遊び心が時代を超えて伝わってくる(^^)平成10年からの大修理の際につくられたレプリカ↑
↑上の写真中にある18世紀江戸時代のホンモノ、見つけられますでしょうか↑
「勝興寺の七不思議」のうち、四番目の「猿」がこれなのだが、本当は何?
↓レプリカを後ろからみるとわかる↓
↑このふんどしは「力士₌すもうとり」だ(^^)
2020年六月に羽黒山の本殿を支えていた真っ黒な「力士」を思い出した
※その日のブログにリンクします
**
午前十時少し前の「磯はなび」ロビー↓
昨夜はお祭で遅かったのでゆっくり出発
海を見ているのが気持ち良い。
↑伏木駅に●「如意の渡」の弁慶と義経の像↑安宅関の話はこの話がルーツにあるのではないかといわれている※「日本伝承大鑑」に詳しく解説されています
渡し舟が運航してた平成21年まで、この像は港にあったのだそうだ。
渡し船のあった河口からほどちかい高台は、奈良時代に大伴家持が五年間着任していた国府があった場所※高岡市万葉歴史館のHPにリンクします今回の旅では万葉歴史館まで言及する時間がありませんでした、次の機会にぜひ(^.^)
↓大伴家持が滞在した国府があった場所にある浄土真宗の寺院を訪ねる↓
●勝興寺↓この唐門はもともと京都の興正寺の勅使門だったのを明治に移築したもの↓↓通常は柵があって通れなくしていただろう名残の穴がある
寺のルーツは蓮如の時代にあるが、現在の場所に移転したのは天正12年(1854)
※高岡市のHPに分かりやすく書かれています
↑現在見られるものは前田家11代の治脩(まえだ はるなが)の時代=18世紀末のもの
なぜ彼がこの寺を立派に復興させたのか?↑ガイドのTさんが分かりやすく説明してくださった↑
治脩は六代藩主吉徳の十男だった。
兄がたくさんいるので藩主になることはないだろうと、9歳の時にこの寺の住職にさせられた。
↑小柄な少年はこの女性用の駕籠でこの寺に到着し↑その後の二十六年をここで生きた。
その間、兄たちの四人が藩主になったが三人は22歳、25歳、19歳で死去。
最後にすぐ上の兄が藩主についたが十五年経っても後嗣にめぐまれず、僧籍にあった弟を還俗させることにしたのである。
後嗣なく引退した兄を継いで藩主となった治脩は、自分を育ててくれた寺を立派に建てなおした。
※兄は引退の七年後に後嗣を相次いで二人得て、その両方が治脩の養子となっている
↑本堂内部 ↑全国の重要文化財建築のなかでも八番目の大きさ↑
1795年に京都西本願寺阿弥陀堂をモデルに建造されたもの。
↑正面の柱↑「龍が月を見ながら杯をかたむけているところ」だそうな(^.^)
↑こちらが冒頭にレプリカ写真を載せた
本堂の屋根四隅を支える「猿」の実物画像↑
ホンモノは改修を終えて元のところに戻されたようなので残念ながら見られません。
「七不思議」のひとつである三葉の松
←叩くとキンキンと音がするから本当に隕石かもしれない
←実成らずの銀杏
↑僧たちが生活していた「本坊」部分の台所を外側からみたところ↑
※伽藍全体の説明があるお寺のHPにリンクします
↑内部は豪快な木組みになっていて↑井戸まで備えている↑
↑書院↑一段上がった最上の席との間を立派な欄間が隔てている↑さらに横には勅使のための席が用意されている。
襖の緑と白のデザインは
↑残っていた18世紀当時のデザインを復元している。
本坊に使われている木材は、18世紀に建てなおされる以前の木材も再利用されていると考えられ、平成10年からの修復においてもできるだけ古い材料を使って行われている↑
費用も手間もかかるが、これによって富山県二番目の国宝指定もあるかもしれない、とか。
寺が所有している名品のひとつが京都の洛中洛外図↑
↑秀吉が建立した京都の大仏殿(焼失)↑一階部分の扉が開いて蓮の台座部分がちらりと見えている↑
※展示はレプリカ
奥の入れないエリアの建物↑寺を復興させてくれた11代治脩を祀ってあるそうだ↑
↑上の写真中にある18世紀江戸時代のホンモノ、見つけられますでしょうか↑
「勝興寺の七不思議」のうち、四番目の「猿」がこれなのだが、本当は何?
↓レプリカを後ろからみるとわかる↓
↑このふんどしは「力士₌すもうとり」だ(^^)
2020年六月に羽黒山の本殿を支えていた真っ黒な「力士」を思い出した
※その日のブログにリンクします
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午前十時少し前の「磯はなび」ロビー↓
昨夜はお祭で遅かったのでゆっくり出発
海を見ているのが気持ち良い。
↑伏木駅に●「如意の渡」の弁慶と義経の像↑安宅関の話はこの話がルーツにあるのではないかといわれている※「日本伝承大鑑」に詳しく解説されています
渡し舟が運航してた平成21年まで、この像は港にあったのだそうだ。
渡し船のあった河口からほどちかい高台は、奈良時代に大伴家持が五年間着任していた国府があった場所※高岡市万葉歴史館のHPにリンクします今回の旅では万葉歴史館まで言及する時間がありませんでした、次の機会にぜひ(^.^)
↓大伴家持が滞在した国府があった場所にある浄土真宗の寺院を訪ねる↓
●勝興寺↓この唐門はもともと京都の興正寺の勅使門だったのを明治に移築したもの↓↓通常は柵があって通れなくしていただろう名残の穴がある
寺のルーツは蓮如の時代にあるが、現在の場所に移転したのは天正12年(1854)
※高岡市のHPに分かりやすく書かれています
↑現在見られるものは前田家11代の治脩(まえだ はるなが)の時代=18世紀末のもの
なぜ彼がこの寺を立派に復興させたのか?↑ガイドのTさんが分かりやすく説明してくださった↑
治脩は六代藩主吉徳の十男だった。
兄がたくさんいるので藩主になることはないだろうと、9歳の時にこの寺の住職にさせられた。
↑小柄な少年はこの女性用の駕籠でこの寺に到着し↑その後の二十六年をここで生きた。
その間、兄たちの四人が藩主になったが三人は22歳、25歳、19歳で死去。
最後にすぐ上の兄が藩主についたが十五年経っても後嗣にめぐまれず、僧籍にあった弟を還俗させることにしたのである。
後嗣なく引退した兄を継いで藩主となった治脩は、自分を育ててくれた寺を立派に建てなおした。
※兄は引退の七年後に後嗣を相次いで二人得て、その両方が治脩の養子となっている
↑本堂内部 ↑全国の重要文化財建築のなかでも八番目の大きさ↑
1795年に京都西本願寺阿弥陀堂をモデルに建造されたもの。
↑正面の柱↑「龍が月を見ながら杯をかたむけているところ」だそうな(^.^)
↑こちらが冒頭にレプリカ写真を載せた
本堂の屋根四隅を支える「猿」の実物画像↑
ホンモノは改修を終えて元のところに戻されたようなので残念ながら見られません。
「七不思議」のひとつである三葉の松
←叩くとキンキンと音がするから本当に隕石かもしれない
←実成らずの銀杏
↑僧たちが生活していた「本坊」部分の台所を外側からみたところ↑
※伽藍全体の説明があるお寺のHPにリンクします
↑内部は豪快な木組みになっていて↑井戸まで備えている↑
↑書院↑一段上がった最上の席との間を立派な欄間が隔てている↑さらに横には勅使のための席が用意されている。
襖の緑と白のデザインは
↑残っていた18世紀当時のデザインを復元している。
本坊に使われている木材は、18世紀に建てなおされる以前の木材も再利用されていると考えられ、平成10年からの修復においてもできるだけ古い材料を使って行われている↑
費用も手間もかかるが、これによって富山県二番目の国宝指定もあるかもしれない、とか。
寺が所有している名品のひとつが京都の洛中洛外図↑
↑秀吉が建立した京都の大仏殿(焼失)↑一階部分の扉が開いて蓮の台座部分がちらりと見えている↑
※展示はレプリカ
奥の入れないエリアの建物↑寺を復興させてくれた11代治脩を祀ってあるそうだ↑