メキシコ時間(午後二時過ぎ)でランチ。オリジナルの絵画がたくさん飾ってある雰囲気の良いレストランへつれていっていただいた。
アボカドもりもりたべられちゃいます。
トルティーヤはどれもトウモロコシをつかった粉だが調理方はいろいろ。パイ生地状にするとまたちがった味わいだった↓
**
区画整理された旧市街へ。この町は1542年にフランチェスコ会修道士がひらいたのだが、当時からこんな碁盤の目状になっていたのかしらん。
いろとりどりだが一見個性のないショップばかり?
いえいえ、入ってみると意外に広いアーケードになっていたりしてあきさせない
「日本人に人気です」と紹介されたオリジナルの陶器をつくる店
景観をまもるためにスターバックスもこんな↓
**
この町の象徴はひときわ目立つゴシックの尖塔
○「パロキア」と呼ばれる↓
16世紀最初の教会は司教フランシスコ・グティエレスの時代につくられた。
その後何度か改修されていったが、現在みられるゴシックスタイルの尖塔は1880年に完成。
セフェリーノ・グティエレスというメキシコ人の建築家による。彼はヨーロッパへ行ったことがなかったが、ドイツのケルン大聖堂の写真を見てこの塔をデザインしたのだそうだ。なるほど。
内部にはいろいろな時代の壁画がある。ちょっとヘタウマな、画家が自分自身を描きこんだように見える絵も↓
★1542年に街を拓いたフランチェスコ会の修道士フライ・ファン・デ・ミゲル像↓
当時の街の名前は彼にちなんでサン・ミゲル・エル・グランデであった↓
教会に向かってすぐ右手の角に、こんどはアジェンデ司令官の像がはまっている↓彼は1810年メキシコ独立戦争の口火を切った一人である。彼がここで生まれたので、街の名前の後半はで変更された↓
***
ちょっとだけ自由時間。広場をはさんで「パロキア」の向かいにある市庁舎に入った↓
ここには先ほどのアジェンデ司令官とイダルゴ神父の像があるときいていたから。↓ネット事典ウィキに載せられていた写真がこれ↓
左がイグナシオ・アジェンデ、右がミゲル・イダルゴ↑1810年にメキシコ独立戦争の口火を切ったグアナファトで、アロンディガを陥落させた二人。
市庁舎に常にあるべき姿…とおもったのだが…
あれ…お二人いずこへ…?
「文化センターに移動されました」と市
庁舎の受付さんがおしえてくれた。
残念。
市庁舎から出ると、楽団の音が聞こえる。
歩いていくと、メキシコらしい?楽団と人形が踊っていた
※動画ごらんください
アボカドもりもりたべられちゃいます。
トルティーヤはどれもトウモロコシをつかった粉だが調理方はいろいろ。パイ生地状にするとまたちがった味わいだった↓
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区画整理された旧市街へ。この町は1542年にフランチェスコ会修道士がひらいたのだが、当時からこんな碁盤の目状になっていたのかしらん。
いろとりどりだが一見個性のないショップばかり?
いえいえ、入ってみると意外に広いアーケードになっていたりしてあきさせない
「日本人に人気です」と紹介されたオリジナルの陶器をつくる店
景観をまもるためにスターバックスもこんな↓
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この町の象徴はひときわ目立つゴシックの尖塔
○「パロキア」と呼ばれる↓
16世紀最初の教会は司教フランシスコ・グティエレスの時代につくられた。
その後何度か改修されていったが、現在みられるゴシックスタイルの尖塔は1880年に完成。
セフェリーノ・グティエレスというメキシコ人の建築家による。彼はヨーロッパへ行ったことがなかったが、ドイツのケルン大聖堂の写真を見てこの塔をデザインしたのだそうだ。なるほど。
内部にはいろいろな時代の壁画がある。ちょっとヘタウマな、画家が自分自身を描きこんだように見える絵も↓
★1542年に街を拓いたフランチェスコ会の修道士フライ・ファン・デ・ミゲル像↓
当時の街の名前は彼にちなんでサン・ミゲル・エル・グランデであった↓
教会に向かってすぐ右手の角に、こんどはアジェンデ司令官の像がはまっている↓彼は1810年メキシコ独立戦争の口火を切った一人である。彼がここで生まれたので、街の名前の後半はで変更された↓
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ちょっとだけ自由時間。広場をはさんで「パロキア」の向かいにある市庁舎に入った↓
ここには先ほどのアジェンデ司令官とイダルゴ神父の像があるときいていたから。↓ネット事典ウィキに載せられていた写真がこれ↓
左がイグナシオ・アジェンデ、右がミゲル・イダルゴ↑1810年にメキシコ独立戦争の口火を切ったグアナファトで、アロンディガを陥落させた二人。
市庁舎に常にあるべき姿…とおもったのだが…
あれ…お二人いずこへ…?
「文化センターに移動されました」と市
庁舎の受付さんがおしえてくれた。
残念。
市庁舎から出ると、楽団の音が聞こえる。
歩いていくと、メキシコらしい?楽団と人形が踊っていた
※動画ごらんください