旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

アスワン~ヌビア博物館

2016-12-08 20:42:33 | エジプト

ヌビアとは、エジプト南部から現在のスーダンの地域に住む民族の名前。エジプトというイメージとは違う、アフリカの民族である。エジプトは地中海に面したアラブの国である。そこからはるか南のアスワンは、カイロやルクソールとは違う、アフリカの風を感じる街。


この街の住民たちが「我々の歴史」を誇ることが出来る場所が「ヌビア博物館」。立派なハコ→たくさん地元の子供たちが学習にやってきていた。昼間よりも夜の方が過ごしやすい土地だから。



エジプトの三十一におよぶ王朝は同じ民族が支配者だったわけではない。特に、第25王朝(BC747~656)はこのヌビア人の王がエジプト全土を支配していた。今は再びエジプト人に支配されて、時に虐げられていると感じている彼らにとって、この時代を知る事は、自分たちの歴史に誇りを持つための手段である。


首都ルクソールのカルナック神殿も手前の新しい部分はこの時代に建設されている。


それまでの時代、エジプト人はヌビア人を支配していたが、ここでは立場が逆転している。下はカルナックから見つかった紀元前七世紀のイリケタカナという人物の像。彼はヌビア人の王国クシュから派遣されていた役人と思われている↓



ブラック・アフリカン、ですね↑


下はそれ以前の第18王朝期のものでアスワンのエレファンティーネ島から発見された女性頭部↓この時代に特徴的な髪型だが、あきらかにアフリカ人女性↓



25王朝シャバカ王(在位BC706-690)の頭部↓王族もやはりブラック・アフリカン↓



シャバカの弟タハルカ王(在位BC690-644)↓



シャバカ王の息子の一人ホレマカート↓



**このヌビア人の支配するエジプトは百年ほどで終わり、ヌビア人は南へ撤退する。


紀元前十世紀からあったクシュ国の後継として、BC560年ごろから南でメロエ王国が成立し、それは紀元後四世紀まで存続していた。下の像は紀元前二世紀ごろのメロエ王朝の皇子とその母の像↓布を右肩にたらすメロエの装束をまとい、往時は母・クイーンのエジプト風の冠をささえるポーズをとっている。左足を前に出すのもエジプトの表現が受け継がれている。目と眉はかつて象嵌されていたもよう。手にもなにか儀式用の道具をもっていた穴がある↓



***ヌビア地にあった多くの神殿は、アスワンハイダムの建設によってナセル湖の底に沈んでしまった。助けられたアブシンベル神殿の話は有名だが、水没した多くの神殿について語られることはあまりない。


★下の地図、真ん中に通っている青い線がもともとのナイルの流れ。水色が現在のナセル湖。水色の中に水没してしまった遺跡や村の名前がたくさん記されている↓



そこに、「トシュカ」の名前もあった。え?トシュカ。これは二十年ほど前から当時のムバラク大統領が砂漠の中に建設しはじめた人工都市の名前だ。ルーツはこの古代都市にあったのか。下の写真は、トシュカの遺跡墳墓↓



★ニューヨークのメトロポリタン博物館に移築されたデンドゥル神殿の位置も記されている。この神殿はアスワンの南八十キロナイル川西岸にあった。ローマ時代にアウグストゥス帝が建設させたイシスに捧げられた神殿である。それ以前に地元豪族の兄弟の墓だったという話もある。水没前のようすが模型で展示されていた↓


※ニューヨーク、メトロポリタン美術館でどんなふうに展示されているか⇒こちらに載せました



現場の写真もある↓




***クルーズ船へ戻ると、ヌビアのショーをやっていた。太鼓が三つと簡単な弦楽器が一台。出てくる音はとびきり切れのあるアフリカンビートだった⇒


**明日はいよいよアブシンベルへ


 

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アスワン~切りかけのオベリスク、ファルーカ

2016-12-08 18:51:23 | エジプト

街の乗り合いバスとは、こんなすごい乗り方をしても、料金をとる↓

あ、我々に気づいて手を振ってます(^^)あぶないって(^_^;)↓

**切りかけのオベリスク

ルクソールの神殿にそびえていた四角錐の花崗岩の柱は、このアスワンで切り出されていた↓石切り場には放置された「切りかけのオベリスク」も見つかっている↓

これが放棄されたのは、作業しているときにヒビがみつかったと言われている↓

昔はこのオベリスクの上に登る事もできたのだが、今はもう禁止↑

オベリスクの花崗岩を切りだすのに使われた、より固い赤緑斑岩の槌→

こちらは、切り出された跡↓

***一度クルーズ船にもどり 夕方ファルーカに乗った。エンジンでなくナイルの微風で航行するのはとても気持ち良い↓

川岸には建設中の高いマンション?今度来るときには完成しているかしらん↓こののんびりした雰囲気もどんどんかわっていくのだろう↓

夕暮れて、船をおりる↓

**夜、ヌビア博物館へ行こう

 

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アスワン~フィラエ島イシス神殿

2016-12-08 15:20:49 | エジプト

クルーズ船がアスワンへ到着する前、夜が明けるころにデッキへ出てみた。夜明け前の星は不思議な輝き↓

川岸に日本の援助でつくられた、ポンプがいくつも見える↓

こちらも日本の援助でできた橋、しずかにくぐってゆく↓

一度部屋へ戻って、皆が朝食へ行く頃には、船はアスワンに到着し、西岸に懐かしい砂の丘が見えていた↓中腹にある古い貴族の墓に、どうしても行きたくて、六年前の《手造の旅》で、はじめて訪れた記憶がよみがえった↓

・・・アスワンに上陸 ハイダムを訪れてから、イシス神殿へ向かう。ダムの堰堤→ダムからアスワンの街方向↓

イシス神殿は、1903年のアスワンダム建設によっ半ば水没していた。解体され、となりにあった島へ再建築されているので、船で向かわなくてはならない。桟橋にはアフリカからのお土産品がたくさん↓

オイルの匂いが漂うダム湖をしばらくクルーズすると、二千年前の神殿が見えてきた↓

上陸する。よくもまぁこれだけの神殿を解体して別の場所に組み上げたものだ↓

柱の上部にある愛と美のハトホル女神の顔が刻まれた柱↓表情が神殿に近づくほど笑顔になっているなんと、今回のガイドさんに指摘されたはじめて知った↓最初の顔はちょとふきげんそう↓

あ、笑顔です↓

こういう細部のこだわりがおもしろい。

内部には水没していた時代の水面の後がくっきりと残されている↓

一画にホルスの見事な彫。しかし、真ん中に×じるし?↓

後年、キリスト教時代につけられたシンボルと考えられている。この神殿は、ローマ時代AD660年に閉鎖され、三つの別のキリスト教会が内部構造をりようしてつくられていた。

そのうちのひとつの入口が、もとの神殿では裏口にあたるような場所に残されている↓

入口左右に十字架を深く刻み込んでいる↑↓

古代エジプトで生命の鍵とされたアンクを、ちょうど十字架に彫りかえてある場所も多い↓これは、カイロのコプト博物館でもよく見られた事。つまり、キリスト教の十字架のルーツは、古代エジプト信仰からきているのかもしれない。イタリアでは聞けないはなしだ。ローマカトリックは絶対認めないだろう↓

ナポレオンもこの神殿にやってきたとされる。遠征隊が残したというら落書きが刻まれていると説明されたが、どこだかよくわからない。フランス語も英語も、18・19世紀の年号が見られる。ただ、「ナポレオン」と書かれていても、それがほんとうにナポレオンによって刻まれたとは、限らないのだが↓

遺跡のカフェで売られていたカルカデ(ハイビスカス)のお茶↓

再び小船にのってもどる↓

 

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アスワン~ハイダム

2016-12-08 00:04:44 | エジプト

下の写真、どんな場所だとおもいます?

これは、アスワンハイダムの建設記念碑。ダムは1970年に当時のソ連の援助によって完成した。

このダムが出来た事で、毎年のナイル川氾濫はなくなり、安定して水の供給が可能になり、電力も得られるようになった。良い事ばかりなのだとおもっていた。 が、今年のガイドさんのお話しによると、氾濫が起きなくなってナイル周辺の土壌は生き返らなくなり・疲弊。水も、さらに上流に建設されるというエチオピアのダムが出来ると、ここまで充分な量が流れてくるか、懸念されているそうな。

モニュメントは、このダムがソ連の協力によってつくられたことを、アラビア語とロシア語で刻んでいる。

全景はこのように↓

アスワンハイダムから下流の流れ、アスワンの街を見る↓

上流・ダム湖 ナセル湖方向を見る↓

ダムに沈むところをひきあげられた「カラブシャ神殿」が見える↓

ダムに沈むはずだったのを救われたのは、アブシンベル神殿だけではない。

このダムが「現代のピラミッド」と呼ばれたのは、断面がこんなかたちだったというのも理由だろう。ピラミッドより巨大な建造物ではあるけれど↓

***

下流にあるアスワン・ダムの方は1903年にイギリスによって建設された。その堰堤は今でもこんなに狭い↓

このダム建設で出来た人口湖には、半分水没していたイシス神殿が、あたらしいフィラエ島に移築されている。観光客を運ぶボートと、その右奥に神殿が見える↓

さぁ、これからあの島へ行ってみよう。

 

 

 

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