旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

サン・ミゲル・デ・アジェンデ

2018-11-22 17:17:17 | メキシコ
メキシコ時間(午後二時過ぎ)でランチ。オリジナルの絵画がたくさん飾ってある雰囲気の良いレストランへつれていっていただいた。

アボカドもりもりたべられちゃいます。

トルティーヤはどれもトウモロコシをつかった粉だが調理方はいろいろ。パイ生地状にするとまたちがった味わいだった↓

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区画整理された旧市街へ。この町は1542年にフランチェスコ会修道士がひらいたのだが、当時からこんな碁盤の目状になっていたのかしらん。

いろとりどりだが一見個性のないショップばかり?

いえいえ、入ってみると意外に広いアーケードになっていたりしてあきさせない



「日本人に人気です」と紹介されたオリジナルの陶器をつくる店






景観をまもるためにスターバックスもこんな↓


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この町の象徴はひときわ目立つゴシックの尖塔

○「パロキア」と呼ばれる↓

16世紀最初の教会は司教フランシスコ・グティエレスの時代につくられた。

その後何度か改修されていったが、現在みられるゴシックスタイルの尖塔は1880年に完成。
セフェリーノ・グティエレスというメキシコ人の建築家による。彼はヨーロッパへ行ったことがなかったが、ドイツのケルン大聖堂の写真を見てこの塔をデザインしたのだそうだ。なるほど。


内部にはいろいろな時代の壁画がある。ちょっとヘタウマな、画家が自分自身を描きこんだように見える絵も↓


★1542年に街を拓いたフランチェスコ会の修道士フライ・ファン・デ・ミゲル像↓
当時の街の名前は彼にちなんでサン・ミゲル・エル・グランデであった↓


教会に向かってすぐ右手の角に、こんどはアジェンデ司令官の像がはまっている↓彼は1810年メキシコ独立戦争の口火を切った一人である。彼がここで生まれたので、街の名前の後半はで変更された↓


***
ちょっとだけ自由時間。広場をはさんで「パロキア」の向かいにある市庁舎に入った↓

ここには先ほどのアジェンデ司令官とイダルゴ神父の像があるときいていたから。↓ネット事典ウィキに載せられていた写真がこれ↓

左がイグナシオ・アジェンデ、右がミゲル・イダルゴ↑1810年にメキシコ独立戦争の口火を切ったグアナファトで、アロンディガを陥落させた二人。
市庁舎に常にあるべき姿…とおもったのだが…

あれ…お二人いずこへ…?
「文化センターに移動されました」と市
庁舎の受付さんがおしえてくれた。
残念。

市庁舎から出ると、楽団の音が聞こえる。
歩いていくと、メキシコらしい?楽団と人形が踊っていた
※動画ごらんください




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グアナファトの旧市街を歩く

2018-11-22 13:13:13 | メキシコ
ピピラの丘から見晴らすカラフルなグアナファト↓

十人ほどしか乗れないケーブルカーで行き来するのが便利

※ケーブルカーからの眺めをこちらに載せました

ケーブルカーは旧市街の劇場裏から出ている↓

○ファーレス劇場↓

↑1873年建設スタートし1893年に一度建設ストップ。
「簡素でよい」ということになり建物後ろ側の装飾は省略されて1903年に完成。
1903年10月27日大統領ポルフリオ・ディアスの臨席の「アイーダ」でこけら落とし。
↓となりの教会付属の建物があった場所


○ラ・ウニオン公園のフランス庭園風刈込↓

○ポサーダ・サンタフェはファーレス劇場がオープンした当時からあった↓

歴史あるロビーをちょっとのぞかせてもらお↓

グアナファトへやってきたスペイン人たちを想像して描いた絵がロビーに↓


○グアナファトの聖母大聖堂は、鉱山を所有する個人の財力によって建設された↓

1671年に建設がはじまり1696年に聖別され教会として使われ始めた。
この建物だけでも三百数十年の歴史がある。
以前この場所には聖女フスタにささげられた教会があった。そこには「聖女フスタの血の粉」が第二代バレンシアナ候によってローマからもたらされたとされている。
↓現在の内部

フェリペ二世から贈られた聖母マリア像がある。

○グアナファト大学↓


○ディエゴ・リベラの生家↓

となりの三軒をつないで赤く統一して博物館になっている↓

ディエゴ・リベラはフリーダ・カーロのパートナーと言った方が分かるかも↓

「美女と野獣カップル」と噂されていた。リベラの等身大像がちかくに立っていた↓


★グアナファトの街には地下道が縦横に走っている↓

もともとこの道は人工的につくられた水路だった↓

川が流れる狭いグアナファトの谷は、大雨が降ると水害になやまされてきた。
それを緩和させるため、18世紀に大規模な排水路を建設した。
20世紀になり、新たな排水路が建設されて不要になった旧水路を車の通り道として整備したのがこれらの水路。


こんな変わった通路をもっている町を他に知らない。


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グアナファトはメキシコ独立戦争のはじまり~アロンディガ

2018-11-22 12:12:12 | メキシコ
カラフルな旧市街の路地を歩いていくと

突然巨大で頑丈な高い建物が姿をあらわした↓

「アロンディガ=Alhóndiga」と呼ばれる、穀物倉庫として建てられた建物↓だが、メキシコ独立戦争の最初の勝利の場所として記憶されている↓


1810年、ヨーロッパ情勢の変化をうけてメキシコの人々がスペインからの独立をもとめて蜂起した。
鉱山の街として栄えていたグアナファトの支配階級=スペイン人たちは、
街でいちばん頑丈な建てられたばかりのここに、家族共々たてこもった。

まともな装備をもたない反乱軍は屋上から撃ってくる正規兵に歯が立たない。
攻めあぐねていた時に、ピピラとあだなされる原住民鉱夫が突破のアイデアをもってきた。
それが↓これ

★こちらに詳しく書きました


ピピラによって焼かれ、突破された扉があった入り口は「ピピラ門」と刻まれている↓

中庭に向けてバルコニー回廊が開けた二階建てになっている↓

支配者スペイン人とその家族は女子供も容赦なく、ここで殺された。

中庭から登る階段いっぱいに迫力ある壁画が描かれている↓

↑正面で犠牲者を抱えている白髪の人物がミゲル・イダルゴ↓メキシコ独立戦争の父と称される神父↓

メキシコ生まれのスペイン人(=クリオーリョCriollo、英語でならクレオール)だが、搾取される原住民の惨状を見かねて立ちあがった人物。
↓当時はアフリカからの奴隷も連れてこられていたが死に絶え、今グアナファトに黒人はいない↓

↓鉱山労働をさせられる原住民↓木の階段とは丸太に足場を刻んだだけのものだったのか↓

労働時間や危険もなにも考慮されず使い捨て労働力にされていた植民地の人々が立ちあがり、はじめて得た戦いの勝利がこの場所だった。

↓襲いかかる人々はどちらも正義ではなく悪鬼のように描かれている

↓逃げ惑うスペイン人たち

白いトンガリ頭巾をつけて異端審問をするスペイン人↓

息をのむような迫力で迫ってくる。
チャベス・モラードがこれを描いたのは1955年から1967年。いわゆる「メキシコ壁画運動」という時代ではないけれど、言葉でなく壁画で表現する意味を体感させてくれる。現地の言葉が分からないわれわれ外国人にとっても有効だ。

1810年、反乱軍はこの戦闘では勝利したが、戦争はすぐに頓挫した。
翌年にはスペイン本国からの討伐隊によって追い詰められ、ミゲル・イダルゴをはじめ首謀者は皆処刑された。

その首は切り取られ、グアナファトに戻された。それを描いた壁画↓

鉄の籠に入れられた首は、それぞれ建物の四隅に吊るされていた↓
その場所に、それぞれの名前が刻まれている↓

↑上の角には「JIMENEZ」の名前が刻まれている。
イダルゴに従った鉱山技師ホセ・マリアーノ・ヒメーネスは同じく処刑され、その首がここにさらされていた。

***
現在では歴史博物館となっている。二階回廊に面した部屋に時代毎の展示がされている

・先住民の香炉↓

・鉱山で栄えていた時代のグアナファト地図↓

・ピピラがアロンディガの扉を破るシーンがメキシコの旧札に描かれていた↓

・革命の父ミゲル・イダルゴの肖像↓

・1867年ハプスブルグ家のマクシミリアン皇帝が銃殺された光景↓

・第二帝政マクシミリアンの後に指導者になったベニート・ファレスを訪れたフランス軍↓

↑共和国メキシコは彼によって現在に導かれている
・ベニート・ファレスは現在のお札に描かれている↓



中庭に出る「自由の鐘」が置かれていた↓
ミゲル・イダルゴがドローレス村ではじめて独立を語った「ドローレスの叫び」の時に打ち鳴らされた鐘を指す。これはレプリカだが、メキシコ全土にレプリカがある。本物はメキシコシティの広場に面して飾られている↓

アメリカ合衆国の「自由の鐘」のようなものが、メキシコにもあったのか。
数日後に本物を見るのが楽しみになった。


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鉱山の街グアナファト

2018-11-22 11:11:11 | メキシコ
ホテルの窓からカラフルな家々に朝日があたっているのが見えた↓

ホテルの周りを少しだけ歩いてみる↓外側から見る宿泊したホテル。
中庭のある修道院をイメージしてつくられていた↓

↑入り口右側の丸い塔だけが、歴史的な建造物
↓そのまま壁に沿って少し歩いてみる↓

↓ホテルのすぐ前の教会↓



ホテルの入り口から古い方の建物にあるBARはPOZO(井戸)と言う名前↓

昨夜入ってみると降りていける古い水源。今も豊かに水がわきだしていた↓

「ここは鉱山の事務所でした」とガイドのセザールさん。
「こういった場所はたくさんあって、ホテルの裏の方には別のがあります」
↓バスで走り出すとそのお城のような建物の前を通った↓

「お城みたいに改装したけど、ここはほんとに昔の建物を部屋にしてるんです」とのこと。ちょっと怖いなぁ。

かつて、グアナファト郊外には十指に余る鉱山が稼働していた。
ロータリーにある鉱夫の像↓

けっこう現代的な服装だと思ったら、20世紀になっても開発は続けられ、今でもその一つは現役なのだそうだ。

十分ほどで小さな村の大きな教会の前で降りる↓
これから訪れる「ラ・ヴァレンシアーナ」という鉱山は、ヴァレンシアーナ候によって16世紀に採掘がはじまった。
1760年にあらたな坑道を広げ、一時は世界の銀の三分の二を産出したのだと説明された。

急な坂を少しだけ降りると入り口↓チケットを買って入る

カラフルな観光客用のヘルメットを各自えらぶ↓

中庭に面して小さな解説の部屋↓そこにあった鉱山断面図がおもしろい↓

↓赤い縦の線が地上からまっすぐに伸びる搬出穴↓

グアナファト周辺に何十本もあるのが分かる。そして、全部地下でつながっている↑
現在でもひとつだけ稼働していると解説されたが、つまりこの鉱脈は今も生きている。

坑道入り口に1760年と刻まれている↓

↓この穴を降りてゆく↓

階段はごつごつして急で歩きにくい↓

だが、かつてはこんな階段さえなかったそうだ。
「木製の階段でした」と解説されたがどんなものだかその時にはわからなかった。
※後で訪れた「アルフォンディア」の壁画で知ることになる

不意に半裸の鉱夫が石を背負っているのに出会う↓

↑写真右の黄色いベストを着たガイドさんは、かつては本当に鉱夫だった
↓スペイン人たちは原住民たちを奴隷のように働かせた↓

★この姿を見て、ピピラを思い出した
※こちらに彼についての話を書きました


我々が降りていけるのは二十メートルほどでしかない↓これが我々のどん詰まり↓

だが、坑道は五百メートル以上の深さに達していて、もぐりこむような狭さなのだそうだ↑写真左下に小さく開いた穴がそれ
1760年から1810年に採掘が止まるまで(メキシコ独立戦争がはじまった年)に、三百人以上が命をおとしたのだときかされた。
*****
地上に出ると、濃い青空が目に染みた

鉱山主によって献堂された教会を訪れよう↓

金で装飾された豪華な祭壇が三つもあった↓

当時の鉱夫たちはここで祈ることぐらいは許されていたのだろうか。

村の細い道。我々の乗るマイクロバスがもどってくるのをしばし待つ

ここから見渡せる丘にはいくつも鉱山の跡とわかる建物が見える↓

******
↓あとから訪れたピピラの丘からの眺め↓注意深く見ると鉱山の跡がいくつも見える↓

我々が訪れたラ・ヴァレンシアーナも見えるが、別のよりわかりやすい鉱山跡がこれ↓

↑写真右に見える黒い壁は、模型でみたものとそっくり。斜面に作業場をつくるために盛り土をして壁で囲った跡なのだろう。

グアナファトは確かに銀鉱山の街である。









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