旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

「リバーダンス」を見る、ダブリン最後の夜

2019-08-22 20:00:00 | アイルランド
ガエティ劇場の「リバーダンス」はラスベガスのショーなみに楽しめた

ガイエティ劇場は1871年に建設されたクラシックな場所

※上写真は360度カメラで撮影
馬蹄形でこぢんまりしているが、

2000年代に二度の改装をして客席も舞台も充分見やすく快適になっている。
今回のはドレス・サークルというもっとも見やすい席を確保


リバーダンスは上半身をあまり使わない。イングランドに統治されていた時代に集会を禁じられ、窓から見て集まって踊っていると思われないようにするためだったと言われている。

足を使ったダンスというとアメリカのタップが思い浮かぶ。
ショーの中で黒人たちがタップを踊り、アイルランド系のリバーダンスとコミカルに競い合ったりする場面もあった。
スペインのフラメンコも、ロシアのコサックも出てくる。

一回休憩を含んで二時間半以上、アイルランドにあまり興味がないひとでも、英語が分からい人でも、ぜったい楽しめる。
↓エンディングは写真を撮っても良いのです↓

いろんなダンスがとりあげられているのがよくわかります(^.^)
音楽は生演奏!
ハープや歌も充分に楽しませてくれる。

ショーが終わって、となりの席の欧米人と顔を見合わせてにっこり
「私たちベルファストからなのよ」
イギリス領の北アイルランドからも国内移動と同じようにダブリンに観光に来られる幸せな時代だ。
BREXITがこじれて国境検問が復活するような事態になりませんように。

来年もアイルランドツアーを催行して、また全員に「リバーダンス」をお見せしたいなぁ。


****
ホテルのちかくのイタリアンレストランに入る。
ギネスはなくてイタリアのビールと共に楽しんでいたが、ふと気づくと入る時ぎっしりだった席はからっぽになっていた
ダブリンの夜はおもったよりも早くレストランが閉まる。パリやローマなどのラテン圏とは生活スタイルがだいぶん違う。
22時半にはホテルの部屋にもどっておりました。

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ダブリン観光~トリニティカレッジ、国立博物館、ハーフ・ペニー・ブリッジ、総合郵便局

2019-08-22 15:00:00 | アイルランド
ダブリン観光というこの図書館ははずせない↓

でも、ずいぶん混んでます。入場券はネット予約マストの行列

まずは「世界一美しい」とも言われる「ケルズの書」(本体は完全撮影禁止)の解説があり

装飾文字や

使われている顔料について

「ケルズの書」の部屋を出ると、冒頭の図書館の「ロング・ルーム」に出る↓
古今の著作家の胸像が並ぶ↓ホメロスやら

↓シェークスピアやら

ここに展示されていたアイリッシュ・ハープは必見↓

実際に使われていたのだろう擦り切れ方をしている。これを見て「カロランもきっとこういうのを弾いていたんだろう」と思う。
↓カロランの像は旧アイルランド紙幣に描かれていたそうだが、ユーロになった今はなくなってしまった。
↓今はアイルランドでつくられた1ユーロにアイリッシュ・ハープが描かれているだけ↓

**
★考古学博物館
タラの丘から発見された国宝のブローチ

聖パトリックが使っていたとされる六世紀ごろの鐘↓

それを保護するためにつくられた豪華な入れ物↓



こういった豪華な工芸品というのはどこの博物館でも見られるが、多分ここでしか見られないのが泥炭地から見つかった人体↓

ピートあるいはボグと呼ばれる泥炭地は酸素を遮断してミイラ化させていった。
三体が展示されているが、どれも二十から三十代の男性。
紀元前一世紀から紀元後三世紀のあいだ頃と推察される。
王権からの生贄だったのか、戦って殺されたのかは不明。

↓その人物の顏を復元した蝋人形が置かれていたのだが…↓

昨夜夕食に入ったパブのバーテンダーとあまりに似ていてびっくり↓

今度あの店に行ったら(いつ?)知っているか本人にきいてみよう(^.^)

博物館で解散し、ミュージアム・カフェでランチにした。

なかなかおいしいパイでした。


バトラーチョコレート屋さんに寄ってからホテルに戻る

***

夜の「リバーダンス」ショーまでしばらくホテル近くのダブリンを歩く
ホテルすぐ前には2000年にかけられたミレニアム橋があるが、そのすぐとなりが通称「ハーフペニーブリッジ」↓

当時、ダブリン市内のリフィ川に橋はなく七か所で渡し船が運航していた。
1816年にこの橋をかけたのは、リフィ川に渡し船を運航していたウィリアム・ウォルシュという人物。
渡し船の老朽化対策として、当時やっと可能になっていた「鉄の橋を架ける」という対策をうった。
※世界最初の鉄の橋を訪れた時の話をこちらからごらんください
橋を渡るのが有料なのは当時あたりまえだった。

料金は「百年間」ということになっていたが、1919年まで徴収が続けられたそうな

川岸を歩いて、ダブリンの銀座・オコンネル通りに向かう。かもめがいっぱい待ってます。


オコンネルは19世前半に「カトリック刑罰法」と呼ばれた差別的法律を改正させた人物の名前。
この通りにはアイルランド独立への道を拓いていった人々の像がならんでいる

最も象徴的な建物が、1916年の「イースター蜂起」で占拠され、最後まで抵抗した中央郵便局↓

ギリシャ神殿風の立派な建物だが蜂起の鎮圧の際に砲撃されて壁だけが残るありさまだった
※映画「マイケル・コリンズ」の予告編にその様子が再現されています

アイルランドが完全な独立国となったのは1948年のこと。
建物内部に「イースター蜂起」を記念したプレートがある↓

ここは今でも中央郵便局である。
****
ホテルの近く、テンプルバー地区にあったアイルランド土産の店


ショーの前にしばらく休憩(^.^)
食事してから行こうなんて思わないこと。

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ダブリン市内観光~フェニックス公園、聖パトリック大聖堂

2019-08-22 10:00:00 | アイルランド
ダブリン市のすぐ外には周囲11㎞の壁に囲われた広大なフェニックス公園がある。元々は王様の狩場でもっと広かったそうな。今も鹿がおります。
↓入口

その名前↓フェニックス(不死鳥)は、もともとはアイルランド語(ゲール語)で「泉」という意味の言葉がなまったのだそうだ。

↓このオベリスクはウェリントン公を記念して1817年に建設が開始されたが金欠のために中断を重ね、彼の死後の1861年になってやっとオープンした。
四面にはワーテルローの戦いでナポレオン側から奪取した大砲のブロンズを使った記念プレートがはめこまれている。

↑高さ92mでヨーロッパで最大のオベリスク。
騎馬像も予定されていたが完成していない。
★アメリカの首都に聳えるワシントン・モニュメントのオベリスク(こちらは高さ169m)は、このダブリンのウェリントン記念塔の着工よりも後の1836年にデザインを公募・決定している。
この塔から影響をうけているのかしらん?


「なぜ、ダブリンにウェリントン公爵の記念碑があるのですか?」と、誰もが思う。
ウェリントンはダブリン生まれのイギリス人だったのである。
ウェリントン自身はそれを指摘されるのを好まず、それを言われると必ずこう切り返した。
「馬小屋で生まれたらみんな馬だというわけではないだろう?」


フェニックス公園内には動物園やアイルランド大統領公邸、アメリカ大使公邸もあって、治安はよいそうな。
**
公園からリフィー川の向こうのギネス工場が見える↓

★1759年にアーサー・ギネスによってはじまったこのビールは、現在では世界五十か国の工場で生産されているそうだが、原料、気候などの違いからダブリンのものとまったくおなじにはけっしてならないそうな。※帰国後の東京でも生のギネスをもう一度味わってみたが、たしかに、そうかもしれない

現在、工場見学ツアーは22ユーロ。最後にダブリン市内が見晴らせるガラス張りのバーにて一杯だけのませてくれるそうな↓
↓あ、あそこがそうですね↓小さく見えてます



**
○「ジョージアン(王朝)様式」は「ヴィクトリア(女王)様式」以前、18世紀の街並。
日本ならまだまだ江戸中期にこの整った町並みが出現していたのだ↓

イングランドのバースの街並がこのスタイルの代表格だがあちらは地元の石が使われている。
レンガでつくられているのがダブリン的。

ダブリン名物のひとつにジョウジアン様式の扉がある↓これはよく被写体になるもの

カラフルな扉もあるが、こういうシック色合いの方が合っている
↓こういった集合住宅に住む人々は散歩できる庭がほしいと思っていたので、住民専用の公園がつくられて住民たちだけがカギをもっている↓

↑現在でもカギを持っていないと入れません

***聖パトリック大聖堂に入る


↓盲目の吟遊詩人でハープ奏者★ターロック・オキャロラン(=トゥールロホ・オ・カロラン~アイルランド語・ゲール語の表記・発音)通称「カロラン」の墓碑↓1670年生まれというから芭蕉の二十年ぐらい後の人。同じようにパトロンに庇護されて国中を旅していた。

今回の旅でアイルランドの音楽を調べていてカロランがそのルーツにある人であることを認識した。現在でも五百曲を数える曲が伝わっているとネット辞典は言う。三百五十年以上前の人の曲をYoutubeで聴くことができる。←音が出ます
↑墓碑を捧げたのはシドニー・モーガンという女性小説家。ゲーテやルソーの影響を受けて、ブロンテ姉妹が生まれるより前に小説を出版していた人だった。ロンドンのヴィクトリア&アルバートに彼女の胸像があるそうだ。盲目のハープ奏者詩人の音楽をうっとり聴いている彼女の姿を思い浮かべた。

この大聖堂に葬られているなかでいちばん有名なのは「ガリバー旅行記」を書いたスウィイフトだろう↓

★ジョナサン・スウィフトは前出の盲目のカロランとほぼ同じ世代。この教会の主任司祭をしていたからカロランや小説を書いていたシドニー・レイディ・モーガンとも会ったことがあったかもしれない。
↑となりに葬られている「ステラ」と呼ばれていた女性は十四歳年下だったが、スウィフトが47歳の時に病で没してしまう。
スウィフトは意気消沈して葬儀にも出席できず、葬儀の灯りが見えるのもきらって窓辺からベッドを移動させたと伝わっている。
↓下はスウィフトの死後、名声が高まってから設置された記念碑群


有名人の墓碑がたくさん並んでいるのはどこの古刹も同じだが、ここにしかないものがこれ↓

↑この古い木製の板はもともと教会のチャプターハウス(会議を行ったりする教会内の重要な別室、聖具室になっていることもある)の扉だった
★CHANCE YOUR ARMという英語の慣用句はここからきている
1492年、勢力争いを続ける貴族バトラー家とフィッツジェラルド家の市街戦で、バトラー家の面々が教会のチャプターハウスに逃げ込んだ。追ってきたジェラルド・フィッツジェラルドだったが、突然「こんな抗争を続けていてはダブリンのためによくない、和解をしよう」とおもいたった。立て籠もるバトラー家の面々に扉を通じて呼びかけるが相手は罠だと思って応じない。
ジェラルドは木製の扉に穴を開けさせ、本気で和解を望んでいることを示すために自分の腕を中に入れて握手を求めた。相手に切り取られてしまうかもしれないリスクをとってでも和解をしたいと伝えたのである。バトラー家側は握手を受け入れた。
CHANCE YOUR ARM=腕にチャンスをあたえよ、という言葉は、危険を冒しても望みの結果を得るための行動をとることを指す慣用句として使われるようになった。


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