ヌビアとは、エジプト南部から現在のスーダンの地域に住む民族の名前。エジプトというイメージとは違う、アフリカの民族である。エジプトは地中海に面したアラブの国である。そこからはるか南のアスワンは、カイロやルクソールとは違う、アフリカの風を感じる街。
この街の住民たちが「我々の歴史」を誇ることが出来る場所が「ヌビア博物館」。立派なハコ→たくさん地元の子供たちが学習にやってきていた。昼間よりも夜の方が過ごしやすい土地だから。
エジプトの三十一におよぶ王朝は同じ民族が支配者だったわけではない。特に、第25王朝(BC747~656)はこのヌビア人の王がエジプト全土を支配していた。今は再びエジプト人に支配されて、時に虐げられていると感じている彼らにとって、この時代を知る事は、自分たちの歴史に誇りを持つための手段である。
首都ルクソールのカルナック神殿も手前の新しい部分はこの時代に建設されている。
それまでの時代、エジプト人はヌビア人を支配していたが、ここでは立場が逆転している。下はカルナックから見つかった紀元前七世紀のイリケタカナという人物の像。彼はヌビア人の王国クシュから派遣されていた役人と思われている↓
ブラック・アフリカン、ですね↑
下はそれ以前の第18王朝期のものでアスワンのエレファンティーネ島から発見された女性頭部↓この時代に特徴的な髪型だが、あきらかにアフリカ人女性↓
25王朝シャバカ王(在位BC706-690)の頭部↓王族もやはりブラック・アフリカン↓
シャバカの弟タハルカ王(在位BC690-644)↓
シャバカ王の息子の一人ホレマカート↓
**このヌビア人の支配するエジプトは百年ほどで終わり、ヌビア人は南へ撤退する。
紀元前十世紀からあったクシュ国の後継として、BC560年ごろから南でメロエ王国が成立し、それは紀元後四世紀まで存続していた。下の像は紀元前二世紀ごろのメロエ王朝の皇子とその母の像↓布を右肩にたらすメロエの装束をまとい、往時は母・クイーンのエジプト風の冠をささえるポーズをとっている。左足を前に出すのもエジプトの表現が受け継がれている。目と眉はかつて象嵌されていたもよう。手にもなにか儀式用の道具をもっていた穴がある↓
***ヌビア地にあった多くの神殿は、アスワンハイダムの建設によってナセル湖の底に沈んでしまった。助けられたアブシンベル神殿の話は有名だが、水没した多くの神殿について語られることはあまりない。
★下の地図、真ん中に通っている青い線がもともとのナイルの流れ。水色が現在のナセル湖。水色の中に水没してしまった遺跡や村の名前がたくさん記されている↓
そこに、「トシュカ」の名前もあった。え?トシュカ。これは二十年ほど前から当時のムバラク大統領が砂漠の中に建設しはじめた人工都市の名前だ。ルーツはこの古代都市にあったのか。下の写真は、トシュカの遺跡墳墓↓
★ニューヨークのメトロポリタン博物館に移築されたデンドゥル神殿の位置も記されている。この神殿はアスワンの南八十キロナイル川西岸にあった。ローマ時代にアウグストゥス帝が建設させたイシスに捧げられた神殿である。それ以前に地元豪族の兄弟の墓だったという話もある。水没前のようすが模型で展示されていた↓
※ニューヨーク、メトロポリタン美術館でどんなふうに展示されているか⇒こちらに載せました
現場の写真もある↓
***クルーズ船へ戻ると、ヌビアのショーをやっていた。太鼓が三つと簡単な弦楽器が一台。出てくる音はとびきり切れのあるアフリカンビートだった⇒
**明日はいよいよアブシンベルへ