旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

バイユー、そして「林檎の礼拝堂」を見てからシャルトルへ

2013-08-24 21:06:49 | フランス
「林檎の礼拝堂」を訪れることは、この旅を企画した理由のひとつだった。

《手造の旅》あなたの知らないロンドン、パリ+シャルトル四日目、午後。

朝、ノルマンディー上陸作戦の海岸とアメリカ兵の墓地を訪れ、その後すぐちかくのバイユーにて記念館訪問。

バイユーに来たらどうしても見ておかなければいけないのは、現存でも全長六十メートルを超える11世紀の「バイユーのタピスリー」。1066年ヘイスティングの戦いで勝利したウィリアム王の異母兄弟司教がオーダーしたものと言われている。大聖堂の柱に渡して展示したと推定されている。伝説ではウィリアム王の妃がつくったというが、これだけのものは素人のものではありません。
タピスリーと呼ばれていても、いわばシーツの上に毛糸で絵を描いたというようなものです。

ここにあります↓

が、写真撮影禁止なので、こちらのサイトでもごらんください。

もともとこのタピスリーを展示していたと言われるのがこの大聖堂↓


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ロマネスク的な彫刻が美しい
今見えている部分はしかし、11世紀にはなかった。
11世紀の部分で残されているのは、主祭壇の地下にあるクリプト。
ここの雰囲気は中世そのものだった↓


**
バイユーから南へバスを走らせ、ウィリアム征服王誕生の地ファレーズ近郊へ。今日はとなりの小さな村にある小さな15世紀からの礼拝堂を訪れる。

以前から気になっている場所だったが、今回の旅へ参加希望された方が、「林檎の礼拝堂」は近いのでは?と言われて、行程を一日増やして訪れることにした場所である。

こんな細い道を通って

すぐに礼拝堂があらわれた


荒廃していた礼拝堂を現在みるように美しくしたのは日本人美術家の田窪恭治さん。
ご本人が書かれたその名も「林檎の礼拝堂」という本は、美術制作とはなにかを考えさせてくれる本だった。

一枚の絵を描くのとはちがい、建物を相手にするにはお金がかかる。
人が仕事として働き、材料を買い、それなりの年月がかかる。
それを美術家個人が出せるとは限らない。
ましてや、完成したものは売りに出せないし、日本に持ってくることもできない。
それでもこの事業にお金を出す人々の心意気とでもいうものが、この礼拝堂に結実している。

破れていた屋根は美しい色ガラスで補修された

提供したのは日本の企業


美しいリンゴの木の絵

内部の絵を描いたのは田窪さんだが、昔の構造は出来るだけ残そうとしている。
この天井の梁はむかしのまま


本の中で印象的だったエピソードのひとつが、床の鋼鉄材について。
入口にそのサンプルが置かれていた↓

この材料も日本の企業により提供されたのだが、これに対する輸入関税が数十万もかかる事がわかり、フランス政府に免除してくれるように働きかけたのだそうだ。
詳しくは本をお読みください。

***
今日の宿泊地はシャルトル。
休日なので道は空いていて三時間ほどで麦畑の向こうに大聖堂が見えてきた↓

この大聖堂の風景は、昔の巡礼が見ていたのと変わらないのか、そう思うと感慨深い


まだまだ明るい時間にホテルへ到着

旧市街大聖堂へ近いホテルにした。

大聖堂で戴冠した唯一のフランス王アンリ四世。

暗くなる前に街歩きにお連れして、大聖堂からホテルへは自分で帰れるようにしてもらわなくては。

第二次大戦時代のレジスタンスの闘志ムーラン市長の記念碑。
彼はドイツ軍によって殺された。
古い荒れた教会はシャルトルにもまだまだある

休日の商店街はおやすみ


各自夕食の後、いよいよ、シャルトル大聖堂のライトアップ!そして、得難い体験となったのは大聖堂の地下へろうそくを持っての訪問だった。
こちらに書きました。すばらしいシャルトル大聖堂のライトアップと共に、ご覧ください!
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ノルマンディー、上陸作戦の海岸

2013-08-24 20:38:09 | フランス
《手造の旅》あなたの知らないロンドン、パリ、+シャルトル 五日目朝。

MSM(モン・サン・ミッシェル)へ行くツアーは数えきれないほどあるが、ノルマディー上陸作戦に触れたコースはほとんどみかけない。しかし、ノルマンディーを訪れる人々が必ず思い致す事柄ではないのか? ならば、しっかり理解していただける行程で訪れたい。


MSMを出て一時間半、オマハビーチが近づいてきた。1944年6月6日に敢行されたノルマンディー上陸作戦のなかでも、もっとも苛烈な戦闘が行われた場所である。この近辺には大小たくさんの博物館がある
こちらは最近開館したところだそうだ

遠い昔でなく、現代の戦場だった場所をどのように訪れ、感じてもらうのが良いのか。案内の方法には確かにむずかしいものがある。

半世紀も経てば多くの遺構はなくなってしまっていたりするし、残っていてもそこから現代につながってゆく手触りのようなものを得られる場所は限られている。

アメリカ人墓地は、あの戦闘が現代につながっている場所なのだと、一瞬ではっきりと認識させてくれる場所だ。

白い十字架が整然とならんでいる。

以前、はじめてここを訪れたのは2000年の6月だった。上陸作戦が行われた6月6日のすぐ後ということで、多くのアメリカ人が来ていた。いつもは陽気な若いアメリカ人たちも、ここを訪れる時には一様に神妙な顔をする。

今日でも、アメリカは世界中にたくさんの兵士を送っている。
彼らにとって、ここに葬られている人々は、明日の自分かもしれないとひしひし感じるに違いない。

「海を越えた若者」の像が置かれている

両方の壁には上陸作戦後の侵攻経路が描かれている

戦争が終わった当時、アメリカ人兵士の墓はそれぞれの戦闘のあった場所にばらばらに埋葬されていた。それを1か所に集めて、このようなかたちで埋葬しなおしたのは1956年になってからである。

175エーカーの土地が、永久にアメリカへ譲渡され、この土地はアメリカになった。つまり、ここへ埋葬された9386人のアメリカ兵は、故国に埋葬されたという事になる。

アイゼンハワー将軍はここを訪れ、タイムカプセルを埋めたこれは、2044年の6月に開けられることになっている。上陸作戦の書類や当時の新聞が入れられた。

少しバスにのり、海へ出てみた
ゆるい弓形になった砂浜を丘が見下ろしている

ここへ上陸するのでは、確かに狙い撃ちされる危険が大きいと感じさせる地形である。

市内へ戻り、記念館を訪れる

イギリスに亡命したド・ゴール将軍が、ラジオを通じてフランス国民にメッセージを流す写真

イギリス人墓地また、ドイツ人のための墓地もある。

ここを訪れると、日本はドイツの同盟国であった事をどうしても意識せざるを得ない。居住まいを正して対するべき場所である。
外国を旅していれば、時にそれは必要な事。楽しく気楽に過ごすことだけが「観光」なわけではない。


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