旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

夜のモントリオール大聖堂のAURA 、午前中は美術館へ

2018-10-06 20:20:20 | カナダ
夜のモントリオールのノートルダム大聖堂前へ

大聖堂内で「音と光のショー」があると知って、これは行くしかないと思ったから。


※こちらから紹介動画をご覧いただけます

ビルの谷間にヨーロッパにあるような大聖堂がそびえている


17世紀に街を創設したメゾヌーヴの像もライトアップ


明日、午前中は美術館へいってみよう
***
宿泊したフェアモントホテルのすぐとなりに位置する
Cathédrale Marie-Reine-du-Monde
「世界の女王聖母マリア教会」↓これはローマのサン・ピエトロ大聖堂のコピーだという↓

あ!ほんとにそっくり↓下はローマのサン・ピエトロ大聖堂↓

イギリスが支配するようになった後は英国国教会やプロテスタントも多く移り住むようになったが、最初に街を建設したフランス人には圧倒的にカトリックが多い。
この場所にあったサン・ジャック・カテドラルが1862年に起きた大火災で(周辺千二百の建物共に)焼失した後、1894年にこの建物が完成。1955年にローマ法皇ピウス12世によって現在の名前になった。

ローマのサン・ピエトロ大聖堂とそっくりなのは入口だけではない。内部の中央説教壇も↓

↓こちらモントリオールのもの

↓下がローマの、ベルニーニ製作のもの↓


教会のミサをちらっと見学してから、モントリオール美術館へ向かう。
公園にはリスがたくさんとびはねている


よく慣れていて、「なんかちょうだい」とポーズする子も


****
モントリオール美術館はカナダで最も早い1879年に開館した↓
現在の入り口になっている建物がこれ↓

だが、実は地下でつながった三つの建物すべてが美術館として使われている
↓下の写真で右手前にある教会のような建物も美術館の一部↓

実際に教会だったのだが2000年から美術館の一部となった。
この建物は外観がカナダの歴史的建造物に指定されていて、内部は完全に美術館に改装され、主にカナダの歴史的な記憶を主題にした展示を行っている↓今日、特にお見せしておきたかったのはカナダという国家が成立する以前から先住していたイヌイット独特の造形↓

これらは百年ほど前のモノだが、彼らがヨーロッパ人が持ち込む以前から独自の美的センスを持ち続けてきたのが感じられる。


カナダの歴史に関連する展示物の入り口に掲げられていた「王のビーバー」という2011年の絵が、今回いちばんぐさっとくる絵だった。ああ、かわいそう…※こちらにのせました

この美術館の展示は幅広い。こんなのも現代アート↓

美術館の外にもこんな↓

上からみると↓ここ、平面なんです


定番の19世紀ヨーロッパ絵画や彫刻も↓ロダンの彫刻などが置かれて部屋はまるで森の中のようなライティングがされていた↓
風が吹いているようにさざめいている↓

↓スイスの国民的画家ホドラーの作品も


一見の価値がある美術館です





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モントリオールへ、旧市街を歩く

2018-10-06 12:12:11 | カナダ

モントリオールが近づくにつれて空は雲に覆われてきた。
幅の広いセント・ローレンス川は複雑な地形を出現させている↓


時計を一時間戻して、午前11時過ぎにモントリオールの空港に着陸。
タクシーでフェアモントホテルに向かう。
市内は大規模な工事をしているので土曜日だが混んでいる。

工事はまだ十年ぐらいは続きそうな規模の街の大改造だ。

**
荷物だけホテルに預けて、午後のモントリオール観光へ出発。
まずは旧市街の中心ノートルダム大聖堂へ

↑前に立つ像は1642年に町をひらいたメゾヌーヴ↑
最初の教会は1672年にはここにあったが、現在の姿になったのは1843年
向かって左の塔は1843年完成で「La Tempérance=節制」の塔。三十個の鐘が入っているそうな。
向かって右の塔は1841年完成で「La Persévérance=忍耐」の塔。ジャン・バプティスタ(洗礼者ヨハネ)と名付けられた巨大な鐘がひとつだけ入っている。
移民たちに節制と忍耐を思い起こさせるために日々鳴っていたということか。

内部はネオゴシック↓
釘を使わない木造なのだとガイドさん
天井にもステンドグラス


これまでも何度か入った事はあるが、「カエデの聖母」と老眼鏡をかけた聖母マリアがあることをはじめておしえてもらった。


案内する人によっても、その日の時間や混み具合によっても、解説は異なるものなのであります。
※2014年のモントリオール半日観光の日記をこちらからお読みいただけます

大聖堂のステンドグラスにはモントリオールの街が出来たころの話も描かれている
●十字架を担ぐメゾヌーヴ↓

1642年冬、ヴィル・マリー(聖母マリアの街)と呼ばれていた入植の小さな集落が洪水で流されなかったことに感謝して、翌年1月、極寒の中を入植リーダーのメゾヌーヴが自ら木製の十字架を担いで、この町でいちばん高い山に立てたとされる。
この出来事を記念して、高さ30メートルの大十字架が設置されたのは1924年↓バスからちょっとだけ見えました↓

この山が「モン・レアル=王の山」⇒モントリオールである。
今年はこの出来事から三百と七十五年。
同じく極寒の一月に再現の行事が行われた
★こちら現地の新聞サイトから動画が見られます



街をつくるのは男だけではできない。
メゾヌーヴと共にやってきたジャンヌ・マンスがメゾヌーヴ像の四隅のひとつに坐している↓

彼女はルイ13世妃アンヌドートリッシュから直接援助をうけるほどの貴族の出身。
フランスに居る時34歳の時に巡礼の地天啓をうけ、新世界へいく事にした。
学校をひらき、フランス人だけでなく先住民の子供たちも受け入れた。
1641年にはフランスに戻り(三か月の船旅である)、資金援助を募った。
さらに1650年には二度目の帰国をし、今度は三人のシスターを連れて新世界にもどった。
この三人がジャンヌの意志を継いでいったのだ。

フランス人が拓いた入植地だったが、1760年にはイギリスに占領されてしまった。
イギリス系入植者とは19世紀にいたるまでサン・ローラン通りをはさんで分かれて住んでいたのだそうだ。

イギリス系にはイングランド系(バラ)、アイルランド系(クローバー)、スコットランド系(アザミ)の三つがある。
これらとフランスの百合を組み合わせてモントリオールの紋章にしている↓

この市章の真ん中に、2017年から黄色い松が加わった↑
先住民たちをあらわしている。
メゾヌーヴの足元にもイロコイ族が描かれている↓


少し歩いてモントリオール市庁舎への道↓

この坂道の広場で、あの「シルク・ド・ソレイユ」を興した火吹き男のギーが大道芸をしていた
※こちらにもうすこし書きました


建物はフランスのトゥール市庁舎をモデルにしている↓これがトゥール市庁舎。なるほど、似ていますね↓

↓こちらはモントリオール市庁舎

1967年 このテラスからフランスのド・ゴール大統領がケベックの人々に呼びかけた
「自由ケベック万歳!」
本国フランスから見捨てられたケベックの人々の独立運動の火に油をそそぶような演説だったのである。











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