてみたい街ですね。
もう一度訪ねてみたい街、近江八幡の八幡掘界隈を歩いてみる。
近江商人のふるさとと言われるようにうだつの上がる街並みや、見越しの松などが当時の隆盛を思い起こさせてくれます。
近江八幡に大きな足跡を残しているヴォーリズを忘れてはならない。
明治38年に八幡商業高等学校の英語教師として来日し、キリスト教の伝道と
医療、学校教育などの社会貢献活動を続けました。
我々がよく知っているメンソレータムの近江兄弟社は、ロート製薬への譲渡などの事情もあったが今でも生産を続けている。
会社の前の歩道には少女が ヴォーリズに花束を渡しているブロンズが建てられている。
街角に朝鮮人街道と書かれた石柱がある。
これは1607年から200年間に亘って朝鮮通信使が来日したうち10回が
中山道を 外れ近江八幡、安土を通った。
それでこの道を朝鮮人街道と呼んでいるそうだ。
ハングルでも謂れが書かれていた。
明治10年に八幡東学校として建てられた白雲館は今は観光案内所として町並みのシンボル的存在になっている。
小雨の中の散策だったので、すべてを見ることができなかった。
やはり近江八幡は、
訪ねて良かった街、もう一度訪ねてみたい街ですね。