旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

メキシコシティ テンプロ・マヨール博物館

2018-11-25 18:18:41 | メキシコ
2006年、メキシコシティ中心の発掘現場から4×3.6mの巨大な神像が発見された↓

↑その場所につくられた博物館では上階の吹き抜けから見下ろすことができるように展示されている↑
↓重さ12トン。上に建てられていたスペイン時代の建物の重さで四つに割れていた↓


Tlaltecuhtli(「トラルテクトリ」とカタカナ表記します)はアステカ神話で大地をつくる時にその材料にされるため身体を引き裂かれた神だとされている。
なので、口からは血を流し、大地の恵みのために生贄の血を求める↓

口から流れる血は、火山から流れ出す溶岩からイメージされているのかもしれない。
↓右足の間に描かれたウサギ四匹はアステカの暦をあらわし、それによって西暦の1502年に置かれたものだとわかった。

すぐちかくからは一万二千点以上の奉納物が発見された。

↓メキシコシティのど真ん中で1978年に発見された大神殿跡の発掘場所の俯瞰模型↓
↓左のメトロポリタン大聖堂のすぐちかく。右上に建物を壊してぽっかり空いた場所が発掘現場=この博物館↓

(パリでもニューヨークでもロンドンでもなく)発掘場所に建設された博物館で発掘物が見られるのは幸いである。

人類学博物館はメキシコ全土から二千年以上にわたる発掘物を展示している俯瞰的な展示だが、ここはスペイン人によって滅ぼされたアステカの古都テノチティトランがどういう場所だったのかをクローズアップしてリアルに感じさせてくれる場所。ともに優秀な博物館だ。

歴史になにも興味がない人でも、造形的にぱっと一目で惹きつけられる展示物が満載↓
石器の展示からしてこれ↓おもしろすぎます


神官の服装を表したとおぼしき鳥の扮装をしたテラコッタ像↓

↓巨大な鷲神殿の石像↓これは写実的でヨーロッパでも見られそうな雰囲気だが

↓こちらの石のマスク ギリシャ・ローマといったヨーロッパとはまったくちがう印象を与える


↓この不思議なカタチはアステカの貴族・司祭階級にむけての学校にあたる建物のシンボルで、屋根の上にこれが並んでいたとされている↓


↓雨の神トラロックのポット↓「そのまま」のような色彩

アタマの部分に蛇が向い合せに彫られている
後面からみると確かにポット↓中からは真珠貝の殻と水を表す緑色の石が見つかった

ステージⅣ(1440-1469)頃の↓このような神殿だったと考えられている↓


蛇は台地や豊穣を司るのでよくでてくる


↓死の神 ミクトランテクトリ像↓

↓死の神の等身大テラコッタ像↓

死後に肉体が腐敗して骸骨になっていく過程のようすからこんな神を考え出してしまうなんて。
現代メキシコが「死者の日」を盛大な祭で祝うルーツは先住民の生死感からきているのだと感じる。

***
★テノチティトランの農業を再現した展示
↓湖の上に人工の島を築き、巨大なプランテーションを共同で行っていたと推察されている↓

スペイン人がこれを見て「ヴェネチアのようだ」と思ったのももっともだ。
島の端には根を張る樹木を植えて補強してある↓


この博物館、発掘調査がすすむにつれてまだまだ進化していきそうです(^.^)




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メキシコシティのど真ん中に出現した遺跡

2018-11-25 17:17:17 | メキシコ

1978年、メトロポリタン大聖堂のすぐ横で、工事中に大規模なアステカ時代の遺構が発見された↓

遺構はスペイン統治初期の貴重な建物のの下まで続いていたが、結局建物を破壊して発掘が進められた↓
↓下の写真で建物が途切れているところがそれである↓

見つかったのは巨大なピラミッドの基部だとわかってきた↓

漆喰を塗られたオリジナルの壁

↓下の写真でピラミッドの階段部分がはっきりとわかる↓

「メトロポリタン大聖堂は神殿ピラミッドを壊した場所に建てられた」と伝承されていたのだが、
が、その場所は大聖堂の真下ではなかったのだ。掘ってみなければ真実はわからない。

↓下はアステカ時代のテノチティトラン(=メキシコシティ)復元図↓
↓湖の島を中心に建設された町の中心に三つの神殿ピラミッドがそびえている↓

アステカがこの地にやってきた14世紀半ばから滅ぼされる1521年までの間に七度(ステージⅠからⅦとよばれていた)にわたって増築され、
↓最終的な大きさは一辺80mを超えていた↓復元模型↓

↓大きさの比較図↓右からローマのコロッセオ、ギリシャのパルテノン神殿、三つ目がこの神殿ピラミッド、チチェンイッツァのピラミッド(ユカタン半島のマヤ遺跡)、すぐ近くに聳えているメトロポリタン大聖堂、

↑いちばん左がテオティワカン遺跡の太陽のピラミッド↑
テオティワカン文明は下の図で紺色の紀元前一世紀から紀元後六世紀↓この大神殿はいちばん右の赤色のアステカ文明部分に属する


その時代になんと呼ばれていたのかはわからないが、現代では「テンプロ・マヨール(大神殿)」と名付け、一般公開している↓

※今回の旅を計画していた段階では、ここがこれだけすごい遺跡だとは予想していなかった↓思ったよりもずっと広大で興味をそそる。これを見たら入ってみなくちゃ(^.^)余裕ある行程は大事。食事の予約などしていないほうがこういう時に悔いなく行動できる。

↓神殿の前に植えられていたと「聖なる木」そのものが見つかる↓丸い土台もオリジナル

↑これはステージⅣ(1440-1469)の時代に植えられた樫の木だと判明↑

階段下部と蛇の頭の装飾↓



↓マヤの神殿にあるのと同じ雨の神チャックモール像が見える↓

生贄の心臓を置いたとされる台↓
↓部族の信仰スタイルは影響されあっていたのだ。こちらは造形としてちょっとぎこちなく見えるけれど。

色鮮やかなレリーフがたくさん


240個の頭蓋骨を積み重ねたデザインの台↓「大神殿」の北側から見つかった。



地面は石畳で、何層にも改修されていた↓

↑下はステージⅤ後期の(1481-1486),上はステージⅥ(1486-1502)のものと推察されている。
湖上の島を舗装する石はその場所ではとれない。離れた石切り場から湖上輸送して運ばれていたのだ。

この真新しいレンガもアステカ?解説を読んでみると…
★1900年ごろに設営された下水道管だった!↓

下水管を通すために遠慮なく神殿の一部が遠慮なく壊されていた。
つまり、1900年の工事の時に、すでにアステカの遺構は見つかっていたのだ。
当時は先住民の遺跡など一顧だにされない時代だった事をよく理解させてくれる。
時代によって大事にされるべきモノも変わってゆく。

併設された博物館にここから発見されたモノが展示されている。
発掘された場所でそのものを見られることの意義を感じさせてくれる場所。
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ソカロ広場を見下ろす場所でランチのあと、メトロポリタン大聖堂へ

2018-11-25 15:15:15 | メキシコ
午後二時をとっくにまわり、メキシコ時間でランチを。
ソカロ広場のメトロポリタン大聖堂をみおろすテラスは知っていなければなかなか入ってこない場所だろう。

ここは百年以上前に建てられたマジェスティックホテルのテラス。

喧噪の大通りから小さなホテルの入口を入る↓左の旗の出ているところ

ロビーに入ってきた時、キューバのホテルを思い出した↓

そうだ、キューバの老舗ホテルの多くは革命前に建築されたもの。このマジェスティックホテルと同時期に創業していた。
蛇腹扉のこぶりなエレベーターにのって七階へ上がると↓

シックなテラスレストラン↓

休日のお昼、豊富なバッフェは。地元の家族連れがたくさん訪れていた。

とりすぎないようにしなくちゃ。



**
ランチを終えてソカロ広場へ出る。午後の光がメトロポリタン大聖堂の正面を照らす↓

アステカの首都テノチティトランだった時代のこの場所には神殿があったとされる。

アステカの神殿を壊して1521年に建設された最初の教会の跡↓

現在の聖堂は1562年に建設がスタートし三百年以上かけて現在の姿になった。
1614年に支倉常長がやってきた時にはどんな姿だったのだろう…

内部、巨大な空間↓スペイン式に中央に閉ざされた聖歌台があり、その周囲を礼拝堂が囲むスタイル。

↑六十年ほど前に火事に遭って半分焼けたて塗りなおされた金。手前のくすんだ金色の方がオリジナル。
1718年からつくりはじめられた主祭壇↓

プラテレスコというかチュリゲラというか…これでもかのバロック装飾

●聖具室のを飾る絵画は別料金↓

1684年から1691年にかけてクリストバル・デ・ヴィラパンド(1649-1714)とファン・コレア(1646-1716)という二人の画家によって描かれたバロック絵画空間↓

主祭壇が現在のモノになる以前に、スペイン本国へ行ったこともなかった二人がここまで描いていたのか。
「ヴィラパンドは自画像を聖職者たちの中に描いている」と解説文にあったが、下の列の中の誰かはわからない↓

↑自画像はよく「こちらを見ている人物」なのだが、この絵ではみんなこちらを見ております。


★フィリポ・デ・ヘススの礼拝堂は日本に関連がある。彼は1597年に長崎で殉教した二十六聖人の一人。メキシコではじめて列聖された人。
↓正面祭壇に処刑される姿↓

彼が洗礼を受けたのはこの礼拝堂のすぐ横の洗礼堂とされている。
祭壇の絵画には処刑前の支度をする「ちょんまげ姿の侍」が描かれているとガイドさん↓
↓暗い祭壇をカメラで撮影して処理すると…おお、その姿が見えました↓


なぜか、同じこの礼拝堂にメキシコ初代皇帝アウグスティン一世も葬られている↓


彼はもともと独立派反乱軍を鎮圧する軍の司令官だった人物。
反乱軍に寝返りスペインからの独立を成し遂げた直後に自らメキシコ皇帝に即位した。
が、一年も経たずに失脚し、亡命の後帰国しようとしたところを捕まり銃殺。
評価は微妙なのだが、メキシコ独立史のなかでひとつの場面の主役だった人物にはちがいない。

○この聖堂の彫刻群はよく見るとなかなか興味深い↓

ぱっと見ヨーロッパの彫刻に見えるが、よくみるとアステカの彫刻っぽい人物表現になっているのだ↓

こういった特筆されることのない造形はヨーロッパの彫刻を見たことがない職人によってつくられていったのだろう。
かれらの身近にあったお手本はアステカの彫刻にちがいない。




広場に出てみよう


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グアダルーペの聖母

2018-11-25 13:13:13 | メキシコ
注:「グアダルーペの聖母」の話はいくつものヴァージョンがあります

1531年の12月、ファン・ディエゴはアステカ族の間で死の病と言われた熱病にかかった叔父ファン・ベルナルディーノを看病していた。
朝四時、叔父の死が近いと感じたファン・ディエゴは最後の告解をうけさせるべく司祭を呼びに走った。

テペヤックの丘にさしかかった時、美しい女性に呼び止められた。急いでいたディエゴは話さずに通り過ぎようとしたが「もう病は癒えました」と告げられ、彼女が聖母なのではないかと感じた。司祭にこの話をするとその話を証明する物を持ってくるように言われ、再び丘に登ると聖母と出会った丘には季節外れのバラが咲いていた。摘んだバラを着ていたマントで包み司教の前で開くと、マントには聖母の姿がくっきりと映し出されていた。

そのマントは今でもこんな風に人々の前に公開されている↓


同じ頃、病床の叔父ベルナルディーノの元にも聖母マリアは現れ、病は全快した。

「聖母マリアが先住民のナワトル語を話したというのか?」
当時のカトリック教会はこれを認めるか紛糾したが、ローマ法王パウルス三世は「インディオは人間として尊重されるべきである」という回勅を発表した。

教会の近くで下車↓1976年に出来た新しい聖堂がすぐそこ↓

ラテンアメリカ圏で最も信仰されている聖母の地。日曜の午後は人が多い?いや、奇跡が起きたとされる12月にはもっと混雑するのだそうだ。
ロウソク↓

これはこのまま食べるの?↓


教会の前は大きくひらげている↓右に新しい鐘
↓赤いドームはカプチン派の修道院(カプチン派はフランチェスコ派の一派)

全体の位置関係はこんな↓

↑右上のテペヤックの丘はもともとアステカ族の神殿があった場所。
★グアダルーペとは
アステカ族のナワトル語Tecuatlanopeuhからきていると考えられている
これは「崖の上からきた女性」という意味で、テペヤックの丘の女神を指しているようだ。
マリア信仰とうまく結びつく奇跡譚なのである

1709年建造の古い教会↓マントはかつてここに奉納されていた↓

↑かつては湖だったメキシコシティは地盤が安定していないので古い建物は沈下してくる
↓そこで1976年に建設された新しい教会

↓内部は巨大↓写真で左下へ導かれる通路に動く歩道が設置されていて↓

「グアダルーペの聖母」を見上げながら通り過ぎてゆくようにできている

聖母の目にファン・ディエゴの姿が映っているという話はいつごろから言われるようになったのかしらん↓






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ソウマヤ美術館

2018-11-25 12:12:12 | メキシコ
世界一の富豪に選出されたこともあるカルロス・スリムが2011年に開館させた個人コレクションの美術館↓※ソウマヤとは亡き妻の名前だそうな
近くに立つと巨大すぎて全景が入らない

※動画で撮ってみました
六角形の金属板を表面に貼ってある
↓メキシコシティ西部のポランコ地区は日本人も多く住む治安の良いビジネスエリア

もともとは工業地帯だったそうだが再開発された

すぐとなりにあるギザギザ屋根の建物も美術館だが、このカタチが工場地帯だった時の記憶をあらわしているようだ↓


**
内部構造はニューヨークのグッゲンハイム美術館を思い出させる。あそこほど極端ではないが螺旋構造に展示室が配置されている。
↓入口から螺旋への入口階段付近↓

ロダンのコレクションが充実しているそうで、入口に「地獄門」が。上野の西洋美術館入口にあるものと同じに見えた。
今回ここを訪れるきっかけになったのは2017年にNHK日曜美術館でとりあげていた南蛮屏風「大洪水」がここにあるということ。追放された日本人切支丹が日本の工芸技術をつかってマカオで制作したのでは?とされる
※この方のブログに番組を詳しく書かれています
今回、残念ながらそれは展示されていなかったようだが、他にも東南アジア地域で制作された屏風や工芸品が充実していた。

キリスト教が現地の文化を使って浸透していくというのはメキシコと似ている


螺鈿細工をつかって、キリストやマリアの生涯を描いた作品↓螺鈿細工はいかにもアジア的


小松が一番注目したいのは、メキシコ先住民が伝統の鳥の羽モザイクを使って製作した聖母マリア。背景がキラキラしている↓18世紀後半のもの


ヨーロッパ絵画も充実しているが  

外国からの来訪者としては、この地ならではのモノに触れたいと思う。
今朝訪れたメキシコ自治大学UNAMにあった壁画の原画デッサンはまさにそれ↓
↓シケイロスが1950年代に描いた↓

シケイロスは岡本太郎に大きな影響を与えた人物。
そう思ってみるとなるほどと思う。

メキシコには遺跡だけでなく魅力的な新しい美術館も多いと気づいた。一般的なツアーではなかなか組み込まれることがないこういった場所だが、少しずつスポットを当てていければよいと思っている。





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