旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ルクソール~ルクソール神殿夜景

2016-12-04 17:06:23 | エジプト

エジプトの遺跡観光は夕方から夜がいちばん美しい。ルクソール東岸のルクソール神殿

 

 駐車場はさらに遠くなっていた入口へ ↓

ライトアップされたスフィンクス参道はカルナック神殿とつなげるようにつくられていた。今はとぎれとぎれだが、こうして見られるように復元されている↓

この位置からふりかえると、神殿の入口で、二本あったオベリスクのうちの一本だけが残されているのがよく分かる↓

右側・なくなった方のオベリスクが、パリのコンコルド広場に建てられているのは、略奪されたのではなく、当時エジプトを支配していたモハメド・アリがフランス、イギリス、アメリカに贈ったから。「オベリスク外交」と呼ばれる。

※パリのコンコルド広場のものは有名で誰もが「ああ、あれね。」と言ってくれそうだが。ロンドンのもの=「クレオパトラの針」は、小さめでテムズ河畔にひっそり立っている。ニューヨークのものは大きいが、セントラルパークの中で探さないと見つからない。

一つ目の中庭に入る↓ と、頭上にネオンが見えてきて、えらく高い位置に空中に浮かんだような入口がある↓

これは13世紀に建築されたアブ・アル・ハッジャージ・モスク。彼がここに埋葬されることを希望したのだそうだ。遺跡を覆っていた土が取り除かれた後も、このモスクだけは移転させることができなかった。だから、かつての入口が空中に取り残されてしまったのでありあります。この下にもきっといろいろ埋まっていることでしょう↓

巨大な列柱は上部の方が劣化している。つまり、そこから上がずっと土の上にあったということ。19世紀の落書きも今ではとても手の届かない場所に見える。像の首も、高いところほど壊されている。

前庭から奥へ進むと巨大な柱が見えてきた。奥にもさらにたくさんの柱が林立している↓写真下ではあやしげな服装の人物がエジプト人相手になにやら説明・話し込んでいる。小耳にはさんだガイドさんは「宗教は今でもとても強いです。彼らがパワースポットと言ってこの遺跡で儀式をはじめると、コワい雰囲気ですよ」とコメント↓

三千年の間、立ちつづけてきた列柱↓

なんと建設当初に五メートルもの基礎を置いていたので、びくともしなかったのだそうな。何事も基礎が大事なんですね。

過ぎてきた方向を振り返ると↓

再び奥へ進む。

至聖所は巨大な柱の囲む中庭から、ぐっと小さくなった、さらに奥にあった。アメンホテプ三世(第18王朝、紀元前14世紀)が、彼の出自の正当性を表すレリーフがおもしろい。彼の父はトトメス四世だが、母ムテムイア(=モテモヤ)は外国人(ミタンニ=今のパレスティナからシリアあたり)であったとされる。いわば妾腹であった彼は、「自分は神の子である」と主張するために、母ムテムイアが、アメン神と愛を交わす場面を刻ませた↓下のレリーフで左のムテムイアの足と右のアメン神の足が交差して描かれ、アメン神がムテムイアの口に生命のカギアンクを入れている↓

アメンホテプ三世は明日見学する予定の場所にもたくさんの像があるが、どうもアフリカ人的な顔立ちをしていたようだ。

「ハーフ」だということにコンプレックスと誇りをもっていたのかもしれない。だから自分の地位の正当性を表すこんなレリーフを刻ませ、ことさら巨大な神殿を築かせ、結果的に四十年近い統治を全うしたのではなかったか。※明日の日記に巨大な像の頭部載せます

アメンホテプ三世の刻んだレリーフの意味は、一千年後にここを訪れたアレクサンダー大王も理解していたのだろう。この至聖所の外壁に、自らをエジプトの王としてカルトゥーシュ(エジプト文字の王の名前)を刻ませていた↓ギリシャ系のアレクサンダー大王が、最後のエジプト王朝=プトレマイオス朝のはじまりとなった↓

同じ参道を戻っていく途中にあるこのカップルの像は、ツタンカーメンとその妃アンケセンアメンとされている。後のラムセスなどが、妃を自分の足元に小さくしかあらわさなかったのに比べると、自分と対等の大きさに刻んでいる↓

***

18時半、ホテルへ帰着して夕食。長い一日になりました。おやすみなさい。

 

 

 

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ルクソール~クルナ村の貴族の墓

2016-12-04 02:38:12 | エジプト

ルクソールはエジプトでいちばん見どころの多い街。今回は比較的時間がある行程なので、通常あまり行く事のない「貴族の墓」も見学する。そこは、墓泥棒の村クルナのあった場所である。

六年前にはまだ村が残っていたが、ほぼ今回は完全になくなって、村の下に隠れていた墓の入口がそこここに口をあけていた↓

●神官ラモーゼの墓、 ウセルハト それにメンナの墓の三つを、午前中に見学。全部で174基が見つかっているそうだが、七百以上あるという説もある。・・・確かにあるかもしれない。

遺跡も面白いが、かつてあった村の遺構が、村があった時代を知る小松には、複雑な心境にさせる。こういった日干し煉瓦の壁とか↓かつて村の路地で、子供たちがわーきゃー遊んでいた場所なのだ。

ぽつんと残されたお土産物屋とか↓

★メムノンの巨像は、以前と変わらなかった。しかし、その背後の葬祭殿の発掘は進んで、掘り出された座像が何体も復元されて姿を現している↓ふたつの巨像の間・奥にみえる座像、六年前は復元されていなかった↓2010年に同じ場所で撮影した写真がこれ⇒我々が十分で写真を撮って通り過ぎてゆく壁の向こうで、十年いやもっと長い時間地道な発掘・復元の作業をしていた人がいるのです。

※上の2010年の写真↑↑と、2016年の写真↑、見比べていてもっとみえてくるものがあった。別のところに書きます。

「メムノン」とは、トロイア戦争でアキレスに殺されるエチオピアの王。彼の母は曙の女神エオス(オーロラと同じ)なので、朝日に照らされたこの像が発する奇妙な音は、メムノンのすすり泣く声だというのである。

その声はAD27年の大地震で像にひびが入ってから聞こえてくるようになった。ローマ皇帝たちはエジプトへやってくると、この巨像の前で宿泊し、その「声」を聴くようにしていたのだそうな。

だが、セプテミウス・セヴェルス帝がよかれと思って修復してからこの声は聞こえなくなってしまったそうな。右の像の上半分がその時の修復の跡。

 実はこの像はアメンホテプ三世の像で、向かって左の像の右足には、彼女の愛した妃ティの姿が彫られている↓

**さて、昼食。今日は近頃ルクソールの名物になったという「イカのタジン鍋」煮込み↓

紅海からはこばれたイカをつかっている。

***午後は再び「貴族の墓」へクルナ村の「残滓」が見えてきた⇒

かつての村の坂をぽつぽつのぼってゆく。有名な観光地ばかりかけまわっていては、こういう雰囲気はあじわえませぬ↓

★★★センネフェルの墓は、これまで見てきたどの貴族の墓でも見たことがない装飾がされていた。

アメンホテプ二世の治世下(第18王朝の紀元前1439-1413)、「南の街の市長」というタイトルで王の信頼が厚かった人物。この階段を下りてゆく⇒ 降りて、さらに下へ。振り返ると そして入った部屋の天井は・・・おお、ここは葡萄棚の下の様ではないか↓

ここは「ワインの墓」と呼ばれている。削りだした天井のでこぼこを利用して、あたかも葡萄の枝がひろがっているような表現だ。センネフェルと言う人は王の葡萄園の管理者でもあったから。色彩は品良く・保存状態もかなり良い↓

あとから資料を読んでいると、ここにはセンネフェル本人は埋葬されなかったのではないか、ということ。棺が置かれた形跡もない。センネフェルは王の特別なはからいで、王家の谷の一角の穴に埋葬された可能性があるのだそうな。

★レクミラの墓 同じく第18王朝でトトメス三世下に働いた高官。  脱穀の図↓

 

 

キリンが登場する↓

短い時間に合計六つもの貴族の墓を見学したが、それぞれに個性がある。それは、そこに埋葬される予定の個人が、それぞれ違う人生を歩んでいた証なのだろう。

**午後三時、ホテルにチェックインして、夕方まで休憩。

夕暮れてゆく頃、ルクソール神殿へむかった~次ページへ続く

 

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