旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

アイルランド西海岸のゴールウェイに到着

2019-08-18 20:00:00 | アイルランド
アイルランドの南北交通要路だったシャノン川を渡り

え、この気温で泳いでるんですか

羊の遊ぶ草地を抜けて

入り口でちょっと渋滞もしたけれど

ゴールウェイの街の真ん中にあるホテルに到着した

荷物を置いたらすぐに町歩きに行こう
今回の旅を現地でハンドリングしてくださっているかたが迎えにきてくださった
歩行者用のキー・ストリート

↑14世紀ごろからの有力一族リンチ家の頑丈な邸宅が残されている
彫刻がなんだかノルマン風のロマネスク

南イタリアあたりでよくみかける


キングス・ヘッドという名前のパブ・レストランは↓

↑清教徒革命でチャールズ一世英国王の首を実際に切った処刑人が褒美にもらった土地につくった店とされている。
イングランド人は彼らの王を自分たちの手で切り落とすのをよしとせず、処刑人にスコットランド人とアイルランド人を雇ったというのである。

ストリート・ミュージシャンもたくさん

↓路地を曲がって今晩の夕食を予約していただいているレストランへ到着


今回はそこそこの人数になったから、予約しておいてもらってほんとによかった。


パスタだけは少し茹ですぎだったけど、みな美味しくいただきました


夜になっても人通りは多い

「アイリッシュ音楽が聴きたい」という方があって
連れて行っていただいた「チ・コリ」というセッションも可能なライブ・パブ↓

「TI]というのはゲールゴ=アイルランド語で「~の場所」というような意味。
フランス語のCHEZみたいな感じで使われているようだ。
つまり、「コリ家の場所」という店です↓

↓セッションで誰でも参加できるときいたけれど、演奏している人はみなかなりの腕前。
↓アイルランド音楽にはJAZZ以上にスタンダード曲というのがあるのだそうだ。

入場料はとらない(とれない?)人をかきわけてカウンターにすすみ、ビールを買って飲むだけ(^.^)。

ダブリンとは違う、アイルランドの夜がふけていきました


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クロンマクノイズ修道院跡~「Nosの息子の草原」の意

2019-08-18 16:00:00 | アイルランド
西暦548年に聖キアランが木造の教会を建てたのがそのはじまりとされる

アイルランド島を南北に流れるシャノン川沿いの丘にある廃墟群。
この修道院はかつて男女が一緒に住み、結婚して子供も育てていたのだそうだ。
つまり、カトリック教会の禁欲的な修道院とはぜんぜん違う、独自の修道院がアイルランドには存在していたのか。


六世紀に建設された建物はすべて木造だったので、人々の住居はなにも残っていない。
十世紀以降に教会群だけが石造りに建て替えられたので、その名残を見ることができている。

↑アイルランドに特徴的なのがこの★ラウンドタワー
クロンマクノイズには二本残されているが、一本は先端が壊れている↑
1135年に落雷で先端部が崩壊。
上部に見える八つの小さな窓はその後に加えられたもの。使い続けていたのだ。

↓もう一本のラウンドタワーは上部まできれいに残っている↓

こちらはフィギン教会の一部として1160年から1170年ごろに建設されたとされる↓
↓塔の表面に残された痕跡から、かつてこの塔が教会の交差部にあっただろうことが分かる↓

シンプルで無駄のないロマネスク形状にみとれる。
下から上へ少しずつ小さな石材を組み合わせて積んである。

クロンマクノイズでのもうひとつの見ものは
★ハイクロス

美しい石彫がほどこされた「ケルトの十字架」
↓本物は隣接する博物館に保護されている↓

こうやってレプリカを元の場所に置き、本物を博物館で保護する方法は見学者にとって有効。
ホンモノの方には一番効果的な光を当てて展示してある↑
キリスト教以前の太陽信仰を円のカタチに取り入れたとされる「ケルトの十字架」
ほとんどの人は字が読めなかった時代なので伝えるべき聖人の逸話を絵にしている。

↓こういった石の柱になってしまっているものの先端にも十字があったのかもしれない↓

↓「ケルズの書」に見られるような文様



**
聖者キアランの墓だったとされているのがこの小さなお堂↓

聖人の墓があり、タラの王たちの墓所でもあったクロンマクノイズには千五百年にわたり巡礼たちがやってきた。
↓今でもわりに新しそうな(といっても何百年かですが)墓がぽつぽつみられるのだ。

彼らが自分自身の名前と祈る言葉を拙い文字で刻んだ墓石も発見されている↓

↑コルマンとラテン文字で刻まれた右下に魚の骨みたいな刻みがあるのは何?
↑これは★オガム文字と呼ばれる紀元後三世紀には存在したと思われる、ケルトの言葉=アイルランド語を表現するために考案されたと思われている表音文字
へぇ~、こんな文字があったなんて知りませんでした。
※アラン諸島でも後日見ることになった

***
敷地の中央には屋根はないが大きな教会堂だった建物が見られる↓

王たちのもの?司教のもの?墓石がいくつもある
↓入口アーチの上には明らかにローマ・カトリックの時代になってからはめ込まれたと分かる彫刻がある↓

↑右端は三つの結び目のある腰ひもから聖フランチェスコに違いない。
↑左端は解説を読むと聖ドメニコ。中央はパトリック。
そうか、13世紀はじめイタリアの二大修道院創設者がアイルランドの聖者パトリックを囲む姿なのだ。
※明らかに復元されてここにはめ込まれているので元々どのような場所にあったか分かりません

結婚もして子供も育てていたというアイルランドの初期キリスト教共同体=修道院は、十世紀ごろにはローマを中心とするカトリック式の修道院にとってかわられた。

バイキングやアングロ・ノルマンに何度も侵略されても復興したクロンマクノイズだったが、1552年にイングランド軍に壊滅された後に荒れ果てていった。

この場所を巡礼した最も有名な人物はローマ法王ヨハネ・パウロ二世に違いない↓
↓ガラスのはめられたたてものはその1979年に建設されたもの↓

↓この場所にヘリコプターで降りたち

三万人が集まったと当時の新聞記事が掲示されていた↓















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キルベガンウィスキー蒸留所

2019-08-18 13:00:00 | アイルランド
ウィスキー発祥(と言われる)国へきたのだから蒸留所をみておかなくては。
18世紀には稼働していたキルベガンを訪ねた
小さな町を抜けていゆくと

川岸に水車と古い煙突のある建物が見えてきた↓

記録にあるかぎり1757年にはここでウィスキーがつくられていた

↓この樽にその年号が書かれている

↓「遠心力ガバナーだよ」↓
見学している時、エネルギー学を専門とする方がこの装置を見て教えてくださった↓

↑18世紀にジェームズ・ワットが実用化した速度調節機能
↑回転速度があがりすぎると遠心力で中央の二つの鉄の球が開きそれによってバルブを閉めてゆくのだそうだ。

↓古い蒸留器はその姿だけで絵になる↓

↓「コフィ式蒸留器」があった!
↓出発前に浦和のバーで教えていただいた、アレの実物だ!

※浦和のバーでべんきょさせていただいた折の写真をこちらからごらんください

かつては水車がすべての動力源だったのだそうだが↓今はもう回っていない様子



この場所は現在キルベガンのメインの蒸留所ではなくなり、博物館を主としている。
年間に4万リットルだけをここで製造しているのだそうだ。
★キルベガン全体で生産されているウィスキーは年間150万リットルというから、全体の2.6%だけがここで生産されていることになる
ここでだけつくることのできる2.6%なのだろう

現在も使われている蒸留器としては世界最古のものを見せていただいた↓

↓右側がそれ



↓現在のキルベガンが生産するもっとも有名なウィスキーは緑の箱に入ったコネマラだろう↓

黒いのは12年もの
※上の写真はダブリン空港にて

**
歴史ある創業の地でつくり続けられているキルベガンの生産量全体の2.6%だけのウィスキーは、きっとこだわりのあるものに違いない。
案内してくださった方にそう訊ねると、やっぱり「ここでしか販売していないボトル」がありました(^.^)

この旅の出発前にウィスキーをおしえてくださった浦和のバーのマスターに買っていくならこれしかありますまい↓
**
↓帰国後お届けして、小松も最良の環境で味あわせていただいた↓
 ※小松は家でお酒を飲むことはほとんどないのです
後に見えているボトルがそれ

↑右下に大きく写っているグラスは、実際は高さ五センチほどのキルベガンでもらったウィスキー用のもの。

ライムギを原料にしていると書かれているがアメリカのバーボン的ではまったくなかった。
アイルランドを思い出させる深い味わいだと感じた。
次回訪れたら(2020年にもアイルランドの旅が実現出来たらとおもいはじめている…)このボトルはまた買いたいなぁ。

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トリム城の廃墟と

2019-08-18 12:00:00 | アイルランド
アイルランドを走っているとたくさんの廃城に出会う

タラの丘からキルベガンのウィスキー蒸留所への途中で、アイルランドの廃城のなかでも指折りの名所になっているトリム城にちょこっとだけ止まってもらった。※上のお城は通りすがりです

トリムの街に入る

川を渡ると城がある

ボイン川はそれほど大きくないが、1690年の夏、その後のアイルランドを決定づけた戦いがあった。
名誉革命で退位させられたイギリス王ジェームズ二世がカトリックのアイルランド軍を従えて、名誉革命で新王としてオランダから呼ばれたウィリアム三世オレンジ公との決戦をおこなった川。
↓この石橋はその頃あったかしらん


↓あの壊れた高い塔は?

降りて歩いてみてわかったのだが、これは教会の塔だった遺構↓


城はもっと大きなものだった

内部も廃墟だが、時間のある旅の時に入ってみたい(いつ?)
↓壊れた城の上に人が登っていた

復元された大砲↓

↓曝し台


バスが走りだして城壁の全体像が見えた

かなり広い城壁だ

****

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タラの丘

2019-08-18 11:00:00 | アイルランド
「タラの丘」というと、映画「風と共に去りぬ」に出てくるアメリカはアトランタのスカーレットの農場を思い浮かべるだろう。

しかし、その名のルーツは、スカーレットの父の故郷アイルランド古代の聖地なのだ。
ベルファストから二時間ほどで、もうすぐタラ↓

ダブリン南西の郊外にその場所はある。

標高155mの丘の上に、紀元前三十四世紀ごろから紀元後七世紀にかけて建造された二十五のモニュメントが残されている。
↓その中心がこの石の柱

「王になるべき人物がやってくるとこの石が話すという伝説があるんだよ」と、ガイドのジェリーさん。
・・・しゃべりませんなぁ、石。
建設された時代が有名なストーン・ヘンジと同時期と知ると、なるほどと思う。

TARAとは古代ケルトの言葉「Teamhrach」に由来し、「神聖な」という意味。
古代ケルトの人々は強力な統一国家をつくることはなかったが、同じ宗教(ドルイト教と呼ばれることが多い)を崇拝しその中心がこの丘であったと考えられている。

二十五も残されている現在でも見られる遺構のうち、最大のものがこれ↓

冬至の光が穴の奥まで届くように設計されているのだそうだ。

最初に建設された紀元前34世紀から一千年ほど経つと、ここは埋葬地になっていった。
1850年代には有名な「タラのブローチ」が発見されている↓
↓ダブリンの博物館に展示されていた↓

↑男性用の大きなマントを止めるための大きなピンだったと想像される。

1950年代に本格的な発掘が行われ、火葬土葬ふくめ三百体もの人が埋葬され続けていたのが分かった。
内部を覗いてみると↓ケルトの渦巻き模様が壁に刻まれていた↓

この手の遺跡で最大のものがここからそう遠くない「ニューグレンジ」。
今回の行程をつくるなかで見学を入れたいとは思ったのだが、予約制で見学に一時間半、内部の日本語解説が出来ないと知ってあきらめた。
もう少し空いた時期にまた《手造の旅》アイルランドを催行したらその時に見学できるようにしたいものだ。

**
このタラの丘はアイルランド人の心のふるさとであり続けてきた。
アメリカの小説「風と共に去りぬ」がなぜあれほどヒットしたのか、十九世紀のアイルランド史をしらべてしみじみ理解できた気がした。
※このあたりの話は別途書きます

***
アイルランドにキリスト教を布教しに、五世紀半ばにここにやってきた聖パトリックの像もある↓

パトリックはすでに信仰されていた宗教の中心部にメッセージを発した。
タラの丘から見える別の丘の頂上で狼煙をあげたのである。
↓パトリックが火を焚いた丘には記念碑が立っていて、タラの丘から見える↓

当時、火を焚くことはタラの丘で最高の王=司祭にしか許されていない行為だったので、はっきりとした兆戦行動のようだが、実際には武力での布教は行われずにすんだ。
ローマ教会の進んだ医学や技術を提供することで当時の王の親族女性たちがキリスト教に改宗し、ドルイト教とキリスト教は融合していったというのだ。
ううむ、実際どうであったのかはわかりませんが。


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