東洋文庫については※HPにリンクいたします
中国から日本に入ってきた仏教典は漢字に翻訳されたものだった。
探求心のある日本の僧が「元々の梵語(サンスクリット語)で理解したい」と、思わなかったはずがない。
↓これは最澄の弟子の円仁が唐で手に入れて持ち帰った、サンスクリット語を理解するための・いわば辞書である↓※円仁について、つい先日比叡山で知った※ブログにリンクします
↑巻物の最初の部分は円仁が付け加えた解説部分のよう↑
↑冒頭「梵語千字文」という文字からはじまり何度もでてくる↓展覧会での解説版↓
↑義浄はインドに十四年も滞在し・サンスクリット語(梵語)を学び・四百部のサンスクリット語経典を唐に持ち帰って翻訳した人物。
西暦713年に79歳で没した。
日本から円仁が西安に入ったのは西暦840年とされる。
つまり、百年前に先人が訳したサンスクリット語辞典を写すことを許されたのである。
↑赤字で注釈文字を入れているのが本気で学んだのを感じさせる。
円仁が付け足したのかしらん。
知るべくもないが、読めないサンスクリット語の文字も・漢字も、ひとつひとつ丁寧に書かれている。
*
日本の僧の探求心は、二十世紀はじめの川口慧海の旅に受け継がれていた。こちらはチベット人になりすまして渡航していたのである。
最澄も義浄も円仁も川口慧海も、
おいそれとたどり着けない場所にある真理を求めて旅をした。
今、ネットが発達してどこへでも簡単にアクセスできる時代になっているように見えるが、その地を訪れなければ知ることができないことはいくらでもある。いくらでもあるどころか、ネットでアクセスできることは都合よく切り取られたほんの一部なのだ。
中国から日本に入ってきた仏教典は漢字に翻訳されたものだった。
探求心のある日本の僧が「元々の梵語(サンスクリット語)で理解したい」と、思わなかったはずがない。
↓これは最澄の弟子の円仁が唐で手に入れて持ち帰った、サンスクリット語を理解するための・いわば辞書である↓※円仁について、つい先日比叡山で知った※ブログにリンクします
↑巻物の最初の部分は円仁が付け加えた解説部分のよう↑
↑冒頭「梵語千字文」という文字からはじまり何度もでてくる↓展覧会での解説版↓
↑義浄はインドに十四年も滞在し・サンスクリット語(梵語)を学び・四百部のサンスクリット語経典を唐に持ち帰って翻訳した人物。
西暦713年に79歳で没した。
日本から円仁が西安に入ったのは西暦840年とされる。
つまり、百年前に先人が訳したサンスクリット語辞典を写すことを許されたのである。
↑赤字で注釈文字を入れているのが本気で学んだのを感じさせる。
円仁が付け足したのかしらん。
知るべくもないが、読めないサンスクリット語の文字も・漢字も、ひとつひとつ丁寧に書かれている。
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日本の僧の探求心は、二十世紀はじめの川口慧海の旅に受け継がれていた。こちらはチベット人になりすまして渡航していたのである。
ネパールのマルファを訪ねた時、川口慧海が滞在した家がミュージアムになっていた。
※その2006年のブログにリンクします
※その2006年のブログにリンクします
最澄も義浄も円仁も川口慧海も、
おいそれとたどり着けない場所にある真理を求めて旅をした。
今、ネットが発達してどこへでも簡単にアクセスできる時代になっているように見えるが、その地を訪れなければ知ることができないことはいくらでもある。いくらでもあるどころか、ネットでアクセスできることは都合よく切り取られたほんの一部なのだ。