旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

おいしいマヤ料理を食べてからメリダへ

2018-11-26 20:20:20 | メキシコ
ドライバーのエミリオさんお勧めの店につれていってもらった
もう午後三時。朝から二つの遺跡をしっかり見学したか遅いランチをゆっくり楽しもう
これ、おいしいです↓

コチニータ・ピビルというのはマヤの時代からの料理。豚肉を味つけしてバナナの皮で包み、蒸し焼きにしたもの↓
ほろほろとほぐれた豚肉が独特の味とからまっている↓

それを、玉ねぎ、モーレソース、アボカド、お米とともにタコスにのせて(^.^)
タコスは柔らかい皮だけ↓

地面に埋めて地熱で蒸すというとニュージーランドのハンギ料理を思い出す。ちょっと似ているかも。
↓こちらはユカタン風チキン↓マリネしたチキン


スープは二種類
↓ライム

チャヤ※これについてはこちらに載せました


ビールは地元のモンテホ印↓※フランシスコ・モンテホは16世紀にマヤを征服しメリダ市をひらいた人物

カクテル風に、辛くして飲むんですと↓



***
宿泊するメリダへ向かう。またジャングルの中の一本道。

空に虹が見えたと思ったら

大粒の雨がフロントグラスをたたきだした

メリダが近づくころにはさっと止んで夕焼け↓


●メリダ

この町にゆかりの日本人が銅像になっているので最初に訪れることにした↓

↓野口英世は1919年からの三か月ほど、この病院で研究をした。

↑この像は1960年に玉川学園創設者小原國芳の尽力によって贈られた。百年前にここまでやってきた野口英世はもちろん敬意を表すべき人だが、それをこのように顕彰する像が実現した経緯も知ってほしい。
※こちら内閣府のホームページに詳しい経緯が書かれています。見やすい写真も掲載されています。
**
メリダ中心部の広場↓この町はメキシコでいちばん治安が良い快適な街だと言った人がいた。まったく予備知識がなかったが、実際に夜の広場や大通りを歩いて穏やかな空気に触れた気がした。

広場に面して市庁舎↓

中庭

広場を囲う建物の下、アーケードを歩くことができる↓

1598年からのカテドラルもそびえている↓

街を建設したモンテホ総督二代の像がある1549年の建物↓彼らが住んだ家が博物館になっている

***
今晩宿泊するホテルはモンテホ大通りにある。
パリのシャンゼリゼ大通りをモデルにして百年ほど前につくられたという通り。
この町は二十世紀前半の方が華やかな時代だったのではないかしらん。

広い歩道を歩いて、老舗アイスクリームショップまで散歩に出た。

なるほど、人気のお店なんだ

種類は豊富↓シャーベットワンカップが40ペソ=160円ほど

なににしましょ?
タマリンド味、トウモロコシ味、バター味、グアナバナ味(サワーソップ=ライチの大きいみたなの…)、オオバコ味、ところ変われば味変わる…

↓冒険しないレモンにしました…




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ウシュマル遺跡

2018-11-26 12:12:12 | メキシコ

カバー遺跡と参道でつながった兄弟都市ウシュマルには「魔法使いのピラミッド」がある↓

高さは38メートル程↓

「メキシコのピラミッド群のなかでいちばんうつくしい」という評判。たしかに(^.^)

上部に開けられた穴から、こんな↓像がみつかったそうな↓


角を丸くした個性的なデザイン↓


遺跡エリア入口からすぐのこのピラミッドに出会う。そこから左手に行くと「総督の館」が見えてくる↓

広場の向かい側にある檀上に、施政者が坐したと言われる「ジャガーの椅子」が置かれていた↓


●「総督の舘」とガイドブックにも書かれているが、建物の名称は19世紀の探検家たちが便宜上つけたもの。
実際に建築した人々がどう呼んでいたかはわからない。どのように使われていたのかもわかっていない。

↓人物との対比でかなりな大きさだと分かっていただけるだろう↓

↓文様で埋められているプーク様式↓

テラスから「魔法使いのピラミッド」方向↓





「総督の舘」の裏に出ると、左手に「大ピラミッド」がそびえている↓
↓ここには登ることができる↓

頂上のテラスからの眺め↓

↑「魔法使いのピラミッド」の左にある大きな建物が、あとから訪れる「尼僧院」↑


↑登りきって「ロッキー」みたいに喜ぶ欧米人も↑
↓降りる方が慎重に


●球戯場↓

↓この石の枠にボールを通す競技だったようだ↓


●「尼僧院」↓

入口を入ると、中世ヨーロッパの僧院のように中庭を四角く囲った建物↓

↓この場所に出た時、予習で読んだ19世紀後半にやってきたフランス人の言葉を思い出した↓

少し引用してみる※創元社 知の再発見双書07「マヤ文明~失われた都市を求めて」より
「私は尼僧院に身を落ち着け、南部に張り出した部分の部屋を寝室にしていた。(中略)三日目の事、4時ごろ豪雨をともなうすごい嵐があった。夜が訪れハンモックの上で丸くなった。いつもならすぐに安らかな眠りにつくところだ。突然すさまじい苦痛に襲われ目が覚めてしまった。部屋中に羽音が響き渡り、あたりかまわず手を伸ばすと大きなゴキブリぐらいの冷たくて平たい虫がたくさんいるのがわかった。急いでロウソクに火をつけた。次の瞬間(中略)ハンモックには少なくとも二百匹の気持ちの悪い虫がからまっていた。ほとんどが私から吸い取った血でまるまる太っていた。」
↓この文章を書いたフランス人デジレ・シャルネは写真家で1865年ごろにこの場所を撮影している↓いやはや、こんな経験をしながらの撮影だったのだ。

彼は二十代にニューオリンズでフランス人コミュニティのためのフランス語教師をしていたが、この時はマクシミリアン皇帝と共にフランスからやってきていた。メキシコは政治的な動乱時期にあったが、彼はマヤの遺跡に心を奪われて密林を探検していた。
**

「尼僧院」を出るところでフランス人の一団といっしょになった

共に外国旅行中に外国人に出会ってもの珍しい。通じない言葉でやりとりしているうちにみんなで写真を撮ることになりました(^.^)↓




この遺跡は1937-8年に修復されたと表示されていた


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メキシコシティからユカタン半島到着~カバー遺跡へ

2018-11-26 10:10:10 | メキシコ

カバーは密林の中の遺跡だった

4㎢の面積に一万人が暮らしていた場所だという。
紀元後700年から1000年ごろをピークとし、その後はチチェン・イッツァの勢力下に入ったと推察されている。
※後半にもっと写真を載せます
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メキシコシティを飛び立つと広大な計画都市だというのがよくわかった↓

かつて湖だったという名残も、そう思ってみれば見える↓

ユカタン半島のメリダまで二時間弱のフライト↓

メキシコ国内には時差がないと思っていたが、ユカタン半島は年中サマータイムを実施しているので実質一時間の時差がある。

↓ユカタンの海岸線が見えてきた

メキシコシティ周辺の高地とちがって熱帯の森がひろがっている

空港の近くになり住宅街になってきた


飛行機を降りると、メキシコシティと五度以上は違う、そして湿度もある。
空港から南に位置するカバー、ウシュマル両遺跡に向かう道は

すぐにジャングルの中の一本道になった↓


カバー遺跡の周辺には店もなにもない。チケット売り場からいきなり石造りの階段がみえた



すぐよこにはマヤの人々が昔から住んでいる茅葺の住宅↓


向かい側に遺跡↓

神殿の前にはマヤの人々が神聖なものとかんがえた「セイバの木」が植えられている↓若木には棘がたくさんある

ふとみると・・・びっくりするほど大きなトカゲ!

だいじょうぶ、おとなしい(^.^)

急な階段をのぼり↓

テラスまで到着

彫刻でうめつくされたファサードが目の前にあらわれた



幾何学模様のように見えるが、巨大な顔の集まりだ↓丸い目とギザギザの歯。極彩色だった時にはもっと迫力があったにちがいない。

雨の神CHAAK(チャックともチャークとも発音されているようだ)
本来はぜんぶに象のような鼻があった↓一部だけに残っている↓

この鼻が雨を乞うていたのか。
ユカタン半島では水はとても貴重だったようで、雨水を溜める大規模な地下貯水槽も残されている↓

↓こんな仕組みになっているのだそうだ↓


「カバー」というのは現地の言葉で「強い手」という意味なのだそうだ。
その名前のもとになった石像が上部に残されている↓

↓確かに丸いおもしろいかたちをしている手↓

王の像だと言われている↓

↓顔には刺青↓

↑威厳ある表情に彫られている。刺青を含めた装飾は実際にこんなだったと思ってよいのではないだろうか。



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