旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

AVOCAに寄ってからダブリンへ

2019-08-21 19:00:00 | アイルランド
「アイルランド人なら誰でも知っている」AVOCAは生活用品の店

ダブリンに入る前にここでランチにした
こんな感じだから気軽に注文できる

その後しばらく自由時間に


ガーデン用品も別棟で

**
ダブリン市街はロンドンよりこぶりでわかりやすい
渋滞した道を地図と見比べながら、だんだん歩き方が見えてくる
↓ナショナル・ギャラリーも徒歩でいけそうだ…でも現在修復中で代表作を数部屋に集めて展示している状況だとの事

↓ダブリンに最初に鉄道が引かれた時の駅だそうな↓

ホテルチェックインして、旧市街へ歩き出す↓
↓下の写真の建物の上の階が我々のホテルの部屋。テンプル・バー地区というのはけっしてバーがたくさんあるからではなく、「テンプル伯爵の川に沿った棒のように細長い土地」ぐらいの意味です↓

夜うるさくないか心配したけれど、あらかじめメッセージをいれてあったからか大丈夫でした。

明日の夜「リバーダンス」の券をとってあるガエティ劇場を下見

「夜は軽くしたいねぇ」と、パブに入ってまずはギネスを注文↓
↓ギネスは注ぐのに時間がかかる事、全員まなんでいるのでゆっくり待ちます。

↑一度目の泡が静まるのを待っているグラスたち
いただきます!
注文した料理がパブにしては本格的でびっくり
タルタルステーキ(生肉でユッケみたいなのです)があるので迷わず注文日本で食べるよりもたいていおいしいのです(^.^)サーモンのカルパッチョイタリア風のラヴィオリ
「おいしいねぇ」と言い合いながら食べて、トイレに行くと…なんとここはとなりのおしゃれのレストラン付属のバーだった。当然出てくる料理は同じ厨房でつくっているものだったのです。
バーテンダーさんと楽しくやりとりしながらゆっくりすごしたのですが翌日のダブリン博物館で彼とそっくりの…と出会うことになるとは、この時誰も思っておりませんでした(^.^)

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グレンダロッホ

2019-08-21 15:00:00 | アイルランド

10から12世紀ごろのものと思われる、アイルランド独特のラウンド・タワーが残されている↓

グレン=谷、ロッホ=湖 は、谷間に残された六世紀からの初期キリスト教遺跡。

↓かつてはこんなコミュニティだっただろうという想像図↓

アイルランドの初期キリスト教はローマン・カソリックとは違う男女一緒で家族で住むスタイルだったようだ。ノルマン人(いわゆるバイキング)がやってきて、イングランドの軍が侵攻し、カトリックスタイルの修道院に変革していったのはいつごろなのだろうか。

谷の奥にある二つの小さな湖から流れてくる川を渡る↓

川の水はこんな色↓やはり泥炭地なのだ↓

 

 

二重の門アーチ↓をくぐると

修道院の入口だった二重の門↑(上の復元図で右端の川沿い)↓

教会群と墓地がひろがる↓

前出のラウンド・タワーの入口は地上から三メートル以上の高さにある↓

ラウンドタワーの構造はどれもそれほどは変わらない※キルケニーのラウンド・タワーに登った時の写真をこちらからごらんください

 

六世紀にこのキリスト教共同体をスタートさせたのは聖ケヴィン。

彼の修業し埋葬されたと伝わる小さな礼拝堂 ラウンド・タワーの小さなものはあとから付け加えられたものだが、これが煙突みたいにみえるので「聖ケヴィンのキッチン」と通称されている。 内部はもう何も残されていない↓ 19世紀にここまで修復されたが、それ以前はどんな惨状だったのだろう。 屋根にとりつけられた素朴な十字架はもとからここにあったものなのかしらん? 最も大きな教会は壁だけが残されている↓何度も拡張されて13世紀にここまでの大きさになった 人々が集まっただろうケルトのハイ・クロスもある ★グレンダロッホは1398年には廃墟になっていた。 スコットランドからやってきたエドワード・ザ・ブルース(有名なロバート・ザ・ブルースの弟でアイルランドの王を称していた)とロジャー・モティマー(イングランド王リチャード二世のいとこ)の、アイルランド統治をめぐる戦いにまきこまれた結果だった。この時期はまだ両者ともにカトリック信仰。アイルランドはこの時代からずっと受難の歴史だったのか。

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キルケニーのラウンドタワーに登る

2019-08-21 11:11:00 | アイルランド

キルケニーに現存する建造物で最も古いとされるのがこのラウンド・タワー↓

いつごろ建設されたのか、正確にはわからない。「千年の歴史がある」と書かれた本もある。

現在見られる教会以前の教会の鐘楼として建てられたのはまちがいない。

↓1120年頃はこうだったのだろうの図↓

↑隣接する教会は現在のものよりずっと小ぶりなロマネスクの建物だ↑

周辺の様子もいれた復元画 下の図は1600年ごろ現在のゴシック様式の大聖堂が建設されたころの様子↓

↑ラウンドタワーだけが変らぬ姿で立ち続けている↑

ラウンド・タワーは外敵襲来のときの避難場所と書かれているガイドブックも多いが、実際にこんなところに逃げ込んでもどうしようもないように見える。地元ガイドさん曰く「火を焚いて下から煙を入れられたらどうしようもないだろう」と言っていた。入口が地上から三メートル程上に開けられているので「避難用」という説がでてきたのかもしれないが、これは下部に扉を開けると構造が弱くなるからだそうな↓なるほど

会の入場料を払う時にラウンド・タワーに登る料金も一緒に支払う。

チケットを持って鉄のハシゴ階段を上り、塔の入口を入ると管理人が座っていた↓

予想以上に狭くて急な階段だ↓

背負っているリュックも邪魔になりそうなので管理人さんのところに置いていった。

この階段はもちろん近年になってとりつけられたもの↓

十メートルぐらいごとにこんな踊り場になっている

上になるほど小さ目の石材を使っているので直径が狭くなってくる。

最後、頂上へのステップはこんな石の段↓

↓到着!

今回の旅メンバーから小松含め六人が登りました

塔の上部は当初屋根があったようだが現在はなくなって柵だけ。

キルケニーのまちがぐるりと眺望できる↓

ひときわ大きな教会が見えるが↓あれは1857年に建設された聖母マリア・カトリック・カテドラル↓

↑現在、この聖ケニス教会は英国国教会になってしまっているから、カトリック教会の中心はあちらなのだ。

↓降りる時の方が気をつけなくては↓

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教会の内部、もっとゆっくり見たかった

ゴシックのアーチ天井が美しい↓

↓身廊上部に開けられた窓

歴代バトラー家の墓石も

帰国後にあらためて資料を読んでいくと、この教会内部には聖ケニスが実際に使ったといわれるカテドラル(司教の椅子)がのこされていて、誰でも座ることができると書かれていた。ううむ、見ておきたかった。


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キルケニーをガイドさんと歩く

2019-08-21 10:02:50 | アイルランド

バトラー家というと「風と共に去りぬ」を思い出す方も多いだろう。

かの小説の主人公たちの父祖はアイルランドからの移民でルーツはこちらにある。キルケニーの立派な城はそのバトラー家が何百年にもわたりつくりあげてきたもの↓

イングランドに支配されたカトリック系アイルランド人には二つの選択肢があった。

イングランドの求めに応じて英国国教会に改宗し支配階級側に立つか、歯を食いしばってカトリック信仰を守り迫害される側に居続けるか。

バトラー家は前者となり地位と富を得た。ケルト系のアイルランド人ではなく13世紀に入ってきたノルマン系のアイルランド人だったので容易に適応できたのかもしれない。市民革命、続くクロムウェルの動乱の時期には財産を没収されてフランスにのがれていた時期もあったが、18世紀はじめにはまたキルケニーの支配者としてもどってきた。キルケニーはバトラー家がチャールズ二世の復位に貢献した功績によって「市」として認められることになり、さらに繁栄していった。

現在見る城は13世紀からあったとされるドンジョン(※上写真いちばん左の巨大な円筒部分・いかにも戦闘用という雰囲気がある)にはじまり、居住用の邸宅が増築されていっている。ドンジョンには後の時代に開けられた窓もたくさん見られる。

↓近くで見ると二つの建築の時代差は明らか↓

 

広い芝生の前庭にはバトラー家の当主が十七世紀にフランスから呼んだ庭師が設置した噴水がある↓

↓城が市に寄贈された後の1970年代にかつての姿をとりもどしたと解説されていた↓

↓新しい紋章が門に掲げられていた↓これは城の敷地に隣接してある16世紀創設のキルケニー・カレッジのもの。

↑複合紋章の場合左上に入る紋章がいちばん格上なのだが、そこにある黄色(紋章学では黄色は金色の代わり)と水を表す青(多分キルケニーを流れるノア川をあらわす)の紋章がバトラー家のもの。バトラーをはじめて名乗ったとされるのは12世紀のテオバルド・ウォルター。フランスにルーツを持つプランタジネット家のヘンリー二世がイギリスに入ってきた折にその協力者であった。アングロ・ノルマンの一族だったからというわけでもないだろうが、モットーがフランス語で「COMME JE TROUVE」(as I find=我が見つけたように)と掲げられている。

★第六代オルモンド子爵アーサー・バトラーは1967年の夏にこの城を十五エーカーの土地付きでキルケニー市修復委員会に寄贈した

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今朝の我々は、お城すぐ近くの宿泊したホテルから歩き出した。ガイドさんと共にキルケニーの旧市街を見学する午前中。

城からゆるい坂道を百メートル程くだっていくと↓ハイストリートに張り出した市庁舎↓

市の紋章が刻まれていて↓そこに射手が見張るさっきほどの城らしい建物が描かれている

↑城の中に描かれた人物が松明を持っていることにも意味がある。中世の夜は真っ暗だったが、そこで松明を灯すことが出来るのは権力者の証で、人々の安全を守るという象徴にもなっていた。

→キルケニーの旗は黒と黄色(金色)

ハイストリートからの横道がこんなふうにたくさんあって↓それぞれ川に近い下の道に通じている

↓「バター通り」はそこでバターが売られていたから。商われていた物の名前がつけられている小道が多い。

↓これはいわば「市場小路」

★ツーリストインフォメーションは町に残るいちばん古い建物なのだとガイドさん↓

1581年にリチャード・シーという人物の遺言で貧民の為に建てられた家。

富める者が死の直前にこういった「善行」をするのは、自分が「天国への許可証」を得るためという意味が大きかった。

息子のルカス・シーは1609年に施設を町に寄贈。三百年にわたり当初の目的に使われていたが19世紀はじめに放棄されて廃墟になっていた。

1871年、ニコラス・パワー・O'SHEEという子孫が修復して現在のかたちになった↓

↓こんなゴミ箱を発見

上部がソーラー発電できるようになっていて、これでごみをゆっくり処理(どうやるのかは不明)するのだそうです。へぇ~

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13世紀ごろまでキルケニーを囲っていた城壁の外側へ出ると↓そこに「アイリッシュ・タウン」という通りがあった↓

アイルランドなのに、なぜことさらに「アイリッシュ・タウン」と呼ばれる場所があるのだろう?

「ノルマン人たちがやってきた時(13世紀)もとからいたケルト系のアイルランド人たちは街の中心から追われて城壁の外側に固まって住むことになったんだよ」とガイドさん。

ううむ、元祖アイルランド人たちはイングランド人だけでなくいろいろな民族に支配されてきていたのですね。

****

城からの下り坂が終わり、教会へ登る階段のところにやってきた。キルケニーの街をめぐる観光プチトレインがはしってきた↓

↓緑色の家は前出の「アイリッシュ・タウン」と通りの名前が書かれていた家。つまり、城壁の外側だった場所。

↓ここで、ケニス教会の横に掲げてあった1120年ごろの復元画を思い出した↓

↓画面右側に流れているのがノア側↓手前に流れている小さい川がこの通りに変っているのだ↓

↑画面下の切れている外には、先ほど見たキルケニー城の中世の姿=砦があったにちがいない。

↓交差点で川の方向を見ると壊れた教会が見えた↓地図で確認すると、これはフランチェスコ教会・修道院の跡にちがいない。

↓歴史資料を見るとキルケニーにフランチェスコ会の修道院が建設されたのは1250年。この修道院でつくられていたビールが現在のキルケニー地ビールのスミディックに引き継がれていったようだ↓

※フランチェスコ会のライバルだったドメニコ会は1225年に進出して同じように修道院を建設しており、その建物はまだ残っていた。

ケニス教会のある丘に登る手前に↓こんな石像が↓

「あれ、こんなところに移ったんだ」とガイドさん↓以前はハイストリートに立てられていたそうだ↓

教会への階段↓10世紀からあるとも言われるラウンド・タワーが見える。

アイルランドではよく見られるラウンド・タワーだが、登ることができるのはこれを含めて二本だけなのだそうだ。ぜひ、登ってみたい↓楽しみです(^.^)

途中の壁に埋め込まれていた、もとはどこから持ってきたのか分からないロマネスク風の石彫↓

↓アイルランド屈指の中世の大聖堂と↓高さ三十メートルの塔がそびえている

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